芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

月: 2010年12月

SR311の綺麗なバンパー

 形状の修理と再メッキが完了し、ようやく元の状態に戻ったリアのバンパー。昭和42年式のSR311のリアバンパーはもう手に入らないとのことなので、大事にしなければならない。
 思えば今年の8月上旬。あの頃の自分はどのような状態だったのだろうか。日々の生活はずっと同じ状態ではあり得ない。日々刻々と変化する。自分の気づかない所でも変化する。どのような状況になろうとも静かに受け入れ、特別なことをしようと思わない方がよい。何か特別なことをしても、気晴らしの「きっかけ」にはなるが、気晴らし「そのもの」にはならない。本当の意味の気晴らしとは、とにかく、日々の生活を静かに受け入れることだ。ただ、気晴らしの「きっかけ」を求めること自体は否定しない。要は、何かに期待しすぎないことだ。

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楽しいラッパ②

 昨日から必ずラッパを吹くようにしている。いきなりフルマラソンができないのと同様、セッションで気持ち良くプレーするには、とにかくラッパを吹くしかない。この際、練習の形式はどうでもよい。トランペットという楽器は、自分の唇を振動させて自在に音を鳴らす楽器なので、唇に過度の負担をかけるわけにはいかない。いずれにせよ、まだ再開したばかりなので、あまり頭で考えすぎず、とにかく楽器になれることが重要だ。そして、練習が苦痛にならぬよう、楽しむ心が重要だ。
 本日の気付きは以下の通り。
 ①舌の移動により息のスピードが変化する。音域が変わる(舌の位置)
 ②上半身は力を抜いて腹で支えるのがよい(腹)
 ③上唇60%・下唇40%のイメージでマウスピースのリムに収まるのがよい(アパチュア)
 ④マウスピース周辺で小さくまとまるのではなく息を沢山入れて楽器を鳴らすのがよい(息の通り)
 ⑤とにかく唇に力を入れないこと。音域が変わっても唇に影響を及ぼさないこと(唇の柔軟性)
 ⑥状態がよければハイトーンは楽に出る。ハイトーンが出ない時は上記①から⑤を見直すこと
 ⑦状態がよければリップスラーは楽にできる。リップスラーが苦しい時は上記①から⑤を見直すこと
 ⑧楽器に溜まる唾の量で息の通り具合が分かる
 ⑨萎縮して小さくまとまらないこと
 ⑩今の自分に合ったマウスピースを探すといいかもしれない

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楽しいラッパ①

 とうとう第一歩を踏み出した。元住吉にあるラッパのS先生宅でレッスンを受けたのだ。
 普段は全くラッパを吹いていないので、レッスンを受けたと言っても散々な結果になった。Fから半音ずつ下がる32拍のロングトーンですらバテバテで、正直言って、悲しくなった。S先生も困ってしまっただろう。レッスンというものは、生徒が自分なりにちゃんと練習してから臨むものだ。さすがにレッスン直前は多少吹いたのだが、多少ではだめだ。申し訳なかったと思う。
 その代わり、以下のような基礎的なことを教わった。
 ①舌を上げる(吐く時のような感じで)
 ②上半身はリラックスする
 ③腹(臍の下のあたり)で息を吸う(→腹に力を入れる)
 ④最後に方で息を吸う
 ⑤楽器にもっと息を入れる
 ⑥アパチュアを大きくしてみる(調整してみる)
 ⑦ペンタトニックを12キーで練習してみる
 S先生の勧めもあり、早速、渋谷にあるトランペットステーションで、Emoのワウワウミュートを購入し、近所に迷惑にならないように吹いてみた。
 まあ、先は長そうだ。これはスポーツでも何でも同じことだが、「楽しめる」状態になるには、それなりの練習が必要だ。しかし、自分の思ったようにラッパを吹ける時の楽しさは知っている。なんとか頑張りたいと思う。

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何かを共有するということ

 週末に奥多摩にツーリングに行った。仕事や法事などで夏のツーリング以来参加できなかったので、殊のほか楽しみにしていた。総勢8台のフェアレディが6:00AMに外環新倉に集結し、奥多摩に向かった。
 私自身もそうなのだが、運転席にしろ助手席にしろ、フェアレディに乗っている時に、ふと何かを考えていることがある。車が車だけにボーっとしていることはできないのだが、ふと、何かを考えるのである。参加された皆さんは何を考えていたのだろうか。一つ言えるのは、それぞれ異なった環境で生きている人達がフェアレディという車を通して同じ時間に同じ場所に集まり、行動を共にするというのは、非常に興味深いものであるといういことだ。極端な表現をすれば、それはフェアレディの家族だ。そしてフェアレディの人格的なものがフェアレディに乗っている人そのものだ。
 フェアレディのオーナーには、いわゆる「一人親方」が多い。非常に個性的である。人も車も個性的なのだから、面白いし、勉強にもなる。

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善と悪

 世の中には暗い出来事が多い。自分の身の回りにも、自分とは遠いところでも。戦争、テロリズム、犯罪等々。それらの情報に触れるたびに、どうしても、世の中を善と悪の二元論で考えてしまう。
 いてもたってもいられなくなって、先輩会計士のN会計士に思いをぶつけてみた。その結果、N会計士は現実的な例を出しながら、実に腑に落ちる考えを述べてくれた。すなわち、「世の中の出来事や人間には清濁混在しており、そもそも清と濁を明確に区分できないものだ。確かに、世の中には悪と言われるものがある。しかし、自分自身はどうだろうか。(自分から見て何かを「悪」と考えるのは自分の考えが「善」であることを前提としているからであるが)、自分だって「悪」の部分は持っているのではないだろうか。つまり、自分自身にも清濁入り混じっているのではないだろうか。この仕事に置き換えてみれば、自分も最初の頃は「清」であろうと努力していたが、いくらそう努力しても、結果として「濁」が生じてしまうことがある。お客さんから報酬をもらっているにもかかわらず、結果としてどうしても「濁」が生じてしまうことがある。私はそれは、極端にいえば、詐欺であるということもできると思う。しかしながら、その点について開き直るのではなく、詐欺とならないように努力している。」と。
 つまり、世の中の「悪」「濁」について憂いるのはある意味ナンセンスであり、まず、自分自身にも清濁あることを認めることが必要だ。それを認めるならば、あとは程度の問題である。戦争、テロリズム、犯罪等々が目立つのは、ごく平凡な生活の中の「悪」「濁」と比べれば、「悪」「濁」の側面があまりにも強いからである。
 以上から、本日の結論は、「自分は『善』『清』である、世の中は腐っている。」といった「自惚れ」を抱かないことが肝要だということである。世の中に清濁入り混じっているのと同様、自分自身にも清濁入り混じっているのである。それが長所と短所であり、ある一面と他の一面なのである。このように考えるならば、この世で生きるのがもっと楽になるだろう。

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『本音ベース』と仕事と税務

 昨晩、現在一緒に仕事をしている先輩会計士I氏と横浜の龍昧で食事をした。私は大学生の時に横浜に住んでおり、横浜TACに通っていたものだから、龍昧にはかなりお世話になった。安くてうまい店で、現在でも満足できる店である。昼も夜も客が途切れることがなく、老若男女問わず、一人で来る客が多いのが特徴だ。
 さて、I会計士は中国の上海に駐在経験のある中国通であり、中華料理にはうるさい。そのI会計士が、龍昧をこう言い表わしている。「本音ベース」の店。私の中では、「本音ベース」という言葉がキーワードとなった。つまりどういうことかというと、こうだ。一番端的な例としては、若い女性が一人で来て、ビールと餃子とニラレバ定食をおいしそうにぺろりと食べる、そんな店なのだ。結局のところ、ほんとに気を許し、自分がリラックスして、食べて満足という店とは、こういうことなのだということ。形振り構わずとまではいかないが、洒落た店ですかして食事をするという行為は、たまにはいいけれども、人間が、心から、本音で望むものではないのだろう。
 この「本音ベース」が、ここまで来たか、という例を今朝発見した。東北地方の零細スーパーで、おはぎがバカ売れしているというのだ。しかも、地元のみならず沖縄以外の地方から客が来ると言う。彼岸の時期には2万個もうれるという。1個105円。ちなみに、年商6億円という。本音ベースもここまで来たかと驚いた。おはぎですよ、おはぎ。誰にでも作れるおはぎ。そのおはぎで勝負している人がいるのだ。ある意味、目から鱗であった。勝負するものは何でもいい。シンプルなものでも、真剣にやれば勝負できるのだ。ちなみに、そのスーパーでは、レシピなしの勘で作られた手作りのお惣菜も人気があるという。すばらしい。
 ところで、税務というのは、まだまだ勉強する必要があるのだが、そうした人間の本音を良く分かっているような気がする。政策的な側面が強いが、それは強弱の問題であって、まあ、良く分かっているような気がする。例えば、会社を設立してから商売が軌道に乗るまでの出来事を簡単に列挙すると、設立費用、役員(自分)に給料を払う、人を雇う(=人に給料を払う)、車などを購入する(ただし、プライベートとしても使用するのが実態だろう)などなど。これらの出来事にはすべて、税務の規定がある。つまり、税を取こぼさないような仕組みになっている。一番端的なのは、思った以上に利益が出た場合、「税金で払うよりは・・・。」という思考になる人が多い。もちろん「払うべきものは払う。」という方もいるが、そこは「本音ベース」のはなしだろうか。
 いずれにせよ、細かい税法の規定も重要だが、そういった人間の本音と、税法の立法趣旨をおさえておきたいものだ。

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人間の喜びとストローク

 人間の喜びは、「人に必要とされること」だと考えている。また、あまりにも意識的にやるといやらしくなるが、「人に必要とされる」状態になるためには、人とのストロークを通じて、自分というものを適切に開示し、人に尽くすことであると考えている。これらの点を仕事に当てはめるならば、「可能な限りお客さんに尽くし、適正な報酬を頂く」ことが基本であろう。ただし、適切な報酬は、金銭的報酬のみでは測れない面がある。仮に自分の想定している金銭的報酬に満たないとしても、チャンス、自らの能力向上、お客さんとの関係を構築することによる無形の利益、その他、「この仕事は自分にとって引き受けるべきものだ」という確信が自分の中で得られれば、その仕事は引き受ければよい。独立開業している以上、基本的には自分が判断し、リスクと経済的便益は自分が享受するわけだから、他人がどうこう言う話ではない。その意味で、自分が自分自身のことをどれだけ信じているかが重要となってくる。
 なお、金銭的報酬は適正水準であることが重要である。自分のした仕事に比して過大な報酬は、お客さんと後々トラブルになる可能性がある。「あれだけ払ったのだから・・・」となる可能性がある。一方で、自分のした仕事に対して過小な報酬は、自分をダメにする。自分不信を招く。したがって、報酬決定は毎回悩む。
 さて、冒頭の、「人間の喜び」に関して、最近心がけているのは、人により興味を持ち、よりストロークをすることだ。また、自分が得るもの以上のものを差し出すことに努めているつもりだ。こういうことを考えていると、新人の頃を思い出す。新人の頃、元の職場のN代表社員という偉い上司がおり、今でも記憶している言葉がある。会食の席でN代表社員がいきなり相撲の番付を取り出し、「俺はココ(横綱)、お前はココ(一番下の小さい文字のところ)。おまえはまだまだこれからなのだから、一喜一憂せず、とにかく一生懸命働け。」と。また、当時独立性について今ほどうるさくない頃、N代表社員を筆頭に、あるクライアントの保養施設に行った。このクライアントは、IPO以前からN代表社員が関与していた会社であり、確かに、N代表社員の貢献は大きい。N代表社員は、「この別荘は俺のものだと思っている。」というのだ。つまり、「会計士だけの稼ぎではこんな別荘を持つことは厳しいが、別に自分自身が持っている必要はない。一生懸命仕事して、その仕事を通じてこのような機会が得られるならば、それでいいではないか。」ということだ。N代表社員は、時に自らの生い立ちを話して下さったが、結構大変な努力をされている方だ。なるほどと思った。
 そういえば、私の母親もある意味同様で、欲がない。他人に対してではなく、自分自身に対するプライドは持っていて、それを冒涜されそうになると守ろうとするくらいで、他人に対して求めることはしない。そんな母親を見ていると、人が寄ってくるのがわかる。母親はよく人の話を聞くので、相手にとっては、話をよく聞いてくれる有難い存在なのだそうだ。
 人は、私欲のためではなく相手のために一生懸命尽くしてくれた人のことは、一生忘れない。
 小学生の時に一人で祖母宅に向かう電車の中で、前に座っていたおばさんが飴をくれたこと。遠足の時に水筒を落として水筒の中のガラスが粉々になって悲しい思いをしている時、なぜか母親が学校に迎えに来てくれていたこと。なぜだかわからないが、中学校の歴史の先生が「おまえは根性がある」と、向学心を駆り立ててくれたこと。高校の担任が、自分の全人格を分かってくれていて、「おまえは推薦入学で大学に行くな。自分の力で行け。」とか、「お前はお前らしくいつも悩んでいるのがよい。」とか言ってくれたこと。公認会計士第二次試験に合格した日に、在京の地元の友人たちが急遽集まって祝ってくれたこと。私は出会いには恵まれてきたと、つくづく思う。多くの人に助けられてきている。
 「自分が、自分が」ではなく、いかに人を思いやるか。しかし、一つ忘れていはいけないのは、凡人は、自分自身がある程度満たされていない限り、人に尽くすことはできない。自分自身が満たされていないのに人にに尽くすことをしたとしても、長続きはしない。だから、自分を信じて自分で自分自身に充電したり、時には人からもらったりしながら充電し、その上で人に尽くすことが重要だ。なお、人からもらうのは、なにも、直接何かをもらわなくてもよい。人とのストロークを通じて、自分の中で、なにかじんわりくるようなものに気付けばよい。
 今日は午前中にJICPAで報告会、午後はT線のK駅にある外国人クライアントを訪問したのだが、この仕事をしていると、上記のようなことをしばしば考える。この仕事はいい仕事かもしれない。

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June Christy

 ハスキーな歌声の女性ヴォーカルといえば、「June Chrsity」も忘れられない。とくに彼女の「How High The Moon」が好きだ。参考映像は、Nat King Coleがピアノ、Mel Tormeがドラムという、何とも豪華な顔ぶれだ。
 この参考映像のJune Christyは、堂々としていて、余裕が見られる。一瞬ロストしてしまいそうなくらいのグルーブ感だ。しかも笑顔が素敵だ。
 しかしまあ、なんで私はこんなにも、「古き佳きもの」が好きなのだろうか。。。

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Chris Conner

 折角土曜日に事務所に行ったのに、ほとんど仕事にならなかった。仕事が乗るようにと音楽をかけていたのだが、その音楽にはまってしまったのだ。久々に甘い曲が聴きたくなり、「Misty」を繰り返し聴いていたのだが、色々なアーティストのMistyが聴きたくなり、iTunesで買いまくった。
 改めてその良さを実感したのが、「Chris Conner」だ。ハスキーでいて、暖かく包み込むようなヴォイスだ。これは人の好みだが、女性ヴォーカルで、芯のあるハスキーな歌声が大好きだ。あと、常にビブラートをかけるのではなく、音をある程度伸ばした後に「語尾」にビブラートをかけるのが好きだ。なんとも「品格」がある。この好みはラッパも同様である。
 これは大変失礼な話だが、脂がのっている頃のChrisは美しい。当時のレストランで、当時の服装をして、当時の演奏を生で聴いてみたかった。

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自分の頭で考えて行動する。

 何事にも言えるのだが、自分の頭で考えて行動することは非常に重要だ。人間の文明がこれほどまでに発展を遂げてきたのは、やはり、オツムの賜物だ。受動的な教育を受け、受動的な社会に慣れてしまうと、人間が本来持っているオツムも錆びついてしまう。つい最近まで自分もそうだった。
 例えば、先日の記事に書いたように、今月からラッパのレッスンを始める。レッスンを始めるにあたり考えたのは、先生にとって最低限の礼儀を払うということだ。つまり、先生にすべてを委ねるという姿勢ではなく、基本的には自分で行動している中でそのアドバイスを頂くという姿勢でいることだ。簡単な例で言うと、歯医者に行く前に歯を磨くようなものか(よくわからないか・・・)。
 そんなわけで、今日も軽くラッパを吹いてみた。私が認識している一番の問題は、息が口から漏れるということ。つまり、息がラッパに効率よく入っていかないということだ。そこで今日は、アンブシュアを意識してみた。これまで、唇の真ん中にマウスピースが来るのがあるべきアンブシュアだと考えていたが、その考えを取っ払った。今日は、息が漏れているところにマウスピースの中心を敢えて持って行った。すると、なんだか、息の通りがよいような気がするのだ。試しに、ハイトーンを出してみた。「唇に力が入らないようにするために腹に力を入れる。」ということを意識してみたところ、ハイE♭が出た。まぐれもあるが。
 こんな風に、今日は、自分の頭で考えて行動してみた。時には思い込みを取っ払い、大胆な仮説に基づいて行動してみる。そして、その行動の結果を分析する。こんな感じでラッパを頑張ってみようと思う。

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永平寺第78代貫首 宮崎亦保禅師の悟り(再)


人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。

それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 心に染みるお言葉です。泣けてきます。自分の両親や自分の祖父母、いや、世の中の中高年の方々を時には思ってみて下さい。きっと色々な事があったでしょう。他人の想像を絶することがあったでしょう。それでも日々生きているのです。どうせ何度も大きな壁にぶち当たるのだから、先を案じ過ぎず、いつもやりたいように行動すればよいと思います。

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Trumpet

 トランペット(英: Trumpet、伊: Tromba:トロンバ、独: Trompete:トロンペーテ)は、金管楽器の一種。略称は「Tp」「Trp」「ラッパ」「ペット」など。管の全長に対して円筒部分の割合が大きく、多くは長円状に巻かれ、その中ほどに3つ(稀に4つ)のピストン又はロータリー式のバルブを備える。この楽器の調性には様々なものが存在するが、最も一般的なのは変ロ調(B♭管)とハ調(C管)である。ハ調を除き、移調楽器である。3つ又は4つのピストンまたはロータリーを操作しつつ、息のスピードで音を変え、演奏する。
 写真は、約20年前に、今は亡き祖父に買って貰った、Vincent Bachの「Stradivarius Model 37」。まだまだ使える逸品だ。ちなみに、以下の事項は知らなかった。。。
 ヴィンセント・バック社は1918年にウィーン生まれのトランペット奏者ヴィンセント・バック(本名:ヴィンセント・シュローテンバッハ、Vincent Schrotenbach、1890年 – 1976年)によって設立された。創業当初はマウスピース製造を目的としていたが1924年にはトランペットを製造しはじめている。 この数年間でヴィンセント・バック社はアポロ (Apollo) 、ミネルバ (Minerva) 、マーキュリー (Mercury) 、メルセデス (Mercedes) 、ストラディバリウス (Stradivarius) などのブランド名でトランペット、コルネット、フリューゲルホルン、トロンボーンを製造した。しかし1961年にセルマーUSA社に買収され傘下となり、ヴィンセント・バックは辞任した。買収後もヴィンセント・バック社の楽器設計は維持され、バック・ストラディバリウス(Bach Stradivarius)の名で販売されている。全米自動車労働組合364地域の呼びかけで、2006年4月から2009年現在、3年以上の期間、従業員がストライキを続けている。しかしながら、製造、供給は継続されている。

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再開・再会

 歳を重ねるにつれ、いかに自らの生活を自らが充実させるかを考えるようになる。決して「隙間症候群」ではないのだが、「三脚」は足が3本あるから安定するように、自分にとっても「人(生活)」「仕事」と、より充実した「教養」が欲しいところだった。「三人寄れば文殊の知恵」と言うように、より精神的に安定するには、2つの点を結ぶだけではなく、あともう1点を加えて「面」にすることが重要である。
 このような時、「自分に足りないもの」を探してはいけない。「あれがない、これがない」と言っていては、いつまでたっても「足りる」ことはないだろう。先輩会計士のN会計士がいいことを言った。「足るを知る」ということだ。そうしてみると、自分は音楽が趣味だ。以前はトランペットとピアノをやっていた。しかし今はピアノを失ってしまった。残るのはトランペットだ。中学生の時に今は亡き祖父に買ってもらったトランペット。これしかない。
 早速トランペットを再開すべく、まずは、レッスンを受けることにした。ネットでさんざん探したがめぼしい先生は見つからない。そこで、高校時代からの友人のJAZZ SaxミュージシャンのI氏に連絡し、誰か紹介してくれるようお願いしたところ、なんと、共通の知人であるJAZZ TrumpetミュージシャンS氏の名前が挙がった(写真)。彼は私が大学のJAZZ研で活動していた時の先輩である。数年間サラリーマンをした後、プロとして独立した。彼はとにかくトランペットが好きだ。研究と練習を重ね、彼が大学2年生の時にはすでに、素晴らしいアドリブを披露していた。早速彼に連絡しレッスンをお願いしたところ、なんと、快諾してくれたのだ。思い立ってから行動に移すまで約3ヶ月かかった。こんな感じで時が過ぎてゆくのだから、第一歩を踏み出すことがいかに大切なことか。
 早速今月に第1回目のレッスンがある。現在の私はかなりブランクがあるため、アンブシュアから始まる基礎的なことからやらなきゃだめだ。一方で、わたしは、小学生の頃からトランペットをやっており、その楽しさはよくわかっている。トランペットを通じて人に何かを伝え、それが伝わった時の感動は、何物にも代えがたい。そんな状態に必ず持っていくつもりだ。たとえが悪いが、チェット・ベイカーは喧嘩や麻薬の影響ですべての歯を失っても、謎の転落死をするまで死ぬまでトランペットを続けていた。何かを伝え続けていたのだろう。
 さあ、はじめよう。いま自分にあるものからはじめよう。

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体の声を聞く

 時には、体の声を素直に聞くのがよい。大病を患った人がそれまでの自分の生活を振り返り、「そういえば、あの時は妙に・・・だったな。」とか「あの時の・・・が響いたのだな。」という話をよく聞く。
 早いものでもう12月である。気がつけば、12月の夜の予定はどんどん埋まっている。ただでさえ寒くて、風邪っぴきが増えて、体調管理が難しい中、連日のように夜に酒を飲むとなると、体にこたえないわけがない。「全然平気だ。」という方もいるが、おそらく、体の声が聞こえていないだけだと察する。
 ある大先輩の会計士でが、「健康第一ではなく、健康がすべてだ。」と仰っていたことが印象的で忘れられない。その会計士は若い頃に過労で大病を患ったという。ある意味、過労と言えるほど仕事をしてみたいが、やはり健康あっての仕事だ。結局、体調が悪いといい仕事ができないし。
 時には、自分の体の声を聞こう。おいしいものを食べるのではなく、自分の体が求めているものを食べよう。できれば、自分のために自分で料理を作ってあげる。自分に対する労りである。

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Blog1周年

 早いもので、「なぜ会計士EBJはうざいのか?」-独立系会計士の思念-のBlogの初めての記事を2009年12月2日に書いてから1年が経過した。毎日更新し続けることは叶わなかったが、とりあえずは、このBlog自体を続けられたことを心に留めておきたい。
 当初は、「あるテーマについて、公認会計士としての切り口から考察する。」ことで一貫して記事を書くつもりであったのだが、「単なる事実・歴史等の説明」・「単なる制度説明」→「『あるテーマについて、公認会計士としての切り口から考察する。』ことが多少なりともできてきた(?)」→「日々の雑感(っていうか日記?)」のような内容の変遷を辿ってきており、最近は自分の中でもしっくり来ていなかった面もあった。
 いずれにせよ、これから2年目に突入する。ここで今一度、「あるテーマについて、公認会計士としての切り口から考察する。」ことを確認し、「なるべく」そうしようと思う。ただ、一つ言えるのは、「公認会計士」といっても、仕事上、会計・税務等のことだけで行動しているわけではない。様々な人間模様、組織文化等に接するわけで、むしろ、そっちの方が大事、というケースもある。したがって、カテゴライズの仕方としては、従来通り、「人」、「教養」、「仕事」という3つでやっていきたいと思う。単なる日記にするつもりは毛頭ないので、いかに考察を深めるかが重要と考えている。

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