Ebalog

芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

父親

 ここ2年くらいは、両親と話をする機会がめっぽう多くなった。それまでは、両親と話をすると言ったら、たまに実家に帰省した時くらいであり、特に話をする必要性を感じていなかったというのが正直なところである。特に、父親と対面して、サシで話をすることなど、これまでに何回あったことだろうか。おそらく5本の指に入るくらいだろう。
 そのような状況だったものの、最近は、父親が仕事で度々上京するものだから、父親と対面して話をする機会が多くなった。本日は、大塚の「こなから」という店で、酒を飲みながら話をしていた。日本酒の2杯目からだろうか、父親も気分が良くなってきたのであろう、饒舌になってきた。ところが、父親の話は、単なる昔話ではなく、幼い頃の心情の吐露であった。自分のことに関しては寡黙であった父親が、これまでに自分自身のことを、聞いてもいないのに話をすることはまずなかった。いや、こちらから聞いたとしても話すことはなかった。その父親が、自分の心の内を話し始めたのである。どのような幼少期を送ったか、どのような経緯で母親と結婚をしたか、どのようなつもりで仕事をしてきたのか。 私は、父親が生きているうちに話を聞けて、嬉しく思っている。
 やはり、人間は、「プラス+マイナス=ゼロ(ちょっとのプラス?)」と相場が決まっている。世の中には、程度の差こそあれ、また、意識的にも無意識的にも、親との間にわだかまりがあることが多いかもしれない。それは親に対する「思い込み」であったり「コンプレックス」であったり「蔑み」であったり。しかし、親は馬鹿ではない。だてに数十年を生きてきていない(中には何十年たっても「学び」のない方もいるが)。このブログを読んでいる方の中には、親に対して何らかのわだかまりがあり、親を遠ざけている方がいるかもしれない。しかし、その「親を遠ざける」ことによって得られる(一見して)「平穏」という「プラス」には、例えば、親が亡くなり「親と分かりあうことをしなかったことの後悔」という「マイナス」が伴うかもしれない。一方、勇気をもって「親と分かりあう努力をした」という(束の間の)「マイナス」には、その後の親との関係が良好になるという(持続的な)「プラス」が待っているかもしれない。いずれにせよ、人間の人生は「フェア」にできていると思う。

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癒し

 「癒し」というと、商業的意図も絡んで、温泉、エステ、アロマ、懐石料理等々、何か特別な手段によるところが世の中には散見されるが、果たしてどうだろうか。「癒し」とはそのような何か特別な手段を借りないと得られないものなのだろうか。観点を変えると、日常生活の中で得られる「癒し」とはどういうものなのだろうか。
 私にとっての「癒し」の一つは、実は、「温泉」である。ただ、温泉に求める物は、主に身体的癒しであり、また、温泉は遠隔地にあるゆえ、日常生活の中で得られるものではない。私にとっての「癒し」は、「某ガレージ(左写真)」である。
 私は幼いころから自動車が大好きであった。父親が若い頃、2輪・4輪のアマチュア・レーサーであり、また、常に自動車に触れる仕事をしていたことの影響を受け、物心ついた時から自動車が大好きであった。幼稚園児の頃、トンネル内で自動車のバックライトを見ただけで車名を言い当てたくらい、そのくらい好きだった。理由は分からない。ただ、音・デザイン・におい・自動車を扱う場所の雰囲気すべてが、私にとっては心地よいのである。
 したがって、「某ガレージ」に行くと、心が癒される。そこには、常にお客さんが戯れ、自動車談義、人生談義に花が咲く。時には人生相談にも乗ってくれる。(愛情を込めて)不良のおじさん達がメインであり、私などまだまだ若造で、いじられまくりだが、それも心地よい。某ガレージ代表のS氏(写真右)は、私のクライアントでもあるのだが、「Z」が付く前のフェアレディのスペシャリストである。S氏には、フェアレディでも人生でもお世話になっている。仕事を通じて毎日を立派に生きているS氏には、いつも勉強させてもらっている。
 結局のところ、真の「癒し」とは、自分の心の持ちようであると思う。何でもいいから、自分の心が和むような事・場所を見つけられれば良いのだと思う。

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指摘

 言葉で表現することは、時として非常に難しいことであるが、今回は、「指摘」という言葉で表現したい。「指摘」とは、「大切な点や注意すべきこと、欠点や過失などを具体的に取り上げて指し示すこと。」とする辞書がある。「叱責」という言葉もあり、「叱責」とは「失策や怠慢などを叱りとがめること。」とする辞書があるが、個人的には、「叱責」はネガティブなイメージがあり、好きではない。
 今週は、他にも仕事が山積している中で、納期までの時間が短く、(ある意味)難易度の高い仕事に従事していた。ただ、会計専門家にとっては、普通にやればできる仕事である。私は、第一義的には、ベトナム人のアカウンティング・マネジャーのHさんに任せた。Hさんは、「OK. Only one day.(1日で終わるよ。)」と言う。確かに、Hさんならできるだろう、そう思った。ところが、蓋を開けてみると、どうもおかしい。ボロがボロボロ出てくる。私は本日帰国するのだが、この期に及んでボロが出てきた。Hさんの作業の後に2日間程度で終わると想定していたのだが。さすがに、普段はいい顔をしていた私も、今日はHさんに「指摘」した。「この会社にこの取引がないわけがないでしょう。あなたは何をチェックしてたのか。」と。普段は、いちいち「言い訳」をしてくるHさんも、今日はしおらしくしていたのが印象的だったが、結局のところ、Hさんの実力にしては、仕事の質が低かったのである。
 Hさんは会計歴16年のベテランだ。Hさんなら、もっと質の高い仕事ができたはずだと心底思えたから、今日は「指摘」した。そうしたら、Hさんをいたずらに傷つけることなく、結果としては成果を出せた。時には「指摘」も必要なのだなと、心底思えた。「指摘」は「感情の垂れ流し」ではない。「正論」と「事実」がしっかりと噛み合っている時の「指摘」は非常に有効である、そう思えた。ただ、「正論」が分からない相手には「指摘」は無効かもしれない。そのような相手には、「指摘」ではなく、「(単なる)叱責」と映るかもしれない。
 外国で働くということは、ある意味、「鉄下駄」を履いて仕事をするような感じかもしれない。人間として勉強になることが多い。

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ブランドと実力

 実力があるから売れるのか、売れるから実力があるということなのか。ブランドがあるから売れるのか、ブランドがないと売れないのか。どんな業界・業種であれ、ビジネスをやっていく上で、誰しも悩むことであろう。特に、ビジネスという「商業化」ベースで考えた場合、世の中では、「いかにブランディングし、商業ベースに乗せるかが重要である。」といったことを思わせる事例が散見される。ある意味、その点は重要であり、自分自身も、例えば、野菜を買う場合、日本産を選ぶのが通常である。これもひとえに、日本人の先輩方が築き上げてきたブランドの賜物である。
 さて、身近な話をすると、これも世の中で散見されることだが、「口コミ等により結果として長蛇の行列ができるラーメン屋」と「雑誌等のメディアを利用し集客するラーメン屋」はどうだろうか。私は、「口コミ等により結果として長蛇の行列ができるラーメン屋」が好きだ。しかも、僻地にあればあるほど興味をそそり、うまかった時の感激はひとしおである。一方、「雑誌等のメディアを利用し集客するラーメン屋」の場合、期待はずれだった時のショックは大きい。なぜなら、ラーメンはカロリーが高いため、代謝の落ちてきている私にとっては、いかにうまいラーメンを食べ満足するかが重要だからだ。おそらく、いかにメディアを利用して集客しても、うまくなければいずれビジネスは成り立たなくなるだろう。一方、うまいラーメンを作り続けたからこそ、客が客を呼び、結果として繁盛するのだろう。つまりここで言いたいのは、「実力が結果を生む」ということであり、ビジネスに関して言えば、「真剣に仕事をした結果儲かる」ということである。
 しかしながら、一方で、いくら良いものでも、人々に「認知」されないとどうしようもない。例えば、いかにうまいラーメンを作れるとしても、誰も知らないような僻地にあり、客が全然来ないというのでは、商売が成り立たない。一方、誰も知らないような僻地であっても、例えば、有名人が出店した場合には、うまいかどうかは別にして、客が来るだろう。
 このように、「実力があるから売れるのか、売れるから実力があるということなのか。ブランドがあるから売れるのか、ブランドがないと売れないのか。」ということは、非常に難しい問題である。あまりお化粧しすぎるとそれは粉飾だし、あまりにもみすぼらしいと人の興味をひかない。ただ、やっぱりこういう結論になってしまうのだが、「今ある仕事を、1つ1つ、真剣に、地道にやる。」しかない。それと同時に、「世の中に自分自身を認知して頂く作業」も「ある程度」はする。現時点では、そのように考えて仕事をしている。結果がどう出ているか、どのように結果を出していくか、折を見て振り返ってみることも忘れてはならない。

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フェイ・ダナウェイ

 映画「俺たちに明日はない」で、ボニー・パーカー役のフェイ・ダナウェイは、左写真のように、帽子をかぶっているシーンも素敵だが、私個人的には、ウォーレン・ビーティ演じるクライド・バローと出会った当初のハンバーガーショップでのシーンが印象に残っている。
 フェイ・ダナウェイ演じるボニー・パーカーは美しい金髪でそれだけでも素敵なのだが、クライド・バローと出会った当初は、男性で言えば、「ペタっとした横分け」になっていた。ボニー・パーカーがハンバーガーをかじっている姿をクライド・バローが微笑ましそうに見ていて、ふと、「I don’t like it.」と、髪型を指摘する。それを受けてボニー・パーカーは、手で髪をとかし、よりセクシーな髪型に直したのだった。クライド・バローはご満悦そうであった。
 男性としては、女性が男性の指摘を素直に聞き入れ、男性にとってより魅力的になると、嬉しいものだ。ただし、映画の世界ではなく、日常生活においては、「言い方」に細心の注意を払う必要があり、女性の「面子」を傷つけてはならないことは、言うまでもない。

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口論(ビジネス上)

 前述「市場」で登場したHangさんの名誉のために、彼女の輝かしい一面も書いておこう。彼女は結婚し、二児の母である。毎朝5時に起き、美貌を保つためのウォーキングをしてから、子供のために食事を作り、子供を学校に送り届け、7:30にはオフィスに到着する(始業は8:00)。時には19:00過ぎまで働き、帰宅する。頑張り屋である。クライアントを訪問する前日に、Hangさんに、「明朝は何時にオフィスを出る?」と聞くと、必ず、「It’s up to you. I come to the office untill 7:30 every morning.」という返答が返ってくる。私は、「たしかに。」と答えるほかない。夜遅くまで仕事をした翌日は、私は8:00までに出社しないことがある。ごもっともである。また、彼女は面倒見がよく、Cafe su da(ベトナム風アイスコーヒー)を入れてくれたり、果物をむいてくれたりする、優しい面もある。ただし、彼女に余裕がある時に限る。
 さて、そんな彼女とも、仕事上の付き合いは早いもので1年。英語でコミュニケーションをとるのだが、お互いに英語は母国語でないため、当初は60%くらいしか理解できなかった。彼女は「Tax」のことを「タ」と発音するのだが、当初はそれすら分からなかった。そのような状況であっても、仕事上話をしなければ先に進まないので、なんとか話をしていくうちに、今では、英語で口論(もちろん、ビジネス上の)をするまでになった。現在はベトナムも繁忙期であるため、忙しい。昨日も、あるクライアントの問題をめぐって、二人とも熱くなり、口論をした。彼女は譲らない。私は、仕事を統括する立場上、すべてを容認するわけにはいかない。そんな中で私がふと、「しかしながら、俺たちも口論をするまでになったんだね。お互いに英語も上達したのかな。」と言うと、彼女も、「たしかに。上達したね。」と言って、お互いに笑った。
 海外で働くということには、日本と「同じ面」と「違う面」がある。どちらか一方だけをクローズアップしても先には進まないし深みが出ない。私は、両者をバランスよく認識しているつもりだが、大変なことは多い。しかし、上記のように、口論をしつつも笑える状況は、ある意味、「やりがい」があるということだ。こういうことを日々確認しながら、自分の行き先を、日々「選択」している。

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仲間

 私には、ベトナム人会計士の良き仲間がいる。名前はHaiさん。Haiさんは、年も経験も私より若い。しかし、ビジネスマンとしてしっかりしており、ユーモアがあり、信頼できる奴だ。
 思えば、2009年3月からここベトナムと日本を行き来するようになり、彼にはいつも助けられている。もちろん、仕事での付き合いだが、時には精神的にも助けてくれる。ベトナムに来た当初に「いや~、右も左も分かんないから大変だよ。」と弱音を吐くと、「Mr. EBJ、ステップ・バイ・ステップだ。大丈夫だ。」と言ってくれた。そして今日も、ミーティングが終わった時に、私の状況を察したのか、「Mr. EBJ、初めての仕事は勝手がわからないから、骨が折れるよな。」と言ってくれた。自分も忙しくて大変なはずなのに、いい奴だ。
 そんな彼なので、旧正月前に彼の事務所のパーティーがあった時、私は相当多忙だったが、なんとか挨拶をしたいと思い、急いでワインを買ってパーティーに駆け付けた。この「心の衝動」こそ、人を動かす原動力だ。なんと素晴らしいのだろう。しかも国境を越えてだ。貨幣的価値では測定不能だ。

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市場

 夕方にベトナム人会計士とのミーティングが終わり、その会計士のオフィスを出たところで、同席した私の事務所のベトナム人スタッフHangさん(女性、40歳)が、「(ラップトップの入った)荷物をオフィスに持って行ってくれ。」という。「タクシーで帰るんだから支障はないはずだ。」という。「なぜ?」と理由を聞いたところ、「これから市場に買い物に行くのだが、大事なパソコンの入った荷物を持って市場を歩くの危険だ。ひったくられる可能性がある。」という。「だったら、一旦オフィスに荷物を置いてから市場に行けばいいのではないか?」と言うと、「オフィスに置いてあるバイクで家に直接帰りたいから、とにかく持って行ってくれ。」と言う。本当の理由だ。自分にとって効率のよい行動順序を選んだのだ。「しょうがないな。」と思いつつ、「自分は彼女の上司なんだけどな。。。」と思いつつ、結局持って帰ることにした。ちなみに、私はお腹がすいていたので、オフィスに帰る前に、重い荷物を2つ持ちながら、「Hu Tieu(細い米麺)」屋に行き、食事をしてからオフィスに帰った。
 その後オフィスに帰ったところ、なんと、彼女も別のタクシーでオフィスに到着したところだった。しかも、オフィスの玄関に近い、べス・ポジにタクシーを乗り付けている。彼女と再会した際、ちょっと自分が情けなくなったので、「こういう形で荷物持ちはもうやらないよ。」と言ったら、「市場からのタクシー代は自分で出したんだからね。」と言う。最近、いちいち「かぶせ」てくる。「あたりまえだよ。きみはプライベートで市場に行ったんだからさ。」と言うと、しばらく黙り、一緒にエレベーターに乗り、オフィスに入った。彼女はそそくさとオフィスを出て行った。私は着替えを始めた。ちょうど、パンツ一丁になったところだった。すると、「開けろ、開けろ。」と言いながらドアを叩く音がする。彼女だ。急いで服を着てドアを開けると、「次男坊のために買ったミルクを忘れた。」と言いながら、またそそくさと出て行った。
 ここまで長々と書いて、実はオチがないのが悔しいのだが、要は、振り回されたということである。女性の皆様には失礼かもしれないが、万国共通、女性にはこういうところがあるような気がする。

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お金

 お金の定義は様々であって、どのような観点から定義するかで異なる。会計的にいえば、貨幣的価値で測定できるもののみが会計の対象になるわけだから、お金は会計の基本である。また、お金は、ただそれだけで価値のあるものだから、価値保存機能がある、などという言い方もする。
 ただ、ここでは、そんな観点からではなく、(結局難しい言葉を使ってしまうが)「交換手段」としてのお金に着目してみたいと思う。
 昔は物々交換だった(のだろう)。例えば、A家では大根がたくさん採れる、B家ではみかんがたくさん採れるとするならば、互いに互いのものが欲しかったり、食べきれなかったり、日頃お世話になっているからということで、そこには「交換」があったと思う。もっと言うと、単なるモノの交換だけではなく、「いや~、大根おいしかったよ。ブリ大根にしたら最高だったよ。」とか、「今年のみかんは甘いねえ。気候が良かったからね。」などと、そこには、モノの交換を超えたやり取りがあったに違いない。つまり、極論すると、お金がなくとも、人間として豊かに生きていけた時代があったはずだ。ここではお金自体について語るつもりはなくさらっと行くが、お金は本来、こういうやり取りの「媒体」であるはずだ。確かに、「金融」の発達は必要で、「金融」がなければ世界はここまで発達しなかったと考えられるが、一方で、2008年秋頃からの経済不況を引き起こしたりもする、怖いものである。
 結論としては、現在においても、そのような「気持ち」をもってお金を使ったりお金のことを考えられたら、気持ちが楽になるのではないかと思うし、行動も変わってくるのではないかと思う。これは自分の資金使途を正当化することになるかもしれないが、細かいことは気にせず、気持ちよくお金を使いたいと思っている。ただ、お金を使うというのは「フロー」の概念だから、会計士としては、「貯金」という「ストック」の概念についても十分考察する必要がある。近いうちに、「貯金」について考察してみたいと思う。

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会計士の三種の神器③

 最後は、筆記用具だ。以前は、多種多様の筆記用具を持ち歩いていたが、現在ではそれらが厳選され、最も重要な筆記用具は、四色ボールペン(シャープペンシル付)、ホッチキスくらいだろう。
 今思い返すと、新人の頃から数年間は、とにかく監査調書の「見栄え」を気にしすぎており、肝心の深度は問題である。もちろん、監査調書を作成することも重要な仕事の一つだが、最も重要なのは、深度ある分析・検討だ。現在はその点を意識しているので、四色ボールペン(写真下の赤いものは手帳)で十分だ。

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会計士の三種の神器②

 次は、電卓(写真の赤いものは電卓ケース)だ。これなしには仕事にならない。女性の先輩会計士で、珠算の影響か、暗算が物凄く、電卓を使わずとも6桁以上の数字の足し算ができる方がいらっしゃったが、稀だろう。
 資格の学校の講師で、「左手で電卓を叩けない会計士は潜りです。」などと豪語している方がいらしたが、実務は受験とは違うので、そこまでの電卓早叩きは必要ない。ただ、左手で電卓を叩き、右手で字を書く方法は、効率が良いことは確かだ。

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会計士の三種の神器①

 新人の時、先輩会計士に、「この仕事は体力勝負だ。くれぐれも腰には気をつけろ。」と言われたものだ。ところが、現在は腰痛持ち。我々の仕事では、クライアントを訪問し、クライアントで仕事をすることが多いため、持ち運ぶ道具が多い。ラップトップ、電卓、筆記用具、専門書等々、重いものが多い。
 そこで必要となるのが、大きな、タフな鞄だ。写真の鞄はTUMIのレザーで、2代目。1代目はナイロン(アメリカ軍が防弾チョッキに使用しているバリスティック・ナイロンを改良したもの)のもので、修理しながら10年使った末に、「新規購入代金<修理代」となったため、リタイアとなった。なお、アメリカ合衆国でTUMIを購入すると、ネーム・プレートへの刻印(写真下)がサービスとなる。いずれにせよ、会計士にとって、大きな、タフな鞄は、三種の神器No.1であろう。

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腰パン

 結論から言うと、このようなことをいちいち問題として取り上げることをやめるべきである。日本人は、変なところに厳しく、変なところに甘い。もっと大事なことがあるだろう。腰パンが社会的に問題があるのか。どこの国か忘れたが、開会式での入場行進の際、ビデオカメラを持ち撮影しながら入場する選手がいたが、比較の問題として言うならば、そちらの方が問題ではなかろうか。
 日本オリンピック委員会(JOC)には国際大会での「代表選手団公式服装規程」という決まりがあり、「自覚と誇りを持って選手団公式服装を着用しなければならない」と定められている。 「腰パン」だと、「自覚」と「誇り」に欠けるというのか。
 「若い者は・・・」という人がいるが、年配者にも「???」な人はたくさんいる。何か他人の粗探しをしてそれを指摘するのではなく、ポジティブな現象を願い、もっと前向きな言動をすべきである。
 国母和宏選手の着こなし、恰好良いと思うが。こんな着こなしができて似合う人は、そういないと思うが。個性の範囲内ではなかろうか。

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こだわり

 「拘り」と漢字で書くと、ネガティブな印象を受けてしまうが、ここでは、ポジティブな概念として「こだわり」を捉えたい。特に仕事においては、「ブレない軸」が必要である。軸がグラグラしていると、何のために何をやっているか、自分を見失うことになる。しかし、「こだわり」を持って仕事をすること、つまり、仕事の対象に思い入れを持って寄り添って自分を出していくこと、そこに軸があるし、価値がある。そのような意味で、、「こだわり」は非常に重要である。一流のコンサルタントの中には、プレゼン資料中の表の罫線の幅といった細部にまでこだわると言うから、ある意味、オタクに近いものがある。
 しかしながら、他者を意識しない、我に入った「拘り」には注意したい。そのような「拘り」は、他者を不快にさせ、結果的には自分を破滅に追い込むことになる。何かにこだわるのはいいが、「あれ?何かおかしいな?」と感じたら、一度その対象から離れてみることが重要である。ちょっとズルいし、矛盾するかもしれないが、「常に着脱可能」な柔軟さも重要である。
 なお、(性格、食事などに)「偏りのある人」は認知症になりやすいとのことなので、殊のほか留意が必要である。

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 「宝」というのは非常に主観的な概念であり、何を「宝」とするかは人または人間集団によって大きく異なる。命、経験、友情など、個人的な有形無形の大切なものも「宝」と呼ばれることが多く、形のあるものから形のないものまで様々である。
 ノルディック複合選手の阿部雅司氏は言う。
 「補欠となった経験が私の宝である。補欠を乗り越えた自分を誇りに思う。それがあったからこそ今の自分がある。」
 アルベールビルオリンピックでは、自分の後輩達が選手として選ばれ、自分は落とされた。当時のノルディック複合部長は、「当時の阿部は若干勢いがなかったということで落としたが、苦渋の決断だった。」と言う。補欠となったことが分かった時、阿部氏は思わずロッカールームから走って出て行ってしまったそうだ。当時はそれくらい、「補欠」となったことはつらい経験で、「補欠」は「宝」の顔をしていなかった。ところが、次のオリンピックでであるリルハンメルオリンピックでは、ノルディック複合団体選手に選ばれ、見事金メダルを獲得している。アルベールビルオリンピックで選手に選ばれた河野孝典・荻原健司にとっても、先輩である阿部氏の存在は、いい意味でプレッシャーになっていたことが窺える。
 成育歴からして、これまでの私は、スポーツに興味を示さなかった。しかしながら、スポーツには「ドラマ」があることが分かった。スポーツを単なる競技としてしか捉えていなかった自分には「観察力」が欠如していたと言うほかない。今後は、スポーツにおける選手の生き様に着目していきたい。

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固定資産の減損

 減損会計(げんそんかいけい、impairment accounting)とは、資産の収益性が低下して投資額の回収が見込めなくなった場合、当該資産の帳簿価額にその価値の下落を反映させる手続きをいう。
 減損会計を理解する上では、次の4つの要素について、趣旨・具体的内容などについて、しっかりと理解する必要がある。
 ①資産のグルーピング
 ②減損の兆候
 ③減損損失の認識
 ④減損損失の測定
 なお、減損会計は、経営上は、単なる固定資産の簿価切り下げにとどまらないのが通常であると考えられる。ビジネスの収益性が低下しているからこそ減損会計を適用するのであって、単なる固定資産の価値のみならず、ビジネスそのものの価値が問われていると言わざるを得ない状況が多々ある。この点、「『正味売却価額』が高い」ことを理由に減損処理を見送っているケースが散見されるが、そもそも、「正味売却価額で固定資産を評価すること自体」の意味を考えてほしい。「ビジネスで使用する固定資産を売る時の価値で評価する」⇒「ビジネスをやめることが前提」、ではないだろうか。
 今後は、固定資産の減損の詳細について考察していくことにする。

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St. Valentine’s Day

 バレンタインデー、あるいはセントバレンタインデー(St. Valentine’s Day)は、2月14日に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる。もともと、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが、これは主に西方教会の広がる地域における伝承である。聖ウァレンティヌスを崇敬する正教会の広がる地域では、西欧文化の影響を受けるまでこのような習慣はなかった。
 バレンタインといえば、高校生時代の国語教師(以下「I氏」とする)の言葉を思い出さざるを得ない。I氏の授業は、65分の授業のうち半分以上が「雑感」で占められ、後半になってやっと、しかし、うまい具合に、本論(国語の授業)に入っていく。バレンタインデーに、男子生徒に向けて、常々I氏が言っていたことがある。「バレンタインデーにチョコがほしかったら、まずはホワイトデーに女性にプレゼントをあげろ。一年がかりだ。そうすれば、うまく循環ができてくるはずだ。」と。説得力のあるようなないような、という感じであったが、I氏は素晴らしい引き出しをたくさん持っている。
 その引き出しの一つを紹介する。授業でI氏は、ユーミンの以下の歌詞を取り上げた。
  あなたを思い出す この店に来るたび
  坂を上って今日も 一人来てしまった
  山手のドルフィンは 静かなレストラン
  晴れた午後には遠く 三浦岬も見える
  ソーダ水の中を 貨物船が通る
  小さなアワも恋のように 消えていった
 I氏は、「ソーダ水の中を貨物船が通る」の歌詞に興味を覚え、どうしてもその意味を知りたくなり、遠路車を走らせ、ドルフィンに行ったそうだ。当然のことながらソーダ水(ドルフィンソーダ)を注文したが、まだ歌詞の意味がわからない。しかし、ふと、テーブルに頬杖をついてみたところ、なんと、ソーダ水の中を貨物船が通ったそうだ。以上を受けてI氏の本論(授業)で言っていたことは、「『詩の背景』を想像してみなさい。」ということだ。「この歌詞の主人公は、頬杖をついて、憂鬱な気持ちでドルフィンで過ごしていたのだろう。」ということだ。「『ソーダ水の中を貨物船が通る』という言葉だけでそういった背景を表現してしまうユーミンはすごい。」とI氏が言っていた。
 I氏、あなたの行動力と感性もすごい。失礼かもしれないが、黒板に物理教師の似顔絵を描くは、65分の授業のすべてを「雑感」で終わらせるはで、(いい意味で)相当の不良教師であった。

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Django Reinhardt (ジャンゴ・ラインハルト)

 ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt 1910年1月23日 – 1953年5月16日)は、ジャズ・ミュージシャン、ギタリスト。本名ジャン・バティスト・レナール(Jean Baptiste Reinhardt)。ベルギー・リベルシーの出身。ジプシーの伝統音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)の創始者として知られる。ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。1924年、歌手の伴奏でバンジョーを弾く。これが初のレコーディング経験となった。その後ギタリストとして活動。18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左手人差指・小指の動きを失う大火傷を負った(後のギター演奏シーンでは、この2本の指を深く曲げたまま、残った3本の指で演奏している)が、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。1934年にはフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成。映画『ギター弾きの恋』の中でも名前がでている。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。1949年、フランス・ホット・クラブ五重奏団の盟友であるステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)と共にローマに渡り、現地のミュージシャンと共にクラブで演奏していた模様を収めた『ジャンゴロジー』は、傑作として名高い。1953年、フランスで亡くなる。
 他人が軽々しく「逆境」などと言ってよいものか、言葉を慎重に選ぶ必要があるが、多くの人は、上記のような状況に陥ったら、ギターをやめるのではないだろうか。上記の状況を「逆境」と言うならば、ジャンゴは、逃げずに逆境に寄り添った。ジャンゴの上記境遇からすれば、他に選択肢がなかったのかもしれない。いずれにせよ、ジャンゴの演奏は素晴らしい。映画「ギター弾きの恋」に、「俺はジャンゴの次にすごい。」と豪語するギター弾きが主人公で登場するが、彼も、ジャンゴの演奏は「涙なしでは語れない。」と言っていた。なお、この映画自体も興味深い。ギター云々よりも、「本当に大切な人は誰?」を教えてくれる。

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写真

 デジタルカメラの発達にはついていけない。どのタイミングで買えばよいのか、どのメーカーがよいのか、どのような機能があるのか、など、デジタルカメラを購入する際の切り口には枚挙に暇がなく、意思決定が難しい。結局のところ、販売員の説明の明確さ・熱心さ・心遣い・顧客観察力(=マーケティング)などが、その時の自分の要求水準を超え、納得のいったときに、購入という意思決定をしているように思える。電気製品に関しては、どうしても大型量販店の存在が大きいとはいえ、結局は「人」である。
 さて、今後は、デジタルカメラを「仕事」で使っていきたいと考えている。これまでは、プライベートでしか使用していなかったし、かつ、自分自身のデジカメを持っていなかった(今は亡き京セラのデジカメを持っていたが、壊してしまった)ため、写真を撮ることに関しては、積極的ではなかった。しかしながら、「仕事」においても、「幸福論」や「専」とも関連し、「今、この瞬間」を大事にしていきたいと思うので、写真の力を、どんな方法でもよいから、「仕事」に活かしたいと考えている。そういうわけで、とうとう、「Canon PowerShot S90」を購入した。「キャノン」ではなく、「キヤノン」である。

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幸福論①

 社会人になってから、「幸せ」とは何かを意識するようになった。以前は、「幸せ」とは、どこか遠くにあるもので、常に追い求めていないと手に入らないものだと思い込んでいたが、最近は、身近にあるものに感謝したり、今充足されているものに満足したり、と、要するに、現時点の自分の状況を肯定的に受け入れられることをもって、「幸せ」だと解釈していた。もっと言うと、そのような幸せが「唯一」の「幸せ」であると考えていた。
 ところが、昨晩、ある最も近しい人物と「幸福論」を展開していたところ、上記の「幸せ」(以下、「幸せ①」という)は確かに大切だが、「幸せ」は「それだけではない」という。どういうことかと説明を求めると、上記の「幸せ①」は自分だけに関する概念であり、「他者」が介在していないから「それだけではない」という。つまり、「幸せ①」がある程度充足されたら、今度は、「他者」をも「幸せ」にすることも考慮に入れた「幸せ」(以下、「幸せ②」という)考える必要があるということだ。なるほど、人間は成長する必要があると考えるならば、「幸せ②」は必要だ。「幸せ②」を目指して、他者と切磋琢磨し、自分を高め、その結果として到達した「幸せ」は、素晴らしい。
 以上をまとめると、「現状を肯定的に受け入れつつ(「幸せ①」)、他者を意識したさらなる高み(「幸せ②」)を目指す。」ということだろう。
 そういえば、高校生の時の担任が常々、「小さくまとまるなよ。」と言っていたのを思い出す。

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事務所

 事務所(じむしょ)。いい響きである。勝手なイメージだが、人がいて、誰かと電話をしていて、なんか書類を書いていて、3時にはお茶をすすっていて、夜は鍵をかけて帰宅して、と、「人の動き」が感じられる場所である。
 左の写真は私の事務所の一角の私のデスクだが、公認会計士を目指した動機でもあった、「自分の城」というものがどうしても欲しかった。現実はそう甘くはないが、今この時、現時点では、仕事・仲間・家族の協力・時間などに恵まれ、貨幣価値で測定不可能な効用のような概念を入れるならば、現時点に満足している。ただ、人間は、魂レベル・仕事・人間関係等、様々な面で成長することが宿命であるから、現状に満足しているからといってそこに甘んじることなく、さらなる成長を志向していたい。ただ、繰り返しになるが、「現状に満足できる」のも「ありのままの自分を受け入れる」ということなので、ますは「現状肯定」をしたいと思う。
 私を含めて3人の仲間(先輩)がいるので、会計・税務の話、世の中の話等々で、いつも賑やかですよ~っ。

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うざい

 うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。1980年代のツッパリブームから関東圏を中心に使われるようになり、1990年代には不良以外にも使われ、全国的に普及する。うざいが更に簡略化された『うざ』や、うざいの語感が荒くなった『うぜー(うぜえ)』という言い方もある。
 ある対象を「うざい」と感じるか否かは、人それぞれであろう。また、感じる人その人の状態によっても、「うざい」と感じるか否かが違ってくると思う。例えば、ベトナム滞在中に街を歩いている時を想定すると、自分がほとほと疲れているときには、縦横無尽に走り回るバイクの群衆に対して「うざい」と感じる。やつら全員が敵に思えるくらいだ。一方、自分が何かに満ち足りていて状態の良い時には、それらを「うざい」とは思わない。むしろ、彼ら全員が自分の味方のような気がする。
 
 また、最近はいい意味で自分のことを「うざい」と言ってくれる人になかなか出会えない。自分を過大評価する意味ではないが、いい意味で「うざい」と感じられるかどうかは、その人の「観察力」にかかっていると思われる。したがって、「ただ単に(悪い意味で)うざい」というのでは、「観察力」はまだまだだろう。私自身に観察力があるということをここで言いたいわけではないが、私はいい意味で「うざい」人が好きである。特に、「オタク」と言われる人々が、(気持ち悪くなければ)好きである。「オタク」は凄いものを持っている。誰にも負けない何かを持っているからだ。
 人に不快感を与えたくはないが、いい意味で「うざい」と思われる存在でありたいと思っている。

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自然

 先日、ぼんやりとテレビを見ていたら、永平寺第78代貫首宮崎亦保禅師(故人)が物凄く強烈なお言葉を仰っていたので、思わず聞き入ってしまった。概要は以下の通りである。
人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、
褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。
それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 106歳でお亡くなりになった先生(自然と「先生」という言葉が出てきます)の104歳の時のお言葉だったと記憶している。親を亡くして15歳の時に寺に引き取られ、それ以来、禅の道を歩んでこられたそうだ。「平気で生きる。」とは、おそらく、「日々の生活を淡々と生きる。」ということだと解されるが、そのこと自体に意味があるということなのだろう。なんとも、深いお言葉である。

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節目

 「Tet (テト)」とは、漢字の「節」のベトナム語読みであり、いわゆる旧暦の正月を意味する。本日はまだテト前であるが、会社によっては、本日からテト休暇に入るケースもあり、本日は、正月休み前で、街が浮足立っているといった印象を受ける。弊事務所のベトナム人スタッフも、明後日からテト休暇に入るのだが、本日はお年玉の用意をし始めるなど、気持ちはテトに向いている。
 「節」、「節目」というのは、何も暦に限ったことではなく、人それぞれ、何らかの節目があると思う。この点、スティーブ・ジョブズは、絶えず自分に問いかけ、「節目」を意識している。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。」
最後に、もうひとつ。
「君たちの時間は限られている。だから他の誰かの人生を生きて時間を無駄にしてはいけない。定説(ドグマ)にとらわれてはいけない。それは他の人たちの考え方の結果と生きていくということだ。その他大勢の意見という雑音に、自分の内なる声を溺れさせてはいけない。最も大事なことは、自分の心に、自分の直感についていく勇気を持つことだ。心や直感はすでに、あなたが本当になりたいものを知っている。それ以外は二の次だ。」
 最近、こういったことを考えると疲れてしまうことがあり、「もう考えない方がよいのか?」などと思ってしまうが、「テト」という「節」が暦の上にあり、ベトナム人の行動が「節」を意識した行動であることを目の当たりにし、やはり、人生については、常々考えていきたいと思った次第である。

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専門

 常々、「専門」について思いを巡らせているが、本日は、改めて、「専門」について考える機会があった。そこで、そもそも、「専門」とはどういう意味なのか、「門」の意味はなんとなくわかるが、「専」はよくわからないので、「専」について調べてみた。
 「専とは、『寸(手の指一本)+糸をまいた紡錘の象形文字』の会意兼形声で、紡錘は何本もの原糸を集めることから、専一の意味が生じた。」という。なるほど、「専一」。ところで、専一とは、「他を顧みないで、ある物事だけに力を注ぐこと。」という。
 そこで分かったことは、現時点で「専門」とするものがないのだとしたら、「専門」とは、どこか遠くにあるものではなく、また、探しに行くものでもなく、「自分の心のありかた」だということだ。「幸せ」の考え方とも似ているように思える。
 「専門」かどうかは、自分がどれだけその対象により添えるか、にかかっているのだろう。

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信頼

 信頼しているとは、どういう状態をいうのであろうか(写真は”ノブヨリ”)。まず一般的なイメージを得るために、「信頼」で画像検索すると、「握手」している画像が散見された。しかし、自分にはしっくりしない。自分にとって「信頼」とは、握手よりももっと深く、ある意味「つらい」状態のような気がする。
 なかなかよい言葉が見つからないが、「信頼」、特に、「相手を信頼する」とは、当該「相手」が自分に対して「つらい」状況を作り出すことがあっても、それを上回るほどの価値を相手に感じ、相手を尊重することだと考える。言い方を変えれば、当該「相手」のプラスもマイナスも受容できる、または、「お互いに」相手の悪いところ・自分の悪いところを受容しあえる、そんな「仲」のように思える。
 だとするならば、信頼関係が最も固く、それでいて、信頼関係を築くのが最も難しのは、「家族」ではないだろうか。特に、「夫婦」は?
 いずれにせよ、「信頼」とは、「つらい」面もあるが、(いい意味で)やめられない。

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猿楽珈琲

 開店から18年という代官山の老舗珈琲専門店。八幡通りには、歩いていても気づかない程ほんの小さい表示。表看板も地下へ続く階段の先にあるので、どこにお店があるのか分からないかもしれません。その日に焙煎され、布で漉されて出来上がった香りのいい珈琲に出会える。お酒の飲めなかった店主が、お酒を飲むような趣のある空間に美味しい珈琲を出したい、と始めたお店。各テーブルには“穏やかにおすごし下さい。”と但し書きがある。静かな二人か、独りで和むのにふさわしい雰囲気の店内であり、集中して読書をしたいとき、手紙を書きたいとき、心を整理したいときに適している。そんな聖域に魅かれ、ひとりで足を運ぶ常連も多く、抑え目の照明、仕切り板が程よいプライベートエリアを作ってくれる。
 大学1年生の時にアルバイトをさせて頂いた。マスターには、珈琲はもちろんのこと、生き方、作法、音楽など、いろいろと教えて頂いた。様々な出会いもあった。とにかく、「こだわり」のマスターであり、お店そのものがマスターの生き方のような気がする。折を見てまた訪れてみたいと思う。

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BURT’S BEES

 バーツビーズは1984年にアメリカ・メイン州で生まれたナチュラル・トータルケアブランドである。都会の生活に飽きて田舎の蜂蜜職人に転職した創立者のバート・シャビッツとロクサンヌ・キンビーが、余っていたミツロウをキャンドルにして近所に手売りしたことが始まりである。地球に優しく、人に優しいを信条にバーツビーズの製品は全てキッチンやガーデンで見かけられるような、天然由来の成分で作られている。現在、バーツビーズの製品数は150以上に上り、取り扱い小売店はアメリカ全土やカナダをはじめとし、全世界で30,000店以上になる。その品質の高さ、そしてキュートなパッケージは世界中のファンに愛されている。
 この逸品は、まずは、デザインの良さである。残念ながら、現在の日本のプロダクトでは、このようなクールなデザインはないかもしれない。また、デザインのみならず、品質もよい。元々、ハンドクリームなどを使う習慣がなかったが、この「BURT’S BEES」に出会って以来、習慣化した。米国旅行した際のお土産にも最適である。

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浜松市

 浜松市(はままつし)は、静岡県西部にある市。2007年4月1日に政令指定都市となった。戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町として栄えた。中世に浜松と呼称されるようになったことが、史書にもある。元は曳馬(ひくま)という地名だった。徳川家康が曳馬(引馬)を浜松と改めたことで、以後、浜松として定着する。
<楽器>
 浜松は、楽器産業が盛んな都市である。特にピアノは全国シェアの100%を占める独占産業である。市内には、首位のヤマハや河合楽器製作所、2005年からはローランドの本社もあるので日本の三大楽器メーカーが浜松に存在することになる。ピアノの他にも浜松では、電子オルガンや電子ピアノ、シンセサイザーや管楽器、ギターなど、さまざまな楽器の生産が行われている。メロディオン、ピアニカ、ハーモニカなどの生産も多い。
<輸送機器>
 本田技研工業創業の地で、現在もオートバイ(中型・大型二輪車)の主要工場があるが、2009年内に二輪車の生産を熊本工場に集約することが発表された。また、スズキの本社工場もあるがエンジンの生産のみで、完成車は生産していない。現在の浜松のオートバイ産業は、全国の60%以上を占めている。
<繊維産業>
 浜松には多くの繊維工場が存在し、特に浴衣の生産では全国有数の生産地域となっている。
<光電子技術産業>
 浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授(後に教授)の高柳健次郎が、テレビジョンを発明した。高柳の教え子らが創業した浜松ホトニクスの本社と主要工場がある。
 市内の高丘地区には、航空自衛隊浜松基地がある。その歴史は古く、大正時代に浜松に設置された陸軍飛行連隊がその前身である。昭和に入ると陸軍飛行学校が設置され、浜松は陸軍の重爆撃機の基地となった。太平洋戦争の戦況が悪化すると、浜松は航空基地や、軍需工場の存在とともに、米軍機の日本侵入路に当たっていたため、ほぼ同様の地理条件にあった静岡市と並び、米軍の爆撃目標値に対する実際の爆撃率において全国の都市の中では数少ない100%を超える空襲や艦砲射撃を受け、多くの市民が命を落とし、市街地は焦土と化した。終戦後一時、浜松基地はアメリカ空軍の不時着飛行場となり、1952年に組織された保安隊の航空学校が設置され、日本初の航空基地となった。保安隊はその後、航空自衛隊に改称され、1958年に浜松基地は南基地・北基地に分離したが、1989年に統合して、現在に至っている。所属部隊はパイロットや航空機等の整備員を養成する教育部隊が中心で、航空教育集団司令部がある。1999年には広報館「エアーパーク」も開館し、多くの人が訪れている。また、毎年行われる航空祭(エア・フェスタ)には、全国から多くの航空ファンが訪れている。
 いまや政令指定都市の浜松市。地方都市の衰退(特に商業)が目立つ中、浜松市も例外ではないと思うが、駅前や繁華街を見ていると、活気が失われているわけではないように思われる。やはり、戦前・戦後の製造業、やらまいか精神などが土台にあるからだろう。底力のようなものが感じられる。日本の自動車産業、楽器等、日本を支える産業がある浜松市には、今後とも、日本を代表する都市であってほしい。

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デザイン

 デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。つまりデザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される。日本では図案・意匠などと訳されて、単に表面を飾り立てることによって美しくみせる行為と解されるような社会的風潮もあったが、最近では語源の意味が広く理解・認識されつつある。
 私の趣味は、『時空を超えて美しいもの (古い車、古い建築、古い音楽など) 』である。つまり、ナガオカケンメイ氏の言葉を借りるならば、「ロングライフ」のものに対して殊のほか興味がある。例えば、仕事道具の一つである、「タフなかばん」。パソコン、専門書、筆記用具等を入れると、重さは20kg位になろうか。こいつのせいで腰痛が引き起こされたと言っても過言ではないが、とにかく、タフでなければならない。とことんタフであることといえば、とことん合理的であること。とことん合理的といえば、ヨーロッパではなくアメリカである。私は、新人の時に購入したTUMIのかばんを、修理しながら10年使用した。最近また壊れてしまったので修理をしようとしたが、新しいものを購入した方が安上がりだと言うので、やむなく、新しいものを購入した。靴もしかり。修理しながら長く履く。なんでもそう。長く使うと思い入れが出てくる。
 上記で、さりげなく「ナガオカケンメイ氏」と書かせて頂いたが、私と同じく美しいものが好きな妻が、「D & DEPARTMENT PROJECT」の存在を教えてくれた。昨年のクリスマスはそのレストランで過ごした。美しいもの(かっこいいものを含む)に囲まれて幸せなひと時を過ごせる場所である。
 代表のナガオカケンメイ氏の著書を拝読したが、共感できる部分が多く、公認会計士である「等身大の自分」が何かお手伝いできることがあればお手伝いさせて頂きたいと考えている。ただ、ナガオカ氏の元には、自称「ファン」が集まって来るものの、実際には仕事が長続きせず辞めてしまう人が多いという。軽々しくは「お手伝いします。」などと言えないのかもしれないが、たまたまナガオカ氏がお店にいらっしゃれば、是非お話させて頂きたいと思う。「デザイン」と一言でいっても、その裏側には、すべての仕事に共通するような「地味な仕事」「力仕事」「やっつけ仕事」などがあるのだろうから、それらプラス・マイナスを含めて、総合的に考える必要がある。どんな仕事でもそうかもしれない。

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団塊の世代

 団塊の世代(だんかいのせだい)とは、第二次世界大戦直後の日本において、1947年から1949年までのベビーブームに生まれた世代である。戦後第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。第二次世界大戦後の日本の歩みと人生を共にしており、現在の日本は彼らがあってこそのものである。ただ、明治・大正世代の人間の教育を受けていること、またその特異な人口構成ゆえに、良くも悪くも日本社会の形成に大きな影響を及ぼしている世代である。
 私は、団塊の世代の子供であるので、どうしても団塊の世代について考えざるを得ない。戦後の日本を支えてきたこと、彼らがいるから現在の我々がいること、現在もバリバリ現役の経営者で自分のお客様であること、彼らが引退した後に果たしてバトンタッチができているか等々、話題に尽きない。今後とも、折を見て触れていきたいと考えている。いずれにせよ一つ言えることは、数十年間一生懸命働き、家庭を維持し、子供を育て上げたということだけで、立派である。

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パシュミナ

 パシュミナは、カシミヤ繊維等を糸に紡ぎ、織り上げた、ネパールやインドで伝統的に作られてきたストール・ショールおよびその素材を指す。非常に弱い糸から生地を織り上げるため、インドでは「DIVINE WEAVE」と言われている。 ネパールでは経糸にシルクを使用して織り上げたストールが主になる。一般的なカシミヤストールは、カシミヤ繊維の持つ縮充性を利用してフェルト化させた生地を用いるが、パシュミナストールは、カシミヤ繊維を糸に紡ぎ、織り上げるため、生地が薄く、光沢感が高いと言う特徴を持つ。 近年、そのファッション性の高さから、欧米や日本等の先進国を中心に流行したため、それらの地域ではパシュミナという名称が一般化された。パシュミナストールの素材もまたパシュミナと呼ばれる。伝統的には、パシュミナはヒマラヤ山脈に生息するカシミヤ山羊およびその近似種から採取された素材とされているが、明確な定義が無いため、現在はパシュミナ素材からではないものまでパシュミナとして販売されていることがある。
 「パシュミナ」とは、「パシュミナ・ストール」のことを指すとこれまで認識していたが、上記のように、「パシュミナ素材」のことも意味するということは知らなかった。サイゴンのある店であるパシュミナを手に取り、「この素材はなに?」と店員に質問したところ、「パシュミナ!」と言うから、「う~ん、話がかみ合っていないなあ。」と思ったものだが、そういうことだったのだ。
 そういえば、大学生の頃、冬に開催された合コンで、誇らしげにパシュミナを自慢している女性がいたのを記憶しているが、彼女は今頃、どこで何をしているのだろうか。

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伊藤博文

 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) – 明治42年(1909年10月26日)は、日本の幕末の長州藩士、明治時代の政治家。初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣。元老。
 伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。
 明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
 ただし、日本では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている。また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。
 本日のスーパーモーニング(テレビ朝日、08:00~09:55)で伊藤博文の暗殺について取り上げられていた。常々思うのだが、このスーパーモーニングは、ニュース番組の中で唯一、深度のあるニュース番組だろう。勝手な憶測だが、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんの指導があるのだと思っている。日本経済の不況により、テレビ番組の製作費も削られていると聞くが、それ以前に、ニュース番組には「So what?」という内容のものがほとんどである。確かに、世界各地で起こった様々な事件を伝えること自体に価値はあるが、情報の垂れ流しに終始している番組が多くはないだろうか。その事件を伝えることで何を伝えたいのか。いや、キャスターの気のきいたコメントがほしいといっているのではない。そんなものはほしくない。そうではなく、スーパーモーニングの特集のように、「どのような観点から、どのような所に切り込んでいるか、何を伝えたいか」がはっきりしないと、インターネットが発達し、情報の非対称性が小さくなりつつある現在においては、ジャーナリズムの意味が薄れてしまうように思える。

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セミナー

 ゼミナールまたはセミナー(英: 独: Seminar)は、大学、大学院などにおける演習の事。略称「ゼミ」。科目名としては「演習」「専門演習」などと呼ぶ場合がある。一方的に教員の講釈を聞く講義に対して、教室で少人数で対話や一緒にテキストを読んだ上で議論・報告したり、場合によっては合宿や旅行を行って親睦を図ったりするなど、コミュニケートしながら教員、そして学生同士から何かを学び取る時間である。専門分野の個々の講座のゼミと一般教養ゼミの二種類がある。一般教養ゼミは、包括的なテーマの下に、個々の学際的なゼミ、もしくは個別テーマのゼミがある。いずれも、専門分野、もしくは担当教員の名前を取って、何々ゼミと呼ばれる。これらは、工学部、農学部では、「実習」(Praktikum)にあたる。
 転じて、そのような実りのあるやり方で大学受験に備える事を売りにする受験予備校でも、学校名にこれを入れたりする。代々木ゼミナール、早稲田ゼミナールなど。最近では、公募型で行われる講師対受講者の形式をとって行われるものについて特に「セミナー」という表現が好まれる傾向にある。就活セミナー、投資セミナー、スキルアップセミナーなど。ドイツ語では、「神学校」の意味で使われる事もある。「ゼミナール」(Seminar)の元々の意味は、「種(Same、複数でSamen・転じて精子、子孫)を撒く苗床」の事。
 セミナーにはセミナーのプロがいる。言い方を変えれば、基本的には、「セミナーのプロが、本業として、セミナーをやるべきだ。」と考える。本来は、片手間でできるものではなく、それくらい本腰を入れてやるべきものだと考える。また、本業が別の分野にちゃんとあるのに、「本業から逃げて、教育活動・啓蒙活動にはしる」人が散見される。 一方で、「セミナーに興味がある。」というレベルを超えて上記のようなことも考えつつ、事業としてチャレンジする価値があるもの、セミナーだ。やりがいのある仕事だと思う。
 本日午後、コラボレーション事業の観点から、セミナーのプロとブレストをさせて頂いた。自分の軸は何であり、人のために自分になにができるのか、改めて問われたことになる。

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年賀状

 年賀状(ねんがじょう)とは新年に送られる郵便葉書やカードを用いた挨拶状のことである。新年を祝う言葉を以ってあいさつし、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを添えることが多い。親しい相手への場合などには近況を添える。日本では多く取り交わされ、日本に近い韓国、中国、台湾にも似た風習がある。欧米などではクリスマス・カードで新年の挨拶も済ませてしまうので、年賀状の文化はない。
 1年以内に不幸(親族の死去)のあった家からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を遠慮する」旨の葉書を出すことがある。喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀の挨拶ができなくて申し訳ありません」という意味だからである(昨今では喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もいる。一般的には寒中御見舞いのはがきを出すことが多い)。
 今年2月に独立開業し、お世話になったほぼ全ての方々へ年賀状を出すこととしたため、年賀状の数は例年の4倍程度となった。自分自身が戴いて嬉しい年賀状は、「その人らしい気持ち」が伝わってくる年賀状であるため、出すのが遅くなっても、あえて手作りにした。電子メールが発達した今日でも、この手間をかけた作業を大事にしたい。むしろ、「手間をかけて年賀状を作る時間があるということに感謝をするべきである。」と思いつつ、年賀状を作成した。

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Bảo Đại

 バオ・ダイ(ベトナム語:Bảo Đại、漢字:保大、1913年10月22日 – 1997年7月30日)は、ベトナム阮朝第13代にして、ベトナム最後の皇帝。諱は福晪(晪は日偏に典)。バオ・ダイは治世の元号である保大に由来し、保大帝とも称される。
 1913年10月22日に生まれ、当初諱を阮福永瑞(グエン・フク・ヴィン・トゥイ、Nguyễn Phúc Vĩnh Thụy)といった。フランスで教育を受け、父親である啓定帝が1925年11月6日に崩御するまで宗主国のフランスに住んでいた。1926年1月8日に皇帝に即位し、年号を「保大」としたが、すぐフランスへ戻り、しばらく留まった。バオ・ダイはその治世に、ベトナムの完全独立を許可するようフランスを説得し、改革のために委員会を確立した。1934年には、カトリック教徒で南ベトナム出身の阮友蘭(南芳皇后、ナム・フォン、Nam Phương)と結婚する。
 第二次世界大戦末期の1945年3月には、前年のヴィシー政権崩壊に伴い日本軍がフランス軍を制圧したのを機にベトナム帝国の君主となりフランスからの独立を宣言した。当時の日本軍人の中には、日本へ亡命中の畿外侯彊柢(クォン・デ、Cường Để)をベトナム帝国皇帝に推す者も少なくなかったが、南方総軍や第38軍はベトナム新政権へ不干渉の方針で、「軍政も敷かない」「親日政権への改編もしない」ことを既に決定していたため、バオ・ダイは栄えある独立ベトナム最初の元首の地位を手にした。
 1945年9月2日には、日本軍が敗北してベトミン(Việt Minh、越盟)がベトナム全土を席巻したが、この時にバオ・ダイは退位へ追い込まれた。その後、ハノイ(Hà Nội、河内)でベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)が成立すると、バオ・ダイはホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh、胡志明)によって新政府の「最高顧問」に任命される。しかし、公式の外交代表団の一員として訪中時に亡命、1946年にはイギリスの植民地の香港へ移った。
 1949年にはフランスの支援で、南ベトナムに樹立されたベトナム国(Quốc gia Việt Nam)の元首(Quốc Trưởng、国長)としてベトナムに帰国後、1954年のジュネーヴ会議によって正式にベトナム国元首となった。バオ・ダイは、ゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm、呉廷琰)を首相に指名した。しかし、翌1955年ゴ・ディン・ジェムは国民投票を実施してベトナム国を共和制へと移行させ、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng hòa)が成立すると大統領に就任した。
 バオ・ダイは退任を余儀なくされ、パリへ亡命した。その後はベトナムへ帰国せずにカンヌ付近で余生を送り、1997年7月30日にパリの陸軍病院で死去した。
 さすが、お洒落で、独特の雰囲気がありますね。立場上、時代に翻弄されてしまった面がありますが、彼の人生の本当のところは彼にしか分かりません。不幸かどうかだったなんて、他人が判断できるものではありません。

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イタリア料理-単なる『食』を超えて-

(写真右は、ミラノにあるピザ屋の親方である。左は弟子。ピザ生地作りはまさに職人技であり、「師匠(ししょう)とはマエストロの意味だ。」と説明した上で、「師匠(ししょう)!」と呼びかけると大変嬉しそうであった。イタリア料理は、味そのものだけでなく作った人も喜ばせてくれる。)
 現代イタリア料理の基盤は大変古く、古代ローマ帝国までさかのぼる。当時のローマ人は、食事にかける時間をとても大切にし、当時から1日3食の構成をとり、1食をコース料理にして2~3時間もかけて食事をする習慣があった。さらに裕福なローマ人たちの間で、腕利きの料理人を呼んで料理を客に披露することが流行った。料理人達はそれぞれ競って腕を磨いて新しい料理作りに励んだことで、周辺の国々の追従を許さない優れた食文化が誕生し、これがローマ帝国の発展とともにヨーロッパ各地へと広がっていった。また、チーズもローマ軍の遠征兵士のスタミナ源として携帯されたことが契機となり、同様に欧州各地に広まった。
 イタリア料理は、フランス料理の原型でもある。1533年、フィレンツェの名門貴族であるメディチ家のカテリーナがフランスのアンリ2世に嫁いでパリに移り住む際、大勢のイタリア人料理人や香料師を連れてイタリア料理や氷菓、ナイフ・フォークの使用といったものをフランスに持ち込んだ。それをきっかけにして、当時粗野だったフランスの宮廷料理やテーブルマナーが洗練された。ちなみにフォークの爪は4本だが、これはナポリ王国国王フェルディナンド4世の宮廷でパスタがよくからんで食べやすいように爪の数を増やしたとされている。 このように、西洋を代表して世界三大料理(中華料理、トルコ料理、フランス料理)に数えられているフランス料理は、イタリア料理の影響を受けて成長した。ローマ時代から続くイタリアの食文化が西洋料理の母的存在といわれるのは、こうした歴史によるものといえる。
 滞在先のSAIGONで無性に食べたくなることがあるのがパスタである。あらかじめベトナム人に、「SAIGONで一番うまいイタリア料理の店を教えて。」といって店を教えてもらっていたので見当はついている。SAIGONでの楽しみの一つが食事。昼ごろ起きてすぐに支度をして店(pomodoro)に直行しがっつく。たまにはこういう生活もよいだろう。海外で食べるイタリア料理って、おいしいのです。この店のイタリア料理も、気合いが感じられました。案の定シェフはイタリア人。太っちょで食べるのが好きそうな方です。思わずドルチェもいってしまいました。飲食業、とりわけイタリア料理店のすごいところ-『人を喜ばせてくれる』。ビジネスの原点ですね。

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Bonnie and Clyde

 ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカー(Bonnie Parker、1910年10月1日 – 1934年5月23日)とクライド・バロウ(Clyde Barrow、1909年3月24日 – 1934年5月23日)からなるカップルである。ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。後にボニーとクライドの犯罪は何度か映画化された。
 仲間を次々失いながら逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路で、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州の警官2名によって、150発を超える銃撃を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて射殺された。
 右写真は、『俺たちに明日はない』 – Bonnie and Clyde (1967) でBonnie Parkerを演じるFaye Dunaway(フェイ・ダナウェイ、1941年1月14日 – 、本名ドロシー・フェイ・ダナウェイ(Dorothy Faye Dunaway))。「Bonnie and Clyde」を描いた映画はいくつかあるようだが、私が忘れられないのは、Faye Dunawayが演じるBonnie Parkerだ。こればかりは好みだが、Faye Dunawayがたまらなく素敵である。顔の表情、しぐさのすべてが、素敵である。
 常々思うのだが、1930年代のアメリカには、美学があったような気がする。街並、ファッション、音楽、大衆文化など、いまだに色褪せないものが多い。「前世」という概念を信じるならば、私は、前世は1930年代のアメリカにいたような気がする。たまらなく懐かしい感じがするからだ。

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フェアレディ2000(SR311)

 ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカー。フェアレディZの源流である。
 1967年3月 「フェアレディ1600」に追加されるかたちで「フェアレディ2000」(SR311型)発売。直列4気筒SOHC U20型エンジン(1982cc 145ps/6000rpm)と、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載、発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなった。「フェアレディ」の完成形と後に賞賛されるモデルとなる。ちなみにテレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
✓1967年5月 「第4回日本グランプリ」GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
✓1967年11月 ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。趣味の上では、3月から10月までのモデルは「ロースクリーン」、11月以降のものは「ハイスクリーン」と呼ばれ、区別されている。
✓1968年5月 「第5回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が1-2-3フィニッシュを飾る。
✓1968年7月 SP / SR共に、ソフトトップを持たない、ハードトップモデルを追加。
✓1968年8月 「第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GTS-Ⅱクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
✓1968年11月 ステアリングギアボックス、マフラー、ワイパー、ライセンスプレートランプ、テールランプなどを変更。
✓1969年1月 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79(Raimo Kossila / Pertti Mannonen組)と、同44(Risto Virtapuro / Charles Lindholm組)の二台の「ハイスクリーン」タイプのSPL311でエントリー。
✓1969年10月 「第6回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
✓1969年 後継車種「S30型系フェアレディZ」を発表。
✓1970年生産終了。
 このSP/SRシリーズの最初の車は、フェアレディ1500(右写真)という、どちらかというと優雅な感じのオープンカーでした。右の広告写真をみてもわかるように、女性が一緒に写っており、レースを意識したフェアレディ2000とは異なり、優雅な印象を受けます。上の筆者の愛車はフェアレディ2000であり、前オーナーの趣向によりかなりレーシーな車でした。昨年夏に訳あって手放し、その後再び他のフェアレディ2000を購入し、現在レストア中です。なお、上記のとおり、昭和42年式(通称「ヨンニー」)とそれ以降とでは、特に見た目が大きく変わってしまいました(上記赤字部分参照)。マニアの間ではヨンニーが人気であり、私もやっとのことで再びヨンニーを見つけました。こればかりは御縁なので、ほんと大変なんですよ。
 しかし、なぜこんな古い車に乗るのだろうと、たまにふと考えることがありますが、「理由はなく、いいものはいい。たまらなくいい。」というのが理由です。

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Sài Gòn

 ホーチミン市(越:Thành phố Hồ Chí Minh/城舗胡志明?、英語:Ho Chi Minh City)は、ベトナム最大の都市であり、インドシナ半島有数の世界都市。人物のホー・チ・ミンと区別するため、ホーチミン市またはホーチミンシティと呼ぶ。旧名はサイゴン(越:Sài Gòn/柴棍、中:西貢)で、旧南ベトナムの首都であった。地元住民や旅行者の間ではホーチミン市ではなく現在でもサイゴンという呼称が使われる場合が多い。但し現在のホーチミン市は、チョロンなどの旧サイゴン近隣の町を含めた広域の都市名であり、サイゴンをホーチミン市の中心部(旧サイゴン市の市域)というニュアンスで解釈される場合もある。首都ハノイがベトナムの政治の中心なら、ホーチミン市は経済の中心である。
 何かご縁があるのだろう、今月で10回目の訪越である。いつもSAIGONに滞在するが、HANOIに行くこともある。暗中模索、七転八起、試行錯誤、一進一退といった四字熟語がぴったりの10ヶ月間であったが、中央教会近くの公園のベンチに横になって空を見上げると、木々の葉が強い太陽光線を遮り、青い空と緑の葉とがコントラストをなし、幸せな気分に浸ることができる。こういう時こそ、自分の進路について考えるときであるのが分かっている。ポジティブになれるからだ。「ああ、この歴史あるSAIGON、東洋のパリと呼ばれたSAIGONに、今こうして居るのだなあ。なぜなのだろう。小さくとも1つの世界を作る、自分のファンとも呼べるお客様を作るというのは、容易なことではない。まず、1つの分野を見つけること自体が難しい。『自分はこの道で行くのだと自己暗示が必要』とまで言う人もいる。自分は、おそらく、このSAIGONとしばらくかかわるべきだな。」などと、考えるのであった。

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NAT KING COLE

 ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 – 1965年2月15日)はアメリカアラバマ州モンゴメリー生まれのジャズ・ピアニスト・歌手。本名:ナサニエル・コール(Nathaniel Adams Coles)、「キング」は愛称。アラバマ州モンゴメリーで生まれ、教会オルガン奏者の母のペリーナから12歳までオルガンを習っていた。1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年に結成したトリオ「Nat King Cole Trio」での活動は有名。 ビッグバンドの時代におけるコールのピアノ、ギター、ベースからなる編成は革新的で、ジャズトリオのスタイルの流行となった。その間、艶のある声を買われて歌手としても活動するに至った。数回の来日経験があり、東京都赤坂の高級キャバレー「ニューラテンクォーター」でのライブショーを行っている。コールは1日にクール(KOOL)を3箱も吸うヘビースモーカーで、コール自身は「タバコは声を低音にする」と信じていた。しかし、歌手としてまだ絶頂時の1965年2月15日に、サンタモニカの病院で肺ガンにより逝去した。
 私が中学1年生の時、当時流行りの「コンポ」を買ってもらった。三菱電機に勤めていた伯父を介して購入したのだが、その伯父が大の音楽好き、しかも戦後の日本人が憧れていたアメリカ音楽が大好きで、コンポ購入と同時に、様々なレコードを貸してくれた。その中でも最も大きな影響を受けたのが、「NAT KING COLE」であった。どの歌も大好きになり、何度も何度も聴いた。高校生のときは、周りの友人がハードロックに酔いしれている中、私はJAZZ BALLADが大好きで、カラオケでもそれを歌おうとするのだが、周りの友人にとっては、「犬が餌を『待て』の状態にされている」が如く耐え難かったらしく、歌っている途中で何度も演奏停止をくらった。
 音楽に関しては、というか、あらゆる面において、周りの友人に迎合することなく「自分らしさ」を通してきたわけであり、数々の衝突もあったが、今ではむしろそれでよかったと思っている。いまだにNAT KING COLEが好きである。

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大日本帝國

 大日本帝国(だいにっぽんていこく / だいにほんていこく、旧字体: 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。
 「日本」に「大」と「帝國」が付くと、それだけで「立派」な印象を受ける。それにしても、明治維新後15年弱で憲法を発布し近代化を推進したそのスピードとパワーには感服する。「日本人の意思決定は遅い」などと言われることがあるが、いつからそうなったのでしょうか。

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南洋群島

 南洋諸島(なんようしょとう)は、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々のうち、かつて日本が国際連盟によって委任統治を託された、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦の事を指す。日本政府は南洋群島(なんようぐんとう)と呼称した。
19世紀に弱体化したスペインがグアムを除いた大部分をドイツ帝国に売却する。
1914年 – 第一次世界大戦勃発。大日本帝国参戦、海軍がドイツ要塞を次々に攻略して占領。
1918年 – ドイツ帝国が革命によって停戦。
1920年 – ヴェルサイユ条約によって、国際連盟の委任統治領として、グアムを除く赤道以北を日本に託す。以後、日本は南洋庁を置いて統治を進める。社会基盤を整備したほか、先住民に対しても学校教育を行った。また沖縄県を中心に日本人が多数移住する。南洋拓殖株式会社などが次々に殖産し、砂糖などを日本へ輸出して、貿易は黒字であった。
1935年 – 日本が国際連盟を脱退。南洋諸島を自国領に編入し、台湾・朝鮮などと同様に外地として統治を続ける。
1941年 – 9月24日パラオ放送局、放送開始(短波10kW)。12月8日太平洋戦争が勃発。
1944年 – 米軍の大攻勢が始まり、マーシャル諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島の一部の島が米軍の占領下に置かれる。
1945年 – 日本が降伏する。
 現在も、パラオの年輩の方は日本語を話し、親日的だと言われている。樺太についても言えることだが、善い・悪いは別にして、当時の日本は、ある意味、現在よりもグローバル化していたのではないかと思われる。当時の日本人たちの「視野」の広さは、現在のそれと比べてどうだったのだろうか。海外を意識するほど日本を意識し、視野が広くなるような気がするが。

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樺太庁

 樺太庁(からふとちょう、ロシア語: Южный Сахалин、英語: Karafuto Prefecture)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。
 歴史を遡っていくと、そもそも、樺太はどの国に固有の領土だったのだろうか。歴史の中では、日本とロシアが領有権を争うか交換するかをしているが、南樺太には、「残留ロシア人(ざんりゅうロシアじん)」といって、ポーツマス条約によりロシア帝国から大日本帝国に編入された南樺太に、そのまま残留し続けた元ロシア帝国国民のうち、元からの先住民族を除く者を指す者が住んでいたようである。南樺太は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約により日本に割譲された。それまで住んでいたロシア国民は、そのまま残留するか、北サハリンやロシア本土に引き揚げるか二者択一を迫られた。大半の住民は引き揚げを選んだが、少数の者は残留を選んだ。これが樺太における残留ロシア人の起源である。残留ロシア人は財産権が保証されたため、これまで通りの生活を送ることができた。彼らの多くは自家製のパンを焼き、それを「ロシアパン」と名づけて駅前で販売していた。このロシアパンは当時の樺太土産として知られており、ロシアパンの売り声は樺太の風物詩であった。やがて残留ロシア人は日本人社会と溶け込むようになり、日本人経営の企業や商店に勤務する者を現れた。中にはマルキャン・ボリシコのように日本人女性を妻とし、牧場を経営して日本人を雇うほどの名士も出現した。
 しかしながら、日本人とロシア人が同じ土地に共存するなど、現在では考えられない。ロシアパンの売り声が風物詩?一体どういうことなのだろうか。実は、戦前の日本人は、今よりグローバル化しており、排他性が低く、環境適応能力が高かったのではないだろうか。我々は、歴史の一側面しか見ていないのではないだろうか。どなたか、バランス良く歴史を教えて頂きたい。

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平岡定太郎

 平岡定太郎(ひらおか ていたろう、文久3年(1863年)6月4日 – 昭和17年(1942年)8月26日)は日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。
 文久3年(1863年)06月 – 播磨国印南郡志方村(現在の兵庫県加古川市志方町上富木)に農民太吉、つるの次男として生まれた。もともと平岡家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だったが、父太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという。神戸の漢学塾・乾行義塾、御影師範学校(現・神戸大学)、二松学舎、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京大学予備門(現・東京大学教養学部)等を経て、
 
明治25年(1892年)07月 – 東京帝国大学法科大学卒業。内務省試補・庶務局。
明治26年(1893年)11月 – 徳島県参事官。
明治28年(1895年)05月 – 栃木県警部長。
明治29年(1896年)12月 – 衆議院書記官。
明治30年(1897年)07月 – 衆議院書記官兼内務省参事官。
明治31年(1898年)04月 – 内務省参事官兼内務事務官。12月 – 広島県書記官。
明治33年(1900年)01月 – 宮城県書記官。
明治37年(1904年)11月 – 大阪府内務部長。
明治38年(1905年)04月 – 大阪府第一部長。
明治39年(1906年)07月 – 福島県知事に就任。
明治41年(1908年)06月 – 樺太庁長官に就任。
大正03年(1914年)06月 – 辞職。
大正04年(1915年)03月 – 横領罪で起訴。
大正05年(1916年)05月 – 無罪判決。
大正09年(1920年)10月 – 東京市道路局長。
昭和09年(1934年)05月 – 詐欺容疑により逮捕される。07月 – 不起訴。
昭和17年(1942年)08月26日 – 死去。
 赤字部分の6年間が空白であるが、ある研究者によると、政党政治を推進していた原敬の政治資金を調達するため、大陸(中国、満州)で麻薬取引等に関与していた模様である。いずれにせよ、非常に優秀な官僚であり、若くして樺太庁長官に抜擢され、そして失脚し、闇社会で暗躍した。波乱万丈な人生であったに違いない。当時、南樺太は日本領、北樺太はソヴィエト領であった。当時の樺太経営はどうなっていたのか。

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三島由紀夫

 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日~1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた。私が記載するまでもなく、彼の作品は素晴らしく、美意識も相当程度に高い。また、彼の英語力も相当程度に高く、特に、語彙が豊富であるとの印象を受けた。また、ボディビルでも有名だが、そのことは、「セルフ・コンントロール能力」が高いことも意味している。とにかく、「優秀」である。
 それでは、「なぜ彼ほどの優秀な人間が自殺したか。」について軽く考えたい。私なりの結論は、「究極の我に入っていた。」ということである。つまり、「愛の欠落」である。彼の成育歴を調べてみると、彼は通常レベルの両親からの愛情を受けておらず、むしろ、祖母などから通常レベルを超えて抑圧されていたと考えられる。そういった人間は、自分のプラス面もマイナス面も、手放しで受け入れることができず、世の中に対してもネガティブな目で見てしまう傾向がある。真実は本人にしか分からないが、現時点の自分を自分自身が受け入れられなかったり、世の中が自分の理想とあまりにも違ったりで、寂しかったのだろうと察する。 
 三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)の父親は、平岡梓(ひらおかあずさ、明治27年(1895年)10月12日 – 昭和51(1976年)12月16日)、日本の農商務官僚)。梓は、父平岡定太郎の影響で、「消極的ニヒリスト」であったと言われている。消極的ニヒリストに育てられた子供はどうなるだろうか。

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はじめに

 公認会計士という職業柄、「なにそれ? どういう人? どうして?」の繰り返しであった。ある意味、女性はそうした理詰めの質問に弱いので、「なにそれ? どういう人? どうして?」を妻とのコミュニケーションにおいて連発するあまり、家庭が戦場と化したこともある。
 しかしながら、「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスは、物事を総合的に理解し、一定の結論を出す上で必要不可欠である。これは仕事に限らない。例えば、いま自分が太っているとする。なぜ太っているのか。この問いに対する表面的かつ一面的回答は、「食べすぎ」かもしれない。しかし、「食べ過ぎないようにする」とか「食事を抜く」といったことをすれば解決するのかといえば、そうでない。「なぜ食べ過ぎるか。」が重要である。そこには、必ず「ストレス」の問題がある。じゃあ、そのストレスは何か。仕事か、家庭か、人間関係か。そもそも、なぜストレスに感じるのか。自分の体一つとっても、調べることはたくさんある。
 さて、私は公認会計士という職業もさることながら、幼少の頃から現在に至るまで、「うざい」と言われるほどの、こだわりというか、変な引き出しを持っているようだ。この際、この引き出しを公開し、皆様の何らかのお役に立てないかと考えている。私自身、「世の中に無駄はない」と考えている。「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスで考えれば、無駄でないことが分かる。「原因と結果の法則」「すべては必然」「魂」「輪廻転生」等々様々な言葉があるが、すべての人間の営みは人間に帰結すると思っている。
 なお、深度ある記載をしたいと考えているが、私自身、勉強不足や経験不足があるため、深度が甘い場合はご容赦頂きたい。深度が甘い場合、「優しく」コメントして頂けると幸いである。 また、インターネットの発展に尽力された方々に深く感謝する。

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