芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

月: 2011年8月

2011年8月31日~夏の終わりに~

 グレゴリオ暦において四季を区切るとすれば、本日をもって夏は終了となる。今年の夏は暑かった。非常に暑かった。しかし、今年も積極的に暑さに向かっていった。私も愛車も熱中症(エンジンの水温が80℃に達すると非常に調子が悪くなる)になりかけながら、愛車と共に暑さを満喫した。そんな夏が終わってしまうのは、物悲しい。いや、3週間前からうすうす気付いていた。夜の音が変わっていた。だんだんと秋を感じさせるような空、虫の音、蝉の死骸。「夏の終わり」だ。夏の終わりを惜しむ恩師T教授の姿が思い浮かぶ。
 今年の夏もそれなりに行動できたが、例年の夏とは違う。大震災のことは絶対に忘れられない。頭の片隅にいつも残っている。ただ、換言すれば、いつも頭の片隅に大震災のことがあるから、休養を取っている時以外は、「今、この時間を、精一杯生きよう、楽しもう。」という発想になれるのだと思う。それと関連して、「いい意味」で「比較」ができる。幸福論⑤でも書いたが、「一見して順風満帆に見える人でも、人は皆、何かしら問題を抱えて生きている。」ということを思えば、ほんの少しでも、勇気が湧いてくるのではないだろうか。つまり、自分と他者とを比較してみて、「自分だけではない。」ということを認識するのである。老婆心ながら、「他人の芝生は青く見える。」的な「比較」は全く必要がないどころか、有害である。何事も、「社会通念上の常識」はあるとしても、「決まった形」などない。「ふつう」ってなんだ?誰が決めたんだ?「人それぞれ」のはずでしょう。
 高校時代からの友人YTが、大きな一歩を踏み出した。心から敬意を表する。私は男性ゆえ、子を持ったばかりの母親の気持ちを、多少は察することはできるものの、本当のところはわからない。ただ、勇気を持って一歩を踏み出したことは、人間として本当に素晴らしいと思う。「がんばれ!」とは決して言わない。「負けるな!」である。この曲この曲を友人YTに送る。

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FBのもたらすもの

 FBをなぜやるのか。FBをやる目的は人それぞれで、他人のやり方を否定も肯定もしない。ただ、他人のやり方に巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。自分は自分なりのFBワールドにいたい。
 私がFBをやる目的はただ一つ。「懐かしい人に再会すること」である。FBを始めた当初は、実態がよくわからなかったこともあって、特にポリシーなくやっていたが、現在は徹底しているつもりだ。お陰さまで、本当に「懐かしい~!!!」という人と何人も再会できたし、本日は、おそらく15年ぶりくらいに、高校時代のG先輩と再会し、食事をしながらゆっくりと話をすることができた。詳細はここでは書けないが、G先輩の「マメさ」ぶりには、心底感服した。
 今の世の中は、情報があふれている。有用な情報もあればそうでない情報もある。おそらく、自分にとって不要な情報の方が多いのではないかと感じている。自分の軸をしっかり持っていないと、情報に振り回されてしまうこともあるだろう。なので、自分にとってどのような情報が必要で、どのような情報が必要ではないのか、はっきりさせておいた方が良い。そして、不要な情報を遮断する勇気が必要である。私が会計士になりたての頃、クライアントの担当者にヒアリングをしていた際、その担当者は、「整理されていない情報はゴミだ」と言い放ったことを思い出す。つまり、自分にとって必要な情報でさえ、ちゃんと整理しておかないと役に立たないのだから、世の中にあふれる情報なんて・・・。

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自律

 ありがたいことに、本日も前職の元上司K氏と面会し話をする機会に恵まれた。K氏は、監査法人の中でも頭脳派で、バランス感覚に優れ、引出しが多い方だ。いわゆるライン業務をご一緒させて頂いたことはないのだが、クライアント・リレーションシップをはじめ、我々の業界のあり方、監査法人のあり方などについて議論する機会が多かったのが不思議だ。おそらく50歳前後だと察するが、見た目がお若く、体系もスリムに維持され、御自身を律しておられるのがよく分かる。
 話の流れで、K氏周辺の独立した会計士のお話を幾つか伺った。「ここぞ」という時に備えて、毎日30分水泳をし、瞬発力を維持している方の話、(独立したK氏周辺の会計士を見ていて)30歳代は自然の流れに任せて過ごすことの効用、独立後、(図ったのか図らなかったのか)年代に応じてビジネス・ポートフォリオを変化させている会計士等々、貴重なお話をお聞かせ頂いた。
 いずれにせよ、「自律」の大切さを改めて認識した。独立すると「決まりごと」がないため、気を抜くといくらでも怠惰になることができる。怠惰な心は言動にも見た目に如実に表れる。真の「自律」した人間かどうかは、すぐにわかってしまうのである。

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 最近つくづく思うのは、体のバランスを崩す一番の敵は、「運動不足」である。「食べ過ぎ」「飲み過ぎ」よりも大敵だ。運動不足だと、内臓の動きが悪くなり、代謝が悪くなって、贅肉がつくようになる。贅肉がついて身体が重くなると、行動力が無くなってくる。まるでいいことがない。
 ここ10日くらいは、原稿を書き上げるために別の事務所に籠っていたのだが、案の定運動不足になった。しかし、そこから脱するのは自分。自分しかできない。
 そんなわけで、常に自分の体を眺めようと思い、目立つ所に鏡を置くことにした。自分の体を眺め、自分の体を知った上で、鍛えていきたいと思う。自分の体は自分で何とかするしかない。「幸せ」と同じだ。

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幸福論⑤

 なんとか締め切りまでに原稿が出来上がったので、愛車で父親と海に出かけた。猛烈な暑さだったが、その暑さを楽しむために。そもそもこんな車に興味を持つようになったのは、間違いなく父親の影響だ。アマチュアのレースもやっていたことのある、無類の車好きの父親は、私が幼い頃からレース観戦やドライブに連れて行った。当時はオイルの焼けた匂いがいい匂いとは思わなかったし、エキゾースト・ノートが心地よいとは思わなかったが、無意識下で私の体に染みついたのだろう。行きは私が運転し、帰りは父親が運転した。
 もう確信となったことで、あれこれ思い悩むことはない。それは、「今が幸せだ」ということだ。こうして共通の趣味を持つ父親と海を見に行けることは幸せだ。また、今夏も家族で墓参りに行けたことは幸せだ。ちなみに、母方の墓は、先の大震災で墓石が丘の下に落下してしまっていたが、お寺の方が拾い上げてくれたのだろう。何とか花と線香をあげられる状態にあったのは幸いだった。
 幸せはどこか遠くにあるものではない。「将来に」幸せになるのではない。誰かが与えてくれるものではない。幸せとは、自分が感じるものだ。一見順風満帆に見える人も、どんな人も、何かしら問題を抱えて生きている。問題があること自体は不幸なのではない。問題ばかりに目が行って、自分の手の中にある、自分の心の中にある幸せを感じられないことが不幸なのだ。
 どうやら、今夏も終わりに近付いているようだ。暑かったが、その暑さを体中で楽しんだ、いい夏だった。

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こだわり

 
 この別荘地のような風景、モダンなリビングは、私の高校時代の友人が経営する特養ホームである。9月にOPENするそうだ。まるで軽井沢のように木々に囲まれた、居心地の良い場所である。お盆の時期で忙しい中、丁寧に案内してくれた。
 彼は研究熱心なのはもちろんのこと、そもそも、「こだわり」の強い人間だ。高校の入学式には星条旗のような服に長髪で現れ、私の母親は今だに「赤シャツ」と呼んでいる。テニス部だった彼は、こだわりのテニス用品とウェアで身を固め、これまた目立っていた。
 そんな「こだわり」が、まさに花を開いている。その「こだわり」があったからこそ、素晴らしい施設・施設運営ができるのである。枚挙に暇がないが、檜風呂、光とりの窓、全体的に木の素材、部屋からの借景等々、とにかく細部に彼の心遣いが生きている。本当に素晴らしい施設だ。
 今後は、私も、介護業界の研究をし、介護業界に関する何らかの業務を開発していきたいと考えており、彼の存在は非常に心強いし、いつかは彼の役に立ちたいと考えている。私も「こだわり」の強い人間ゆえ、その「こだわり」を人の役に立つような形で活かしていければ幸いである。

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恩師K教諭との再会

 約10年ぶりに恩師K教諭と再会した。お互いに年をとったわけだが、以前のような会話、いや、以前の会話に輪をかけた会話になるまで、そう時間を必要としなかった。
 恩師K教諭は人生を達観している。高校生の時に既に「人に求めない」行き方を選んだという。話した話題に枚挙に暇がないが、もっとも衝撃的だったのは、パスカルの言葉である。恩師K教諭によれば、「人間は考える葦である。」などとほざくパスカルは「ケッ」という感じだったらしいが、その後、同じくパスカルの「人生は死ぬまでの暇つぶしである。」という言葉を知った時、度肝を抜かれたそうだ。私はその時初めて知った言葉なのだが、直感では度肝を抜かれたが、分かったようで分からないような言葉だ。まだまだ時の経過が必要なようだ。
 いずれにせよ、恩師K教諭のトークは御健在で嬉しかった。益々深みを増す恩師K教諭には、折を見てお会いし、人生の考察を深めていきたい。

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恩師K教諭

 私が恩師に恵まれていることについては、「学校とは」「恩師T教授」の記事で書いたところであるが、週末に恩師K教諭からお電話お頂いた。I県の方言バリバリの相変わらずの御口調で、高校時代の授業風景が蘇った。英語の先生であったが、英語の授業の記憶よりは、先生が若い頃の出来事、ニーチェやフロイトに関する考察等の話の記憶の方が強いのはなぜか。なお、写真は恩師K教諭撮影のものである。この1枚だけでは分からないが、プロ並みの腕前である。
 恩師K教諭とは、今月我々教え子数名でお会いする予定であったが、ワケあってキャンセルとなり、週末の電話会談となった。恩師K教諭も私の奥深くまで分かってくださっているありがたいお方で、短い時間であったが、熱いものが込み上げてきた。当日でもいいから、近くに来た時は声をかけてくれというお言葉は、社交辞令ではなく、本物だ。
 思えば、恩師T教授と恩師K教諭を御対面させて頂く機会があったのだが、あいにく恩師K教諭のご都合でそれは叶わなかった。いつの日か、それを果たしたいと思っている。
 2011年8月8日午前の一曲

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美意識

 
 
 夏は暑くてなんぼだ。暑い夏が好きだ。昨日は天気が悪くて愛車に乗ることができなかったが、今日は夏らしい天気だ。熱中症になりかけながら、ドライブを楽しんだ。ちなみに、渋滞中の中央道では、意識が遠のきそうになるのをこらえるのに必死だった。助手席に置いておいた先ほどまで冷たかったペットボトルのお茶は、HOTになった。
 なぜだかわからないが、今朝、白洲次郎に呼ばれているような気がしてならなかった。「武相荘に来い。」と。以前から一度行ってみようと思っていたので、早速行くことにした。今は町田市、旧鶴川村。今でこそ住宅が多いが、昔は農村だったのだろう。武相荘も元々は農家だったという。
 白洲次郎と白洲正子は、昭和15年に購入した家にコツコツと手を入れながら、それぞれの美意識に基づく家づくりをしていったそうだ。土間を改造したリビング、白いタイルの床、家具、食器等々随所に、彼らの美意識がある。他人に対する虚栄心を満たすための装飾ではない。自分達の生活を楽しむための美意識だ。「こだわり」と人が言う場合、時には「かたぶつ」「融通がきかない」「変わり者」のようなあまりよい意味でなく使う場合があるが、そういう類は放っておけばよい。そういう類はきっと、人でも物でも、こだわった事がないのだろう。何でも、良いものは、長く使えば使うほど愛着が出て、自分の一部になるものだ。また、美意識のある女性は、仕事も身のこなしも、本当に美しい。
 2011年の暑い夏。都心から少し離れた武相荘で、美意識について改めて思い巡らせた。お洒落をして、汗をだらだらかきながら、しかしクールに愛車をのることは、趣味であり、ストレス発散であり、美意識なのである。誰が何と言おうと、関係ない。

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恩師T教授

 昨晩は、知人の主宰する会食(写真は全く関係のない参考画像である)に参加した。早速、恩師T教授との約4時間にわたる会話から帰納集約した気付きを実践する機会を得た。「気付きを実践する」といっても、要は「いつもの自分でいる」ということなのだが。
 ある精神心理学者は言う。「全員に好かれようとすればするほど萎縮する。どれだけ頑張ったとしても自分のことを嫌いな人はずっと自分のことが嫌いなものだ。」と。断っておくと、既存の人間関係に何か悩みがあるわけではない。初対面か付き合いの浅い他者との人間関係構築において、実験をしているのである。①極度に気をまわした場合はどうなるか、②ほどほどに御行儀よくしていた場合はどうなるか、③いつも通りの自分でいた場合はどうなるか、④御行儀悪くした場合はどうなるか。結果、①と④は意味のないことであり、②はお互いにあまり記憶に残らないということが分かった。時と場合によるが、積極的に新たに人間関係を構築するのであれば、③なのである。たった今、これまでにこのような事をあれこれ思い悩んできたこと自体がくだらなく思えてきた。
 とはいえ、なんでもそうなのだが、時には、ある1点のことをとことん考え抜くのは必要だ。そして、あえて振れ幅のある行動をとってみることも重要である。要は、自分の頭で考え、行動すれば、おのずと答が見えてくるものだ。

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学校とは

 福沢先生によると、「学校は人に物を教うる所にあらず,ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず,よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして,能力の発育にあり……。我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。」とのことである。私自身、福沢先生とは別のところで、「教育」という言葉は「Education」の本質を表していない、ということを知ったのだが、確かにそうかもしれない。
 空が暗くなりかけた夏の夜に、母校のキャンパスに行った。夏休みのためか、人は疎らで、ゴミ一つ落ちておらず、整然としていた。新築の近代的な校舎はモダンで、学生には堪能できない粋な場所もある。その粋な場所で、大学時代のゼミの恩師T教授と待ち合わせをした。思えば、自分は恩師に恵まれてきた。正確に言うと、小学生時代はあまり恵まれていないのだが、基本的に恵まれているのだ。とりわけ、高等学校・大学では、素晴らしい恩師に出会うことができた。
 T教授には、授業やゼミはもちろんのこと、論文(卒論ではない)のご指導まで頂き、大変感謝しているのだが、自分にとって一番ありがたいのは、「自分のことをよく知ってくださっている。」ということだ。今回お会いして話をした中での私にとってのキーワードは、「自分の○○な面を認識すること」「自分が正しいと思わないこと」「自分はspecialで異常だと思うこと」「自分の考えを他人に押し付けないこと」「上から目線」「下から目線」等々。もっと凄いのは、T教授によると、「君は、自分が『Xである』ということに気付いていない。仮に『Xである』ということに気付き、悩んだとしても、心の底から『Xである』ことをやめようとは思っていないので、ずっと『Xである』ままでしょう。それが君だ。」と。そこで、上記のキーワードが必要となるのだ。
 深い・・・。
 「ある物事についてあれこれ思いを巡らせても仕方がない。自分自身を知ることが最も大切なことだ。自分自身を知ったら、その知った自分をもって、人と接することだ。」という結論を、自分なりに出しました。

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「綺麗に纏まろうとする事」の効用

 「人間の成長は必ずしも年齢に比例しない。」、もっと言うと、「人間は同じ失敗を繰り返すことがある。」ということを、ある架空の警部が教えてくれた。人に迷惑がかかることや、工夫すれば防げるような技術的な失敗を繰り返すのは善くないが、もっと大きな視点で、生活の流れというか、人間関係の流れというか、仕事の流れというか。中長期的な「流れ」の中では、同じ失敗を繰り返すこともあるのではないだろうか。
 逆に言うと、「1回失敗したのだから次は綺麗にまとめなければならない。」という想いは、分からなくもないが、時には過度のプレッシャーになり、自分の力を十分に発揮できない。失敗を正当化するわけではないが、要は「自分の力を最大限出すため」の条件として、失敗について思い悩むことにどれだけの価値があるかについては、その都度考えた方がよいと思う。結局は自分との闘いなのだから、自分のネガティブな面に固執してしまうと、結果が出ないのではないだろうか。これは、あるアスリートが教えてくれた。

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2011年8月1日

 小学生の頃、夏休みは7月20日頃に始まり、8月31日に終わる。8月1日というのは、夏休みの4分の1が経過した「だけ」とも思えるのだが、楽しい夏休みの時の経過は殊のほか早い。以前から、8月に入ると、気が早いが、夏の終わりを意識せざるを得なかった。だから一層、暑い夏を楽しもう、記憶に刻もうと思うのである。
 先日、高校時代からの友人Tと食事をした。思えば1年ぶりの再会だ。彼の凄いところは、「ダジャレ」を言い続けているということだ。実は私も、高校時代には、Tと競うようにしてダジャレを垂れ流しており、数々の関係者に迷惑をかけたと反省している。ところがTは、現在も職場でもダジャレを垂れ流し、ダジャレコンテストで全国4位にまで上り詰めたというのだから、筋金入りだ。何事も、動じずに続けるということは、尊い。
 ところで、Tから、私のこのBLOGをやる目的について質問を受けた。他の関係者からも同様の質問を受ける。心がけているのは、①個人的な日記に終始しないこと、②虚栄心を満たす手段にしないこと、の2点であるが、何のために続けているのか。
 思えば、このBLOGを見てくださっている方々は、おそらく、私の既知の友人・何らかの関係者のみである。ありがたいことに、毎日20人前後(同じ人が1日に複数回訪れることはカウントしない)の方が見てくれているのだが、2年近くやっていて、今ふと思ったのは、そうした皆様に対する私からの「お便り」であるということだ。「今、自分がどうしているか、何を考えているか」ということを、等身大で見て頂く。BLOGはOPENなメディアゆえ人に迷惑がかからないよう、しかしこれからも地味に、綴っていこうと思う。

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