芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

月: 2015年2月

『日々新也』~業務効率UP~

こんにちは。
江幡公認会計士・税理士事務所の江幡淳です。
複合機を新調しました。
数年で進化するのですね。人感センサーがあります。
同時に、テラステーションを購入し、電子データのバックアップ体制を強化しました。
これからも業務効率化をどんどん進めていきます。


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☆ラッパ会計士☆

こんばんは。
江幡公認会計士・税理士事務所の江幡淳です。
僭越ながら本日送られてきた会報に載っておりました。
業界に貢献できるのであれば、単なる趣味に終始せず、いくらでもラッパを吹かせて頂きます。

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☆ツーリングに行ってきました☆

仕事が山積みでそんな余裕はないのですが、ツーリングに行ってきました。
今回は小名浜です。
寒い朝に、早起きをして、寒い寒い言いながらのツーリングは、ただ参加することに意味がある。
皆様の何気ない一言や仕草に、生き様を垣間見ることができます。

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芸術家と会計『01_芸術家と社会』~音楽取調掛~

もう2月になりましたね。
江幡公認会計士・税理士事務所の江幡淳です。
いつもお世話になりありがとうございます。
以前ご案内した芸術家と会計『01_芸術家と社会』におきまして、
「学校」という観点から明治維新直後の日本における芸術について軽く触れました。
もっと古い学校があったのですね。
それが「音楽取調掛」です。

音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)は、1879年から1887年までに存在した、文部省所属の音楽教育機関である。一時は音楽取調所ともいわれた。学校における音楽教育の研究のために1879年に設立され、1887年に東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)に発展的解消した。
(出典:Wikipedia)
明治5年(1872)の学制頒布でもって、小学校に唱歌を、中学校に奏楽をと決められました。しかし教師も教材も何もないから、学制頒布で決まったけれど何もできなかった。伊澤修二(1851-1917)は明治5年に文部省に出仕して、明治8年(1875)に愛知師範学校の校長をしているときに、アメリカボストンのブリッジウォートルという師範学校に調査のために留学した。伊澤らの進言により明治12年(1879)に初めて文部省内に音楽取調掛というのができ、これが音楽学校の始まりとなる。
その後、明治19年(1886)に音楽学校を作ってほしいと、伊澤を中心として上申書を森文部大臣に出す。音楽取調掛ができてから7年も経ち生徒も教育し、それなりに成果をあげていた。しかし、音楽取調掛を含めて、音楽、その他、優美に属する芸術家を養成したりするところは日本になかった。これは日本国民にとって不幸である。今文部省が音楽学校を設立しなければ、日本の開明進歩をさらに遅らせるという内容であった。その後明治20年(1887)10月に文部省告示で東京音楽学校が正式に認可され、伊澤修二は初代校長になった。
(出典:台東区文化ガイドブック~旧東京音楽学校奏楽堂を歩く)
日清戦争(1894年)以前の日本で、このような議論があったこと自体が、何だかすごいな、と思うのです。
やはり、芸術は社会にとって必要なものなのでしょうね。

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