Ebalog

芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

走行距離不明

 三連休最後の日はようやく晴れた。雪の日はそれはそれで趣があり、街ゆく人々にも温かさが感じられ、私はすきなのだが、如何せん、晴天の日でないと乗れない車に乗っているので、晴れの日の休日は待ち遠しい。
 そんなわけで、実家にいる甥の顔を見るのとドライブを兼ねて、I県M市に向けて車を飛ばした。風が強く、橋の上では風の洗礼を受けて多少は恐ろしい思いをしながら走った。最近思うのだが、高速道路における運転マナーがよろしくない。追い越し車線をトロトロと走っている車、後方の車間距離を確認せずに進路変更する車、車線を守らない車等々。自分の身は自分で守るしかない。
 ふとスピードメーターを見ると、走行距離が50,000km(性格には50,009km)を示していた。無論、純然たる50,000kmではない。一体、何十万50,000kmなのだろうか。1967年に生産されて以来44年。どれだけ走っているのか。走行距離は不明である。

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赤プリ


 ここ数日、父親が所用で赤プリに滞在していたので、昨晩は私も赤プリに宿泊した。残念なことに、日本の顔である赤プリは、この3月をもって閉館となる。非常に残念である。上写真は、プリンス通りに面している旧館である。旧館は1930年竣工の旧李王家邸を改装したものである。今朝、3階のポトマックで食事をしたのだが、席がまさに旧館の目の前だったので撮影した次第である。下写真は3747号室。37階からの眺めは絶景だ。
 最近は父親が頻繁に赤プリに宿泊するので、お互いに都合が付く限り、一緒に食事をし、そのまま私も宿泊することがある。今回も例によってそんな運びになったのだが、近い将来に無くなってしまうものについては、名残惜しさを感じるものだ。赤プリはもはや一企業のビジネスの範疇に収まらず、日本の顔であるという面があると思う。「無くなる時」が近付くと急に名残惜しくなる。今にして思えば、もっと収益に貢献しておくべきだった。そんな思いで、最近は、朝食に赤プリのパンを買い求めることが多い。
 赤プリよ、おつかれさまでした(まだ終わっていないが)。

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状態を整えてから主義

 「くそ~っ、なにやってるんだ!」という感じなのだが、今日は早起きして執務スペースを整え、落ち着いたのが今だ(途中、ビックカメラに行ったが)。昨日、IKEAで大量に買い物をし、午前中一杯かかって組み立てを行った。御経験の方には解かると思うが、IKEAの家具類の組み立ては相当きつい。本日は書棚1個、引出2個、扉付収納2個、間仕切り1個だ。
 私は、何か(特に仕事や勉強)を始める前には、身辺を綺麗にしておきたい性質だ。この点は、慶應義塾大学商学部T教授も同様だそうだ(「同様」というと私と同列のようで怒られそうだが)。書類等が散乱している中で仕事をするのは耐えられないのだ。ちなみに、私は、仕事をしていて書類が散らかりそうになると、一呼吸おいて書類を整理する。この方が仕事の効率が滅法良い。
 写真は、新調した机と本日組み立てた書棚等だ。これからやっと仕事に取り掛かる...

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心機一転~マネジメント・デスク~

 ワケあって(慶應義塾大学商学部T教授風に)、机を新調しました。ワケあって、幅180cm、奥行85cm、高さ70cmのサイズにしました。やりすぎた感はありますが、広々と余裕をもってスペースを使えるので、心地よさがあります。毎日使うものなので、こだわって選びました。R天でかなり調べまして、最後は2つの候補に絞られましたが、最近は何でも「国産」がよいと考えています。素材等について友人の建築士Eにもアドバイスを頂いたりして、結局、KOKUYOの「MG-S37DF1885-P1YN」というものにしました。ちなみに、奥の本棚が整然としていませんが、これは一時的な状態であり、可及的速やかに整理整頓する予定です。
 さて、頑張って仕事します。

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Piano

 写真は、高校時代からの友人IからいただいたRolandの電子ピアノである。彼が音大受験時代から使用していた非常に貴重なものなのだが、ピアノも防音室も新しいものに買い替えるとのことで、ありがたく頂戴することにした。
 私も以前は電子ピアノを持っていたのだが、ワケあってそれがなくなることになって久しかった。そんな折、本年正月に久々に友人Iに会い、この話が出た。「捨てる神あれば拾う神あり」とはまさしくこのことだ。ちょうど最近、ラッパの練習を再開したのだが、コードごとに音階をとりたいと思っていたし、これまでピアノで弾いた私のレパートリーを再び弾けるようになりたいと思っていたので、本当にありがたいことである。

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父親

 本日は慌ただしい、肉体労働の日であった。心機一転、事務所の机とキャビネットを新しくするため、これまで使用していた机とキャビネットを、午前中に事務所から自宅まで運んだのだ。一人ではできないのだが、都合のつく友人がつかまらず、父親にサポートしてもらうことになった。また、大きなものなので普通の車では運べないことから、私のお客様から軽トラを借りた上で運ぶことになっていた。さらに、机とキャビネットを運んだ後、私は、友人Iから電子ピアノをもらうことになっていた。ただ、その友人Iは夜にならないと自宅に戻らないことから、夜までの時間を父親と過ごすことになった。つまり、本日は、午前の部の配送と夜の部の配送の2本立てと、午後の部は自由時間となったわけである。
 午前の部終了後に軽トラを返したわけだが、そのお客様の所在地は川口市。川口といえば川口オート。私も一度行ってみたいと思っていたし、父親がオートバイが好きなので、午後の部の自由時間は川口オートに行くことにした。オートレースと言えば、私が高崎市に住んでいた頃、父親に伊勢崎オートに連れて行かれたことを鮮明に記憶している。当時は、私はオートバイや車にさほど興味がなかったことから、オートレース場に鳴り響く爆音やオイルの焼けた匂いは好きではなかった。ちなみに、父親も、幼い頃に叔父に大井のオートレースに連れて行かれた記憶があり、それ以来オートバイが好きになったそうだ。血は争えない。子供というものはなんと純粋無垢なのか。あらゆることに刺激を受け吸収し、自らの人格を形成していく。
 さて、第10レースから参加したわけだが、父親は4,000円ほど投資して回収額ゼロ。私は1,000円投資して回収額1,440円。そもそもギャンブルを目的にして来たわけではなく、オートレースの雰囲気を味わいに来たから結果はどうでもよいのだが、父親が嬉しそうに楽しんでくれたので、それがなによりだった。
 ある出来事を契機に、その出来事から副産物を得た。その副産物とは家族の絆の強化だ。もともと私の家族は普通にワークしている家族であったが、最近は結束がより強固になった。これからも機会があればこうやって家族と接し、家族のことをもっと知りたいと思っている。

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本質は国境を越える

 本日午前中は、台湾人のお客様を訪問した。源泉徴収等の手続的なことから今後のビジネスのことについて協議したわけだが、私がふと、彼女がビジネスを始めるきっかけについて質問したことがきっかけで、その後30分以上話し込んでしまった。
 彼女曰く、「30代は数々の困難があるが色々なことへのチャレンジを恐れないこと、40代はこれまでやってきた中で絞られたビジネスについてKeep Tryingだ!Keep Tryingしないで諦めてしまうとその先の境地(いわゆる成功)に行けない。困難はあるだろうが続けることだ。」と熱く語っておられた。おもわずメモしてしまったところ、ウケた。
 お客様から学ぶことは多い。一生懸命お客様をサポートしながら自分も成長する、これこそ、独立開業の醍醐味だ。

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ストレス発散

 本日も充実した日々でした。午前中から記帳代行の入力作業、午後も同作業。ただし、午後は、先輩会計士のA氏から連絡があり事務所近くをお茶をしながら情報交換、九段会館で税理士関係の手続、そしてまた入力。夜は私のクライアントでもあり、今後協業によりお互いの発展を確認するためのミーティング等々。その後、高校時代の友人とお互いに羽を伸ばしながら情報交換。
 と、これだけだと、よくありがちな単なる日記的Blogになってしまいますが、そうではなく、改めて気付くことがあります。最近はなんだかんだ言ってストレスが溜まっていました。もっと言うと、ストレスをストレスと感じないままストレスがありました。人間の行動は正直にできています。ストレスが溜まっているときはおかしな行動をします。ストレスが溜まっているとバランスを崩します。
 みなさん、ストレスが溜まっている自分を認めましょう。そして、人に迷惑をかけずに(=変なことを言わない、変な行動をとらない等々)ストレスを発散しましょう。当たり前のことなのですが、ついつい無理をしてしまうものです。この点は、本日最後の行動である友人との情報交換で再確認できました。この友人は最近転職をしました。しかし、彼はいい意味で「脱力」しているので、どんな環境でもやっていける人間です。そして、人並みにやることをやっています。たまにはバカ騒ぎしてますか?バカな話をしてますか?恰好をつけないで、ストレス発散しましょう。自分のためです。人のためです。いい仕事のためです。

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預貯金の利子(個人所得税)

 利子所得は、10種類ある所得の1つで、「預貯金(銀行預金・郵便貯金)・債権・公社債」などから得た利子(所得)のことである。基本的に必要経費などの控除がないため、「利子所得=収入金額」となり、この金額が課税所得となる。一般的に、利子所得は、「源泉分離課税」の方式で税金が徴収されるので、確定申告の必要はない。つまり、すでに税金が差し引かれた形で利子が支払われている。利子所得の税率は一律20%(所得税15%・住民税5%)」となっている。
 ただし、気をつけなければならないのは、まず、「収入金額=手取金額÷80%」という点である。預金通帳に印字されている金額は手取金額なので、その金額を80%で割り返して収入金額を把握する必要がある。また、「事業用の運転資金に係る預金利子は利子所得となるが、源泉分離課税されているので、確定申告する必要はない。」ということが分かっていたとしても、会計処理において、
(借)預金   80(貸)受取利息 100
   源泉税  20
(借)預金   80(貸)雑収入  100
   源泉税  20
 などと仕訳をきってしまうと、事業所得として計上されることになってしまい、源泉分離課税されている利子について再度課税されることになるし、さらに、源泉分離課税により徴収された税額は税額控除の対象にならない。したがって、会計処理については、例えば、
(借)預金   80(貸)事業主借  80
 といった仕訳をきることになると考えられる。

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2011年2月開始!!!

 2月と言えば節分です。節分とは、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことであり、「季節を分ける」ことをも意味しています。なお、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらいが豆撒きですね。さて、「鬼」という言葉を聞くと、「泣いた赤鬼」を思い出さずにはいられません。以下は泣いた赤鬼の概要です。幼い頃に母に絵本を読んでもらい、心底悲しくなって泣いたことを何となく覚えています。絵本は人間の心にダイレクトに響きますし、非常にシュールなものです。
山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼は、人間たちとも仲良くしたいと考えて、自分の家の前に、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」と書いた、立て札を立てました。
けれども、人間は疑って、誰一人遊びにきませんでした。赤鬼は悲しみ、信用してもらえないことをくやしがり、おしまいには腹を立てて、立て札を引き抜いてしまいました。そこへ、友達の青鬼が訪ねて来ました。青鬼は、わけを聞いて、赤鬼のために次のようなことを考えてやりました。
青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば、人間たちにも、赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう、と言うのでした。しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。
計画は成功して、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。毎日、毎日、村から山へ、三人、五人と連れ立って、出かけて来ました。こうして、赤鬼には人間の友達ができました。赤鬼は、とても喜びました。しかし、日がたつにつれて、気になってくることがありました。それは、あの日から訪ねて来なくなった、青鬼のことでした。
ある日、赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみました。青鬼の家は、戸が、かたく、しまっていました。ふと、気がつくと、戸のわきには、貼り紙がしてありました。そして、それに、何か、字が書かれていました。
「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼。」
赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました。
 これは本物の「愛」です。青鬼になるのは無理だとしても、少なくとも、1つ1つの目先の損得にこだわらず、「損して得取れ」の余裕をもって、人や物事に接したいと考えています。まだまだ未熟ですので、足元の状況に余裕がないと大らかさを失いがちです。大人になると、他人はいちいち「指摘」してくれません。他人に指摘を求めること自体が甘えです。昔々、金八先生が言っていました。「自分の頭で考え、自分で決断し、自分で責任を取れ。」と。

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Wynton Marsalis

それでは、こちらをどうぞ。
こちらも。。。
ひとつおすすめですが、ヘッドホンを常備しておくといいですよ。PCで良い音で音楽等が聴けますし、耳栓にもなりますよ。

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波乱の1月~天の声~

 もうすぐ1月が終了し2月になる。案の定、1月は怒涛のように過ぎていった。毎年のことだが、「どうせ1月は瞬く間に過ぎ去ってゆくのだろうな。」と思っていると、本当にその通りになる。1日1日を粗末にしているということは毛頭ないが、どうしても慌ただしく過ぎていく。
 そんな今年の1月は色々なことがあった。良い出来事も悪い出来事も。心折れそうになることもあったが、そこから掬い上げてくれるようなこともあった。何とも不思議なことなのであるが、私は、これは「天の声」であると捉えることにした。すなわち、1月というのはその年の初めの月である。ある意味、その年をどのように過ごすのかの試金石ともなり得るのではないだろうか。私の場合、いわゆる正月は順調に滑り出したが、1月第2週目に谷底のような所に陥り、1月第3週目に這い上がった感じだ。そして最近、なんだかブルーになることもあった。それら1つ1つの出来事に一喜一憂するのではなく、「今年はこういうことに気をつけるんだよ。」という「天の声」として、私は捉えたい。
 そもそも私は喜怒哀楽がはっきりしている方なので自分自身にとっても分かりやすい自分である。あまり悩んでも仕方がない。日々新鮮であるし、総じて幸せな毎日なのであるから、どんな時であれ、1日1日をしっかりと生きることが重要だ。きれいごとを言うつもりもない。どんな状況であれ、どんな自分が見え隠れしても、それらすべてが自分の人生、本当の自分。よく「自分探し」とか「自分らしさ」という言葉を耳にするが、「自分」はどこか遠くにあって、探し当てるものではないと考えている。良い面も悪い面もすべて自分だ。今ここにいるのが自分だ。そう考えれば、悲観することもないし自惚れることもないはずだ。
 それにしても、山ちゃんは完成度が高い。

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動線

 現在4人の会計士でシェアしている事務所の、ちょうど私のスペースを写したものである。4人の人間が同居すると、その分部屋も汚れるし、特定の人に負担がかからないよう、総務的な作業を平等に分担する必要がある。
 今月1月は私が掃除担当であり、本日1月25日に掃除をした。トイレ掃除、給湯室掃除、床掃除、ゴミ整理等々を行うわけだが、自分が汚しているのはもちろんのこと、普段お世話になっている他の3人の顔を浮かべながら、トイレの便器を擦ってみた。最近、「トイレの神様・・・・」みたいな曲が流行っているが、別にべっぴんさんになろうとは思っていない。純粋に、トイレ掃除をすると気持ちがすっきりするものだ。
 さて、掃除担当の専権事項として、モノの配置を変えてみた。上写真は配置変更後のものである。手前右側にミネラルウォーター、部屋の奥のやや左側にハンガーがあるのがわかるだろうか。これまでは、ミネラルウォーターは、ハンガーの位置にあった。来客者にさっとお水やお茶をお出しできるような配慮からだったのだが、難点もある。例えば、来客中に自分がお水やお茶を飲みたくなった時に、来客者の前でお水やお湯を注ぐわけにはいかない。考えてみれば、お水やお湯を使う頻度は、来客者に比べて自分たち4人の方が格段に高い。仮に来客者があったとしても、別に来客者の近くになくてもよい。そう考え、独断で配置転換を行ってみた。他の3人の評価はい如何に。

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Polka Dots And Moonbeams

 今まで聴いてきた「Polka Dots And Moonbeams 」の中で、Sarah Vaughanも大好きだけど、最近改めてはまっているのが、Chet Bakerの切ないプレイ。ちなみに、Donald Byrdもいい。
 喧嘩して前歯を折っちゃったり、麻薬にはまっちゃったりで、彼もいろいろ大変だったんだろうが、音楽にかける想いの強さを感じる。好みもあって、散々な言われようをする場合があるが、いいものはいい。
 「Polka Dots And Moonbeams 」を聴くと、切ない思い出が蘇る。大学生の時に好きだった女性にフラれ、夜に車を飛ばして海に行き、月明かりの下で、Sarah Vaughanの歌うこの曲を聴いたのだった。海に映る月明かりがしみじみ綺麗で、涙を誘う。現実的な女性はこんなことはしないだろう。男性はもろく、繊細なのだ。そして、おセンチなことをする自分に酔うのも男性だ。その辺を分かっている女性は魅力的だ。そういえば、元居た事務所の上司に連れられて、麻布十番のla pocheというBarに行った時、エダママにリクエストしてかけてもらったのもこの曲。とにかく、思い出の曲だ。

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クララ・シューマン

 本日は、日頃から大変お世話になっていて、私のメンター的存在でもあるO氏(私のお客様にもなって頂きました)のクラシック音楽講座に参加した。最近の私は、音楽を再び「趣味」と言えるものにすることに力を入れており、2ヶ月連続の参加であったが、本日のテーマはロベルト&クララ・シューマン、シューマン夫妻だ。写真は、まるでT川Kリステルのような面持ちの、クララ・シューマンだ。そもそも私のクラシック音楽の好みは、交響曲については金管楽器が華やかでダイナミックな曲、ピアノ曲についてはおセンチな曲、といったところで、シューマンはノーマーク。小さい頃にトロイメライをピアノで弾いた位の位置づけであった。
 ところが、ロベルト・シューマンはなかなかいい。綺麗な旋律なのだ。ところが、クララ・シューマンはもっといい。男性のロベルトよりもスケールが大きく感じられるし、旋律も美しい。特に、「4つの束の間の小品」。O氏によれば、19世紀前半は、女性が男性を差し置いて音楽で前面に出てくるような時代ではなかったそうだ。その時代背景の中でシューマン夫妻も例外ではなく、ロベルトはクララに対し、作曲活動をやめるよう指示をしたそうだ。といっても、クララはピアニストとしてヨーロッパを席巻するほどの名声をあげており、ロベルトの何倍も稼いでいたそうだ。
 私は正規の音楽教育を受けていないので、音楽は感覚で聴いているのだが、プロの音楽家に言わせれば、それでよいのだそうだ。Y売交響楽団でコントラバス奏者をやっている高校時代の後輩I君はそう言っていた。ただし、生の一流の音楽を聴けとも言っていた。その点本日は、ピアニストであるO氏の奥様の生演奏を聴けたのだから、素晴らしい。今後、ロベルトもさることながら、クララさんの作品を聴きこんでみようと思う。ちなみに、JAZZは西洋音楽とかアフリカ音楽とかラテン音楽が融合した音楽と称されるが、本日聴いたロベルト・シューマンの交響曲第1番の中で、「これはJAZZのアドリブにも使えるな。」というフレーズがあった。その点も非常に興味深い。

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べえ独楽と人生

 税務のお客様であるGSに用事があって行ったところ、非常に驚いたことがあった。なんと、40代・50代のおじさま方が、真剣にべえ独楽をやっているのだ。噂には聞いていたが、本当にやっているとは。自分も誘われて、生まれて初めてやってみたが、なかなか難しい。最初のうちは力が入ってしまい、うまく土俵に上がらない。土俵から落っこちて地面でくるくる回るありさまだ。だんだんやる気がなくなって帰りたくなってきたのだが、ここは考えを改めて、いっそ力を全く入れないでやってみることにした。すると、土俵に上がる確率が格段に上がり、だんだん楽しくなってきたのだ。気が付くと1時間くらいやっていた。
 日々生活していると、自分の中でバランスを崩すことがある。人間の気持ちはコロコロ変わるもので、全世界が自分の味方に思える時と、全世界が自分の敵に思えること、の両方がある。人間とはまことに勝手なものだ。独立開業しているといろいろな試練があって、これでもかこれでもかと押し寄せてくる時がある。そんな時は、もう2回ほどこのBlogに書かせて頂いた、永平寺の故宮崎亦保禅師の御言葉を思い出す。「死ぬ時が来たら死ねばいいんや。それまで平気で生きておればいいんや。」と。
 力が入りすぎると独楽がうまく回らないように、力を抜いて、フラットな気持ちで生きていく。そうすれば、思わぬ出来事や出会いがあり、人生が面白くなっていく。これこそが、独立開業という、仕組み自体はシンプルな道を選んだことの醍醐味だ。べえ独楽一つとっても気付きがあるとは、これまた驚いた。

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運は使い果たすものなのか?

 なんだか宗教じみた画像の掲載となってしまったが、「運」の画像をググってみると一番に出てきたので掲載することにした。実は、本日は私の属する業界の地域会の新年会があり、参加させて頂いたわけだが、その会で催されたくじ引きで、一等賞が当たってしまったのだ。商品はPanasonicのナノケアだ。
 それにしても、私はそもそもくじ引きに当たる性質(タチ)ではない。当たる確率はめっぽう低い。ただ、いまふと思い出したが、当たる時は大きなものが当たり、これまでに、自転車(一等賞)、蟹詰め合わせ(一等賞)が当たったことがあるから、くじ引きの引き、もっと言うと、私の「運」に関して、どのように考えればよいのだろうか。くじ引きに当たると、「もうそれで運を使い果たした。」などと言われることがあるが、果たして、「運」とはいかなるものなのであろうか。
 結論付けることは困難だが、本日のこの出来事は、私なりにプラスに捉えることにした。すなわち、「特に期待していなくても、いいことはある。」ということだ。捨てる神あれば拾う神あり。物事というものは、捨てなければ新しいものは入ってこない。とてつもなく広い保管場所があれば別だが、家財道具でも服でもなんでも、何かを捨てなければ新しいものは入る余地がない。
 本日頂いたナノケアは、今年の新たな「身入り」の象徴としたいものだ。

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たまにはバイクでも。

 本日午前中は、確定申告に必要な資料収集のため、S県K市にあるお客様を訪問した。すると、そこには、SUZUKI・コレダスクランブラーが佇んでいた。「スクランブラー」というのは、今で言えば「オフロードバイク」の事である。昔はオフロードというカテゴリーがなく不整地走行レース(草原、荒れ地、砂地)の事をスクランブルレースと呼んでいたことによる。 思えば、私が大学生の頃、Vespaに乗っていた友人に触発されて自分もバイクが欲しくなり、初めて購入したバイクが「スクランブラー」だった。私のバイクはSUZUKIではなく、HONDAのベンリィCL50だ。
 本日、久々にバイクに乗ってみたが、風を切って走る爽快さを味わうことができ、新鮮な気分になった。現在は愛車が愛車なのでバイクに乗るインセンティブがなく、バイクを所有してはいないが、バイクもいいものだ。スポーツカーよりも「乗馬」に近い感覚があり、男のロマンを感じる。
 もし将来、田舎に住むことになったら、間違いなくバイクに乗るだろう。

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ロング・コルネット

 コルネットには、ジャズ・吹奏楽で使われるアメリカ式のロング・コルネットと、英国式ブラスバンドで使われるショート・コルネットに分類される。ロング・コルネットはよりトランペットに近く明るい音色で、マウスピースの形状はトランペット用とほとんど同じものを用いる。ヤマハは以前はロング・コルネットを製造していたが現在はショート・コルネットを製造している。
 現在、トランペットをオーバーホールに出しているので、一時的にコルネットを吹いている。コルネットはトランペットと比べて唇により近いところに位置するため、アンブシュアを見直し調整するには、むしろ好都合かもしれない。おそらく、呼吸法とアンブシュアに問題があるためだと思うが、長年の癖で、高い音域を吹く時に、唇にかなり力が入ってしまい、唇が極めて固い状態になっている。これだと唇がうまく振動しないし、すぐにばててしまうことになる。アパチュアを大きめに調整し、腹に力を入れ、息が十分に楽器に入っていくように意識するようにしているのだが、長年の癖は非常に厄介である。
 いずれにせよ、すべてのキーのメジャー・スケール、リップスラーなどを練習しながら、徐々に唇の力を抜いていこうと考えている。

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よき仲間

 人間の風習はよくできている。冠婚葬祭がその最たる例であり、冠婚葬祭というイベントの下に、家族、友人、会社の人、地域の人が集まり、そのイベントを執り行う。冠婚葬祭という理由であれば、会社を休んだり、早退できる訳だから、冠婚葬祭が人間の生活にとっていかに大きなものであるか、思い知らされる。
 本日は高校時代の友人の結婚式があり、高校時代の友人が終結した。みなそれぞれの人生を歩んでおり、この歳になると色々な意味で貫録が出てくるものだ。我々高校時代の仲間は、出演依頼に応じ、毎回違った出し物を披露する、いわばダンサーだ。上写真は、本番前の待ち時間におけるワン・ショットだ(左から、ジョージ、N社長、私)。極寒の青山の空の下、パンツ(ふんどしの者あり)一丁で本番を待っていると、本当にダンサーのような気分になってくる。当然といえば当然だが、重要なのは「真剣にやる」ということだ。準備の段階から本番に至るまで、真剣に議論し、真剣に事を決め、真剣に披露する。今回の出し物は、年末年始の休みの関係で、本番前日に初顔合わせをし、形を作るという、非常に切羽詰まった状況にあった。衣装は「ふんどし」がいいのか「競泳用水着」がいいのかについて、真剣に議論した。この衣装の議論だけで30分は費やしたのではないだろうか。また、大きく2つの出し物がある中で、この2つの出し物をつなぐCMソングは何がよいのか、についても30分くらい議論した。「こんな30代後半はいねえよな、俺達馬鹿だよな。」とか言いながら、その場を楽しんでいる。
 結婚披露宴の挨拶で、新郎の会社の社長が仰っていた。「青年にとっての貯蓄は、お金ではなく、経験だ。」と。「青年」の定義はさておき、このことは肝に銘じておくべきだと考えた。「十分なお金がないのであれば、その分、様々な、多くの経験をするべきだ。」という風に自分をもっていけばよいのだ。
 結婚式に参加した高校時代の仲間。それぞれどのような想いで結婚していく友人を眺めていたのか。いい時もあれば悪い時もある。それぞれ違った悩みがあろう。そんな中に、こういった冠婚葬祭というイベントの下に集結し、久々に仲間と時間を共有する。これほど尊いものはない。

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母校、そして、再会

 今日は久々に友人と会うことになっていた。敢えて集合場所を母校のM一高にした。理由は、私もその友人も吹奏楽部に所属しており、久々に学校の教室で楽器を吹こうと考えたからだ。
 するとなんと、本日1月4日は、学校にとっても仕事初めの日であり、まだ始業はしていないものの、生徒達が部活動に精を出していたのだ。したがって、現役の生徒に会うことができたし、さらに、現役の生徒をたまたま指導しに来たOBの後輩にも会うことができた。彼は東京藝術大学を優秀な成績で卒業し、現在は某有名交響楽団に所属しているコントラバス奏者である。お互いに懐かしくなり話も弾むので、3人で食事をしてしばらく話をした。
 私の友人もプロのミュージシャン(ソプラノサックス、作曲、編曲等々)、上記の後輩もプロのコントラバス奏者と、なんとも芸術的な一日であった。さすが、音楽の話となると奥の深い話となり、ためになることばかりであった。彼らはいわゆる正規の音楽教育を受けているわけであり、一方で私はアマチュアの音楽愛好者であるが、彼らが言うには、いい演奏に触れることと(例 ドイツの作曲家の曲をドイツの教会で生で聴く等々)、いいものはいいと感じる純粋な気持ちが大切だ、とのことであった。
 さて、その後、友人とスタジオを借りて1時間セッションを行った。ジェイミーという、いわゆるカラオケでリズムセクションを流しながら、好きなように吹いた。私の場合、「こう吹きたい」というイメージはあるのだが、長いブランクのため演奏技術が極度に低下しているのと、コード進行についていけないのとで、思うように吹けない面もあったが、久々に楽器と向き合った気がした。なんでもそうだが、あとは地道な練習があるのみ。「Any Key OK!」の状態になれるよう、まずはメジャー・スケールの練習が必須のようだ。
 ちなみに、上写真は、母校に旧M城薬医門と愛車である。職員室から現在の吹奏楽部の顧問の先生がいらしたので軽く御挨拶をしたのだが、私の愛車を見るなり、「何をやっている方ですか?」と聞かれてしまった。「会計士です。」と答えたきり、会話は途絶えた。

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犬から学ぶこと

 ある程度躾のなされた犬を前提にするが、犬という動物は利口な動物である。犬ほど人間に懐く動物は他にはいないだろうし、一方で、動物としての御勤めもちゃんと果たす。写真の犬は、父親の友人宅の犬のゴンである。
 ちゃんと躾がなされ、ちゃんと散歩に連れて行ってもらえる犬は、全般的に御行儀がよい。毎日朝晩2回の散歩と1日1回の食事を前提とするならば、糞尿は散歩時のみ行うので、犬小屋の周りがきれいである。鎖に繋がれて犬小屋にいる時にもあまりストレスを感じていない様子である。15歳になるゴンは、毛並みも良く、散歩に行けばリードをぐいぐい引っ張り、しっかりマーキングをする。飯もよく食べる。一方で、ゴンは大変人懐っこい。総じて、感情の起伏がなく、精神状態が安定した犬である。
 人間はどうだろうか。なまじ頭がよいから、いろいろ考えてしまう。やるべきことをやり、精神状態をなるべく安定に保ち、毎日を淡々と過ごすことは、非常に難しいのではないだろうか。故宮崎亦保禅師は仰っていた。「死ぬ時が来たら死ねばええ。それまで平気で生きておればいいんや。」と。その「平気」というのが難しい。この点、犬は偉い。(餌という見返りを求めてはいるのだろうが)御主人様にいつも一定の愛情を注いでいる。
 犬と比べられたらたまらないかもしれないが、人間は時には犬からも学ぶところがあるように思える。

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新春ツーリング

 今年初のツーリングは、総勢20台のFairladyが千葉に終結した。見た目・音・匂い等々圧巻であり、参加者自身も吃驚するほどであった。
 今回のツーリングは、私を含む東京方面のクラブと千葉方面のクラブとが千葉で集結し、集結地・白浜間の数多くの峠道を往復する行程であった。部活のしごきの如く、極めて走り甲斐のあるものであり、帰宅した際には心身共に疲労困憊であった。さすがはスポーツカー。ゴルフの後の疲労感に似たものがある。お陰さまでトラブルもなく、全員無事に帰還した。
 ここまで走りこめば、スポーツカーに乗ること自体がスポーツである。常に五感を研ぎ澄ませ、緊張状態にある。水温計、油圧計、電流計をこまめにチェックしながら、音にも神経を使う。近年は、車には実用性が求められるので、スポーツカーという概念自体が理解されにくいと思うが、要は乗馬と同じであると考えて頂けばよい。要は、今日は、みんなで馬を走らせたのである。

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2011年1月1日

 あけましておめでとうございます。本年も「なぜ会計士EBJはうざいのか?-独立系会計士の思念-」を宜しくお願い申し上げます。
 年末年始は、ほぼ自分の思い描いていた年末年始となった。「紅白歌合戦」の後に「ゆく年くる年」を観ながら新年を迎え、寝る。起床後、雑煮を食べ、家族で神社にお参りをする。墓参りをする。年末年始の過ごし方は人それぞれであろうが、私にとっては、いかにも年末年始らしい過ごし方をした。ところで、家族での神社へのお参りと墓参りは、散歩も兼ねて徒歩で行った。車だと混雑するという理由もあるが、年末は運動不足気味だったことが一番の理由だ。上写真は散歩の途中に見つけた沼である。両親によれば、私が小さい頃に何度か連れて行ったことがあるとのことであるが、私にはその記憶がなく、「こんな沼がここあったのか!?」と、なんとも新鮮なものであった。このように、散歩をすると新たな発見があり、気持ちがよい。また、IphoneのMapを使えばショートカットを教えてくれるので、普段は通らない道を通ったりして、またまた新鮮だ。そんな新鮮さと同時に、この何気ないひと時を過ごせることに、幸せを感じるのであった。
 こうしたことを受けて思うのは、人間は、何か特別な出来事よりも、何気ない日常のひと時こそ、記憶に残るのではないだろうかということである。後になってじわ~っとくるのは、陽が燦々と差し込む居間で飲んだお茶の湯煙だったり、母親が残り物を食べていたり。こうしたひとつひとつのことを大切にしながら、仕事では肉食系の要素をもっと取り入れて、励んでいきたい。おみくじによれば、他人の力も借りながら、利益をあげることになっている。昨年もなかなかいい年だったが、今年はもっといい年になるよう、努力していきたい。

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SR311の綺麗なバンパー

 形状の修理と再メッキが完了し、ようやく元の状態に戻ったリアのバンパー。昭和42年式のSR311のリアバンパーはもう手に入らないとのことなので、大事にしなければならない。
 思えば今年の8月上旬。あの頃の自分はどのような状態だったのだろうか。日々の生活はずっと同じ状態ではあり得ない。日々刻々と変化する。自分の気づかない所でも変化する。どのような状況になろうとも静かに受け入れ、特別なことをしようと思わない方がよい。何か特別なことをしても、気晴らしの「きっかけ」にはなるが、気晴らし「そのもの」にはならない。本当の意味の気晴らしとは、とにかく、日々の生活を静かに受け入れることだ。ただ、気晴らしの「きっかけ」を求めること自体は否定しない。要は、何かに期待しすぎないことだ。

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楽しいラッパ②

 昨日から必ずラッパを吹くようにしている。いきなりフルマラソンができないのと同様、セッションで気持ち良くプレーするには、とにかくラッパを吹くしかない。この際、練習の形式はどうでもよい。トランペットという楽器は、自分の唇を振動させて自在に音を鳴らす楽器なので、唇に過度の負担をかけるわけにはいかない。いずれにせよ、まだ再開したばかりなので、あまり頭で考えすぎず、とにかく楽器になれることが重要だ。そして、練習が苦痛にならぬよう、楽しむ心が重要だ。
 本日の気付きは以下の通り。
 ①舌の移動により息のスピードが変化する。音域が変わる(舌の位置)
 ②上半身は力を抜いて腹で支えるのがよい(腹)
 ③上唇60%・下唇40%のイメージでマウスピースのリムに収まるのがよい(アパチュア)
 ④マウスピース周辺で小さくまとまるのではなく息を沢山入れて楽器を鳴らすのがよい(息の通り)
 ⑤とにかく唇に力を入れないこと。音域が変わっても唇に影響を及ぼさないこと(唇の柔軟性)
 ⑥状態がよければハイトーンは楽に出る。ハイトーンが出ない時は上記①から⑤を見直すこと
 ⑦状態がよければリップスラーは楽にできる。リップスラーが苦しい時は上記①から⑤を見直すこと
 ⑧楽器に溜まる唾の量で息の通り具合が分かる
 ⑨萎縮して小さくまとまらないこと
 ⑩今の自分に合ったマウスピースを探すといいかもしれない

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楽しいラッパ①

 とうとう第一歩を踏み出した。元住吉にあるラッパのS先生宅でレッスンを受けたのだ。
 普段は全くラッパを吹いていないので、レッスンを受けたと言っても散々な結果になった。Fから半音ずつ下がる32拍のロングトーンですらバテバテで、正直言って、悲しくなった。S先生も困ってしまっただろう。レッスンというものは、生徒が自分なりにちゃんと練習してから臨むものだ。さすがにレッスン直前は多少吹いたのだが、多少ではだめだ。申し訳なかったと思う。
 その代わり、以下のような基礎的なことを教わった。
 ①舌を上げる(吐く時のような感じで)
 ②上半身はリラックスする
 ③腹(臍の下のあたり)で息を吸う(→腹に力を入れる)
 ④最後に方で息を吸う
 ⑤楽器にもっと息を入れる
 ⑥アパチュアを大きくしてみる(調整してみる)
 ⑦ペンタトニックを12キーで練習してみる
 S先生の勧めもあり、早速、渋谷にあるトランペットステーションで、Emoのワウワウミュートを購入し、近所に迷惑にならないように吹いてみた。
 まあ、先は長そうだ。これはスポーツでも何でも同じことだが、「楽しめる」状態になるには、それなりの練習が必要だ。しかし、自分の思ったようにラッパを吹ける時の楽しさは知っている。なんとか頑張りたいと思う。

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何かを共有するということ

 週末に奥多摩にツーリングに行った。仕事や法事などで夏のツーリング以来参加できなかったので、殊のほか楽しみにしていた。総勢8台のフェアレディが6:00AMに外環新倉に集結し、奥多摩に向かった。
 私自身もそうなのだが、運転席にしろ助手席にしろ、フェアレディに乗っている時に、ふと何かを考えていることがある。車が車だけにボーっとしていることはできないのだが、ふと、何かを考えるのである。参加された皆さんは何を考えていたのだろうか。一つ言えるのは、それぞれ異なった環境で生きている人達がフェアレディという車を通して同じ時間に同じ場所に集まり、行動を共にするというのは、非常に興味深いものであるといういことだ。極端な表現をすれば、それはフェアレディの家族だ。そしてフェアレディの人格的なものがフェアレディに乗っている人そのものだ。
 フェアレディのオーナーには、いわゆる「一人親方」が多い。非常に個性的である。人も車も個性的なのだから、面白いし、勉強にもなる。

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善と悪

 世の中には暗い出来事が多い。自分の身の回りにも、自分とは遠いところでも。戦争、テロリズム、犯罪等々。それらの情報に触れるたびに、どうしても、世の中を善と悪の二元論で考えてしまう。
 いてもたってもいられなくなって、先輩会計士のN会計士に思いをぶつけてみた。その結果、N会計士は現実的な例を出しながら、実に腑に落ちる考えを述べてくれた。すなわち、「世の中の出来事や人間には清濁混在しており、そもそも清と濁を明確に区分できないものだ。確かに、世の中には悪と言われるものがある。しかし、自分自身はどうだろうか。(自分から見て何かを「悪」と考えるのは自分の考えが「善」であることを前提としているからであるが)、自分だって「悪」の部分は持っているのではないだろうか。つまり、自分自身にも清濁入り混じっているのではないだろうか。この仕事に置き換えてみれば、自分も最初の頃は「清」であろうと努力していたが、いくらそう努力しても、結果として「濁」が生じてしまうことがある。お客さんから報酬をもらっているにもかかわらず、結果としてどうしても「濁」が生じてしまうことがある。私はそれは、極端にいえば、詐欺であるということもできると思う。しかしながら、その点について開き直るのではなく、詐欺とならないように努力している。」と。
 つまり、世の中の「悪」「濁」について憂いるのはある意味ナンセンスであり、まず、自分自身にも清濁あることを認めることが必要だ。それを認めるならば、あとは程度の問題である。戦争、テロリズム、犯罪等々が目立つのは、ごく平凡な生活の中の「悪」「濁」と比べれば、「悪」「濁」の側面があまりにも強いからである。
 以上から、本日の結論は、「自分は『善』『清』である、世の中は腐っている。」といった「自惚れ」を抱かないことが肝要だということである。世の中に清濁入り混じっているのと同様、自分自身にも清濁入り混じっているのである。それが長所と短所であり、ある一面と他の一面なのである。このように考えるならば、この世で生きるのがもっと楽になるだろう。

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『本音ベース』と仕事と税務

 昨晩、現在一緒に仕事をしている先輩会計士I氏と横浜の龍昧で食事をした。私は大学生の時に横浜に住んでおり、横浜TACに通っていたものだから、龍昧にはかなりお世話になった。安くてうまい店で、現在でも満足できる店である。昼も夜も客が途切れることがなく、老若男女問わず、一人で来る客が多いのが特徴だ。
 さて、I会計士は中国の上海に駐在経験のある中国通であり、中華料理にはうるさい。そのI会計士が、龍昧をこう言い表わしている。「本音ベース」の店。私の中では、「本音ベース」という言葉がキーワードとなった。つまりどういうことかというと、こうだ。一番端的な例としては、若い女性が一人で来て、ビールと餃子とニラレバ定食をおいしそうにぺろりと食べる、そんな店なのだ。結局のところ、ほんとに気を許し、自分がリラックスして、食べて満足という店とは、こういうことなのだということ。形振り構わずとまではいかないが、洒落た店ですかして食事をするという行為は、たまにはいいけれども、人間が、心から、本音で望むものではないのだろう。
 この「本音ベース」が、ここまで来たか、という例を今朝発見した。東北地方の零細スーパーで、おはぎがバカ売れしているというのだ。しかも、地元のみならず沖縄以外の地方から客が来ると言う。彼岸の時期には2万個もうれるという。1個105円。ちなみに、年商6億円という。本音ベースもここまで来たかと驚いた。おはぎですよ、おはぎ。誰にでも作れるおはぎ。そのおはぎで勝負している人がいるのだ。ある意味、目から鱗であった。勝負するものは何でもいい。シンプルなものでも、真剣にやれば勝負できるのだ。ちなみに、そのスーパーでは、レシピなしの勘で作られた手作りのお惣菜も人気があるという。すばらしい。
 ところで、税務というのは、まだまだ勉強する必要があるのだが、そうした人間の本音を良く分かっているような気がする。政策的な側面が強いが、それは強弱の問題であって、まあ、良く分かっているような気がする。例えば、会社を設立してから商売が軌道に乗るまでの出来事を簡単に列挙すると、設立費用、役員(自分)に給料を払う、人を雇う(=人に給料を払う)、車などを購入する(ただし、プライベートとしても使用するのが実態だろう)などなど。これらの出来事にはすべて、税務の規定がある。つまり、税を取こぼさないような仕組みになっている。一番端的なのは、思った以上に利益が出た場合、「税金で払うよりは・・・。」という思考になる人が多い。もちろん「払うべきものは払う。」という方もいるが、そこは「本音ベース」のはなしだろうか。
 いずれにせよ、細かい税法の規定も重要だが、そういった人間の本音と、税法の立法趣旨をおさえておきたいものだ。

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人間の喜びとストローク

 人間の喜びは、「人に必要とされること」だと考えている。また、あまりにも意識的にやるといやらしくなるが、「人に必要とされる」状態になるためには、人とのストロークを通じて、自分というものを適切に開示し、人に尽くすことであると考えている。これらの点を仕事に当てはめるならば、「可能な限りお客さんに尽くし、適正な報酬を頂く」ことが基本であろう。ただし、適切な報酬は、金銭的報酬のみでは測れない面がある。仮に自分の想定している金銭的報酬に満たないとしても、チャンス、自らの能力向上、お客さんとの関係を構築することによる無形の利益、その他、「この仕事は自分にとって引き受けるべきものだ」という確信が自分の中で得られれば、その仕事は引き受ければよい。独立開業している以上、基本的には自分が判断し、リスクと経済的便益は自分が享受するわけだから、他人がどうこう言う話ではない。その意味で、自分が自分自身のことをどれだけ信じているかが重要となってくる。
 なお、金銭的報酬は適正水準であることが重要である。自分のした仕事に比して過大な報酬は、お客さんと後々トラブルになる可能性がある。「あれだけ払ったのだから・・・」となる可能性がある。一方で、自分のした仕事に対して過小な報酬は、自分をダメにする。自分不信を招く。したがって、報酬決定は毎回悩む。
 さて、冒頭の、「人間の喜び」に関して、最近心がけているのは、人により興味を持ち、よりストロークをすることだ。また、自分が得るもの以上のものを差し出すことに努めているつもりだ。こういうことを考えていると、新人の頃を思い出す。新人の頃、元の職場のN代表社員という偉い上司がおり、今でも記憶している言葉がある。会食の席でN代表社員がいきなり相撲の番付を取り出し、「俺はココ(横綱)、お前はココ(一番下の小さい文字のところ)。おまえはまだまだこれからなのだから、一喜一憂せず、とにかく一生懸命働け。」と。また、当時独立性について今ほどうるさくない頃、N代表社員を筆頭に、あるクライアントの保養施設に行った。このクライアントは、IPO以前からN代表社員が関与していた会社であり、確かに、N代表社員の貢献は大きい。N代表社員は、「この別荘は俺のものだと思っている。」というのだ。つまり、「会計士だけの稼ぎではこんな別荘を持つことは厳しいが、別に自分自身が持っている必要はない。一生懸命仕事して、その仕事を通じてこのような機会が得られるならば、それでいいではないか。」ということだ。N代表社員は、時に自らの生い立ちを話して下さったが、結構大変な努力をされている方だ。なるほどと思った。
 そういえば、私の母親もある意味同様で、欲がない。他人に対してではなく、自分自身に対するプライドは持っていて、それを冒涜されそうになると守ろうとするくらいで、他人に対して求めることはしない。そんな母親を見ていると、人が寄ってくるのがわかる。母親はよく人の話を聞くので、相手にとっては、話をよく聞いてくれる有難い存在なのだそうだ。
 人は、私欲のためではなく相手のために一生懸命尽くしてくれた人のことは、一生忘れない。
 小学生の時に一人で祖母宅に向かう電車の中で、前に座っていたおばさんが飴をくれたこと。遠足の時に水筒を落として水筒の中のガラスが粉々になって悲しい思いをしている時、なぜか母親が学校に迎えに来てくれていたこと。なぜだかわからないが、中学校の歴史の先生が「おまえは根性がある」と、向学心を駆り立ててくれたこと。高校の担任が、自分の全人格を分かってくれていて、「おまえは推薦入学で大学に行くな。自分の力で行け。」とか、「お前はお前らしくいつも悩んでいるのがよい。」とか言ってくれたこと。公認会計士第二次試験に合格した日に、在京の地元の友人たちが急遽集まって祝ってくれたこと。私は出会いには恵まれてきたと、つくづく思う。多くの人に助けられてきている。
 「自分が、自分が」ではなく、いかに人を思いやるか。しかし、一つ忘れていはいけないのは、凡人は、自分自身がある程度満たされていない限り、人に尽くすことはできない。自分自身が満たされていないのに人にに尽くすことをしたとしても、長続きはしない。だから、自分を信じて自分で自分自身に充電したり、時には人からもらったりしながら充電し、その上で人に尽くすことが重要だ。なお、人からもらうのは、なにも、直接何かをもらわなくてもよい。人とのストロークを通じて、自分の中で、なにかじんわりくるようなものに気付けばよい。
 今日は午前中にJICPAで報告会、午後はT線のK駅にある外国人クライアントを訪問したのだが、この仕事をしていると、上記のようなことをしばしば考える。この仕事はいい仕事かもしれない。

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June Christy

 ハスキーな歌声の女性ヴォーカルといえば、「June Chrsity」も忘れられない。とくに彼女の「How High The Moon」が好きだ。参考映像は、Nat King Coleがピアノ、Mel Tormeがドラムという、何とも豪華な顔ぶれだ。
 この参考映像のJune Christyは、堂々としていて、余裕が見られる。一瞬ロストしてしまいそうなくらいのグルーブ感だ。しかも笑顔が素敵だ。
 しかしまあ、なんで私はこんなにも、「古き佳きもの」が好きなのだろうか。。。

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Chris Conner

 折角土曜日に事務所に行ったのに、ほとんど仕事にならなかった。仕事が乗るようにと音楽をかけていたのだが、その音楽にはまってしまったのだ。久々に甘い曲が聴きたくなり、「Misty」を繰り返し聴いていたのだが、色々なアーティストのMistyが聴きたくなり、iTunesで買いまくった。
 改めてその良さを実感したのが、「Chris Conner」だ。ハスキーでいて、暖かく包み込むようなヴォイスだ。これは人の好みだが、女性ヴォーカルで、芯のあるハスキーな歌声が大好きだ。あと、常にビブラートをかけるのではなく、音をある程度伸ばした後に「語尾」にビブラートをかけるのが好きだ。なんとも「品格」がある。この好みはラッパも同様である。
 これは大変失礼な話だが、脂がのっている頃のChrisは美しい。当時のレストランで、当時の服装をして、当時の演奏を生で聴いてみたかった。

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自分の頭で考えて行動する。

 何事にも言えるのだが、自分の頭で考えて行動することは非常に重要だ。人間の文明がこれほどまでに発展を遂げてきたのは、やはり、オツムの賜物だ。受動的な教育を受け、受動的な社会に慣れてしまうと、人間が本来持っているオツムも錆びついてしまう。つい最近まで自分もそうだった。
 例えば、先日の記事に書いたように、今月からラッパのレッスンを始める。レッスンを始めるにあたり考えたのは、先生にとって最低限の礼儀を払うということだ。つまり、先生にすべてを委ねるという姿勢ではなく、基本的には自分で行動している中でそのアドバイスを頂くという姿勢でいることだ。簡単な例で言うと、歯医者に行く前に歯を磨くようなものか(よくわからないか・・・)。
 そんなわけで、今日も軽くラッパを吹いてみた。私が認識している一番の問題は、息が口から漏れるということ。つまり、息がラッパに効率よく入っていかないということだ。そこで今日は、アンブシュアを意識してみた。これまで、唇の真ん中にマウスピースが来るのがあるべきアンブシュアだと考えていたが、その考えを取っ払った。今日は、息が漏れているところにマウスピースの中心を敢えて持って行った。すると、なんだか、息の通りがよいような気がするのだ。試しに、ハイトーンを出してみた。「唇に力が入らないようにするために腹に力を入れる。」ということを意識してみたところ、ハイE♭が出た。まぐれもあるが。
 こんな風に、今日は、自分の頭で考えて行動してみた。時には思い込みを取っ払い、大胆な仮説に基づいて行動してみる。そして、その行動の結果を分析する。こんな感じでラッパを頑張ってみようと思う。

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永平寺第78代貫首 宮崎亦保禅師の悟り(再)


人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。

それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 心に染みるお言葉です。泣けてきます。自分の両親や自分の祖父母、いや、世の中の中高年の方々を時には思ってみて下さい。きっと色々な事があったでしょう。他人の想像を絶することがあったでしょう。それでも日々生きているのです。どうせ何度も大きな壁にぶち当たるのだから、先を案じ過ぎず、いつもやりたいように行動すればよいと思います。

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Trumpet

 トランペット(英: Trumpet、伊: Tromba:トロンバ、独: Trompete:トロンペーテ)は、金管楽器の一種。略称は「Tp」「Trp」「ラッパ」「ペット」など。管の全長に対して円筒部分の割合が大きく、多くは長円状に巻かれ、その中ほどに3つ(稀に4つ)のピストン又はロータリー式のバルブを備える。この楽器の調性には様々なものが存在するが、最も一般的なのは変ロ調(B♭管)とハ調(C管)である。ハ調を除き、移調楽器である。3つ又は4つのピストンまたはロータリーを操作しつつ、息のスピードで音を変え、演奏する。
 写真は、約20年前に、今は亡き祖父に買って貰った、Vincent Bachの「Stradivarius Model 37」。まだまだ使える逸品だ。ちなみに、以下の事項は知らなかった。。。
 ヴィンセント・バック社は1918年にウィーン生まれのトランペット奏者ヴィンセント・バック(本名:ヴィンセント・シュローテンバッハ、Vincent Schrotenbach、1890年 – 1976年)によって設立された。創業当初はマウスピース製造を目的としていたが1924年にはトランペットを製造しはじめている。 この数年間でヴィンセント・バック社はアポロ (Apollo) 、ミネルバ (Minerva) 、マーキュリー (Mercury) 、メルセデス (Mercedes) 、ストラディバリウス (Stradivarius) などのブランド名でトランペット、コルネット、フリューゲルホルン、トロンボーンを製造した。しかし1961年にセルマーUSA社に買収され傘下となり、ヴィンセント・バックは辞任した。買収後もヴィンセント・バック社の楽器設計は維持され、バック・ストラディバリウス(Bach Stradivarius)の名で販売されている。全米自動車労働組合364地域の呼びかけで、2006年4月から2009年現在、3年以上の期間、従業員がストライキを続けている。しかしながら、製造、供給は継続されている。

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再開・再会

 歳を重ねるにつれ、いかに自らの生活を自らが充実させるかを考えるようになる。決して「隙間症候群」ではないのだが、「三脚」は足が3本あるから安定するように、自分にとっても「人(生活)」「仕事」と、より充実した「教養」が欲しいところだった。「三人寄れば文殊の知恵」と言うように、より精神的に安定するには、2つの点を結ぶだけではなく、あともう1点を加えて「面」にすることが重要である。
 このような時、「自分に足りないもの」を探してはいけない。「あれがない、これがない」と言っていては、いつまでたっても「足りる」ことはないだろう。先輩会計士のN会計士がいいことを言った。「足るを知る」ということだ。そうしてみると、自分は音楽が趣味だ。以前はトランペットとピアノをやっていた。しかし今はピアノを失ってしまった。残るのはトランペットだ。中学生の時に今は亡き祖父に買ってもらったトランペット。これしかない。
 早速トランペットを再開すべく、まずは、レッスンを受けることにした。ネットでさんざん探したがめぼしい先生は見つからない。そこで、高校時代からの友人のJAZZ SaxミュージシャンのI氏に連絡し、誰か紹介してくれるようお願いしたところ、なんと、共通の知人であるJAZZ TrumpetミュージシャンS氏の名前が挙がった(写真)。彼は私が大学のJAZZ研で活動していた時の先輩である。数年間サラリーマンをした後、プロとして独立した。彼はとにかくトランペットが好きだ。研究と練習を重ね、彼が大学2年生の時にはすでに、素晴らしいアドリブを披露していた。早速彼に連絡しレッスンをお願いしたところ、なんと、快諾してくれたのだ。思い立ってから行動に移すまで約3ヶ月かかった。こんな感じで時が過ぎてゆくのだから、第一歩を踏み出すことがいかに大切なことか。
 早速今月に第1回目のレッスンがある。現在の私はかなりブランクがあるため、アンブシュアから始まる基礎的なことからやらなきゃだめだ。一方で、わたしは、小学生の頃からトランペットをやっており、その楽しさはよくわかっている。トランペットを通じて人に何かを伝え、それが伝わった時の感動は、何物にも代えがたい。そんな状態に必ず持っていくつもりだ。たとえが悪いが、チェット・ベイカーは喧嘩や麻薬の影響ですべての歯を失っても、謎の転落死をするまで死ぬまでトランペットを続けていた。何かを伝え続けていたのだろう。
 さあ、はじめよう。いま自分にあるものからはじめよう。

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体の声を聞く

 時には、体の声を素直に聞くのがよい。大病を患った人がそれまでの自分の生活を振り返り、「そういえば、あの時は妙に・・・だったな。」とか「あの時の・・・が響いたのだな。」という話をよく聞く。
 早いものでもう12月である。気がつけば、12月の夜の予定はどんどん埋まっている。ただでさえ寒くて、風邪っぴきが増えて、体調管理が難しい中、連日のように夜に酒を飲むとなると、体にこたえないわけがない。「全然平気だ。」という方もいるが、おそらく、体の声が聞こえていないだけだと察する。
 ある大先輩の会計士でが、「健康第一ではなく、健康がすべてだ。」と仰っていたことが印象的で忘れられない。その会計士は若い頃に過労で大病を患ったという。ある意味、過労と言えるほど仕事をしてみたいが、やはり健康あっての仕事だ。結局、体調が悪いといい仕事ができないし。
 時には、自分の体の声を聞こう。おいしいものを食べるのではなく、自分の体が求めているものを食べよう。できれば、自分のために自分で料理を作ってあげる。自分に対する労りである。

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Blog1周年

 早いもので、「なぜ会計士EBJはうざいのか?」-独立系会計士の思念-のBlogの初めての記事を2009年12月2日に書いてから1年が経過した。毎日更新し続けることは叶わなかったが、とりあえずは、このBlog自体を続けられたことを心に留めておきたい。
 当初は、「あるテーマについて、公認会計士としての切り口から考察する。」ことで一貫して記事を書くつもりであったのだが、「単なる事実・歴史等の説明」・「単なる制度説明」→「『あるテーマについて、公認会計士としての切り口から考察する。』ことが多少なりともできてきた(?)」→「日々の雑感(っていうか日記?)」のような内容の変遷を辿ってきており、最近は自分の中でもしっくり来ていなかった面もあった。
 いずれにせよ、これから2年目に突入する。ここで今一度、「あるテーマについて、公認会計士としての切り口から考察する。」ことを確認し、「なるべく」そうしようと思う。ただ、一つ言えるのは、「公認会計士」といっても、仕事上、会計・税務等のことだけで行動しているわけではない。様々な人間模様、組織文化等に接するわけで、むしろ、そっちの方が大事、というケースもある。したがって、カテゴライズの仕方としては、従来通り、「人」、「教養」、「仕事」という3つでやっていきたいと思う。単なる日記にするつもりは毛頭ないので、いかに考察を深めるかが重要と考えている。

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「至誠一貫」・「堅忍力行」~誇り~


 
 画像は我が母校の校是である。最後の将軍・徳川慶喜揮毫である。しかしながら、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったそうだ。「至誠一貫」とは、「誠実に生きる」ということであろう。孟子の「至誠にして動かざる者は、未だ之れあらざるなり。」からきている。
 徳川慶喜は、天保8(1837)年、水戸家・徳川斉昭の7男として江戸小石川に生れ、翌年より幼少時を水戸で過ごす。父斉昭が天保12年に創建した藩校・水戸弘道館にて11才まで学ぶ。慶応2(1866)年、第15代将軍宣下。翌年大政奉還を上表、将軍職を辞す。慶応4(1868=明治元)年4月、江戸城無血開城。同時に水戸に退去、弘道館・至善堂にて謹慎。
 ちなみに、もうひとつ校是がある。それは「堅忍力行」だ。「強い意志をもって困難を耐え忍び、努力して実行すること。」だ。これも素晴らしい。困難が伴うであろうが、自分に対しても他人に対しても、「至誠一貫」と「堅忍力行」を意識していれば、充実した人生が送れるであろう。

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S文庫

 私のお気に入りの場所がある。故S元水戸市長のメモリアル・プライベート図書館である。彼は政治のみならず、芸術にも造詣が深く、度々小澤征爾氏等の一流の音楽家が訪れてはコンサートを開いているようだ。彼の蔵書とCD等は半端ない数だ。水戸市の中心から少し離れたところにポツンと、モダンな建物と庭があり、静寂だ。隠れ家的な場所だと思っていたが、最近は認知度が格段に上がったのか、学生たちの自習室的側面が強いのが少し残念だ。ただ、将来の水戸市・茨城県を背負っていく学生たちが一生懸命勉強しているのだから、ある意味望ましいことだ。
 思えば、ここで公認会計士第三次試験の勉強をしたものだ。強引に1カ月以上の休暇を取り、実家に寄生(敢えてこの字)しながら毎日ここで勉強をしていた。興味深い再開もあった。高校生時代の親友のIと再開した。Iは病気を患いながらも、司法試験の勉強を孤独に続けていたのだ。Iは大学卒業後もしばらく東京で司法試験の勉強を続けていたのだが、病気を患ってからは実家に帰り、このS文庫で勉強していたのだ。結局彼は司法試験を断念したのだが、現在はたくましく東京で生きている。最近一児の父になり、先月は私の慰労を兼ねてゴルフに行った。友達はいいものだ。
 そんなことをふと思い出しながら、今はセミナーの資料を作っている。

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幸福論④

 いつも考えてばかりだと疲れてしまうが、やはり、「幸福」については、折を見て考える必要がある。そう考えたきっかけは2つ、今日の出来事だ。
 1つ目は、銀座での出来事。今日は久々に買い物をする日と決め、買い物リストを基に、午前中から買い物をした。最近は以前のように物欲で何かを満たすことはなく、つまり、物欲を満たすことでは幸福は得られないことに気付いたので、必要なものしか買わない。なので、銀座で買い物をすること自体が久々だ。私にとって銀座といえば、テイジンメンズショップ。社会人になって以来、服は大体テイジンで購入しており、そこの名物店長I氏には、服のことのみならず、時には男の生き方のようなものを教わっている。I氏は銀座で数十年、様々な男性を見てきている。服のアドバイスとフィッティングは的確で、私がどのようなものが好きかを熟知している。また、社会人になって以来の私の生き方を見てきている。そんなI氏に会うのは半年ぶり位なのだが、私の今年最大ともいえる出来事を、ちょっと余計なことも言いつつ報告したところ、「『幸福な生き方とは何か』を追求しなさい。」とのことであった。I氏とここまで距離が縮まっていたのかと多少嬉しかったし、もう義理(『たまには顔を出さなきゃな。』と思い込んでいた。)のような感情を持つ必要がないことを感じて楽になった。これまでにもう散々ファッションには金をつぎ込んできたので、もういいんじゃないの、ということだ。もう「実質」のみを追求する時が来たのだ。あと、仕事の面で、「仕事は順調なの?」と聞かれたので、「いや~、まだまだ理想には程遠いです。」と月並みの回答をしたのだが、「そんな、その歳で理想の形になるなんて無理だよ。逆に理想の形になっていたら、気味が悪いよね。」とのこと。ははぁ~っ、仰る通り。
 2つ目は、NHKスペシャル。ヒマラヤのチベットの天空の集落で暮らす人々は、生活必需品を買うために、標高4,600m以上の山々を行き来するのだが、行き来する道は絶壁を崩して細い道にしただけの道であり、人と馬がやっと通れるほどのものだ。ちなみに、馬を使うようになったのは7年前とのこと。これまでに数え切れない人と馬が亡くなったそうである。主人公は妻のために洗濯機を街で買って集落まで運ぶ男性なのだが、インタヴューに対し、「一生この運搬を続けたい。塩とお茶さえあれば生きていけるし、馬が4頭いるので、私にはこれ以上望むものはない。」とのことであった。清らかな目で真剣に語っていたのが印象的であった。僭越ながら、最近は、人の目を見ればおよその人となりが分かるようになってきた。「『自然に』清らかな目」をしている人は、自分自身を知り、自分の幸福を探し当てた人だと思う。
 ネガティブな感情が湧きおこり、「今、自分は幸福ではない。」と感じる時、人は既にある幸福を忘れ、言い訳をし、人のせいにする。すべては自分に原因があり、責任があるのに、人に求める。物に求める。さらなる要求をする。きりのない要求をする。そんな時こそ、「今ある幸福」を再認識し、感謝するのが一番だ。「感謝、感謝」などと口先ばかりの感謝など必要ない。何か問題が生じ、今ある幸福を再認識した時に感謝できれば、それでよい。

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「世界中をつなぐ日が、きっときっと、やってくる」

 先日の記事で紹介した「青葉の歌」のには、「世界中をつなぐ日が、きっときっと、やってくる。」、「世界中のみんなの手を、もっともっと 固く結ぶ。」という歌詞の部分がある。当初は若干違和感があったのだが、作詞者を調べてみると、その訳が理解できた。作詞者は小森香子先生であり、「きらめく青葉の描写を通して、世界平和と人類愛を訴えかける」という強いメッセージが込められている。なお、小森香子先生は、東京原水協、日本平和委員会理事、日本子どもを守る会理事などを務めた平和活動家であり、非核ソング「青い空は青いままで子どもらに伝えたい」の作詞者としても知られているそうだ。
 実現可能性や各論は考えないものとして、この力強い歌詞を形に表すこととして、是非やってみたいことが2つある。1つ目は、通勤ラッシュ時の京浜東北線のある1両の車両を「合唱列車」にし、毎日毎日、各パートずつ練習をし、最後はみんなで大合唱を行うというものだ。移動のためにたまに京浜東北線を利用するが、朝の京浜東北線の雰囲気は重い。誰かがクレームの口火を切れば、一気に気持ちが沈む。しかし、本当は乗車しているみなさんは、日々仕事やプライベートを頑張って生きている人達だと思う。各人の人生には様々な出来事があり、様々な思いがあるだろう。しかしみなさん頑張って生きているからこそ、朝京浜東北線で移動しているのだ。だとすれば、「合唱列車」で熱唱し、いい気分になったところで、皆が皆を送り出してあげれば、その日のパフォーマンスは格段に上がると思うのだ。日本が明るくなるのではないだろうか。
 2つ目は、国民全員とは言わないが、すべての国の皆で手を繋ぐという行為だ。たしか、どこかの大学の先生が開発した装置で、その装置を皆でつかんで何かすると音が鳴るというものがあったと記憶している。すべての国の皆が手を繋ぐことができれば音が鳴る仕組みにするのだ。「だから何?」と自分でも思ってしまうが、「思いを形にする」ことも重要ではないだろうか。
 掲載写真で伝えたかったこと。掲載写真の主人公は「Datsun Roadster 1967 1/2 original Sun Visors(サンバイザー)」である。日本で血眼になって捜したがみつからなかった、1967年当時物である。ネットやメールを駆使し、ようやくアメリカで見つかったのだ。彼も私と同じ車をこよなく愛する方で、それを生業にしているのだ。とても気持ちの良い方で、レスポンスが早い。信頼できる方だと思う。つまり言いたかったのは、材料は何でもよい、強い気持ちがあれば国境は関係ない、ということである。

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推計課税訴訟における民訴法第312条の文書提出義務について

1  所得税及び法人税における推計課税とは、税務署長が更正又は決定をするに当たって、直接資料によらず、各種の間接的な資料に基づいて推計により所得金額を認定する方法をいう。
 本来所得税及び法人税は、納税義務者の申告により実額に基づき課税標準及び税額等が確定するものであるが、納税者の帳簿書類の不存在又は記帳の不備、税務調査に対する非協力等によって実額が把握し得ない場合、課税庁は所得金額を推計し、更正又は決定せざるを得ないこととなる。この場合、課税を放棄することは、租税の公平負担の観点から許されない。ゆえに、ここに推計課税の認められる根拠があると解されている(1)。
 そこで、所得税法156条は「税務署長は、居住者に係る所得税につき更正又は決定をする場合には、その者の財産若しくは債務の増減の状況、収入若しくは支出の状況又は生産量、販売量その他の取扱量、従業員数その他事業の規模によりその者の各年分の各種所得の金額又は損失の金額(略)を推計して、これをすることができる。」と定められており、法人税法においても131条に同様な規定が設けられている。しかし、租税はそもそも担税力に応じて公平に負担がされるべきものであることからすれば、このような実体法の定めをまつまでもなく推計による課税は当然に許されるものと解される(2)(ただし、推計課税の必要性の観点からは種々論じられているが本稿においては割愛する。)。
 なお、所得税法及び法人税法のいずれにおいても、青色申告者に対しては実額課税のみが許され、推計課税は許されていない (所得税法156条、法人税法23条)
2  推計の方法については、両法とも「財産若しくは債務の増減の状況、収入若しくは支出の状況又は生産量、販売量その他の取扱量、従業員数その他事業の規模に」より各種所得の金額等を推計することができる旨定められているが、納税者の経済活動は、極めて複雑多様なものであって、特定の推計方法によってのみ認識し得るものとすることは合理的とはいえず、同規定に掲げる方法は例示にすぎないものと解されている(3)。
 課税実務における推計方法の主要なものとしては純資産増減法、比率法、効率法及び消費高法等があるが、これらの方法のうち、より多く用いられる方法は、比率法又は効率法であるが、両法を併用して用いることもある。
 文書提出命令の申し立ての対象となった課税処分取消訴訟の多くは「比率法」 によったものであり、その中でも「同業者率」によるものである。この方法は、当該納税者と業種が同一で、業態、事業規模、立地条件等において類似性のある同業者を選択し、その所得率、差益率、経費率等の平均値を算出して、その率を用いて当該納税者の所得金額を算出する方法である。
3  同業者率による所得金額の推計に当たっては、納税者と業種、業態、事業規模、立地条件等の類似するいわゆる同業者の売上原価率、所得率等(同業者率)を把握しなければならない。そこで、同業者率を把握、算定するためには、納税者の事業地の近隣地域の同種事業者の中から営業規模その他業態の類似する者を調査、抽出する必要がある。そのための資料として、数値その他の資料としての正確性、調査の容易性から、通例は、各税務署長が青色申告者から提出を受け保管している青色申告決算書を用いることとなる。この意味で青色申告決算書は、課税庁が推計課税を行うに当たっての重要な資料の一つであり、多くの事案においては、これを利用することなく合理的に所得金額を推計することは、極めて困難なものといえる。一方、このようなやむを得ない事情により、青色申告決算書を利用して同業者率を算定せざるを得ないこととなるが、そのための基礎数値を公表することは、各申告者の営業上の秘密やプライバシーを侵害することにつながる危険性を包含しているものといえる。そこで、税務署長は、守秘義務遵守の立場からその利用に当たり、その危険性が現実化しないよう細心の注意が必要であり、その際の大事な点は、同業者(青色申告者)の匿名性の確保にあるものといえる。すなわち、所得計算の基礎数値が公表されても、その申告者が誰であるかが特定されない限り、営業上の秘密やプライバシーへの侵害は生じないものといえる。そこで、被告としての税務署長は、このような見地から、課税処分取消訴訟において、同業者率の正確性とその適用の正当性を立証するため、申告者の住所、氏名その他の固有名詞を削除した青色申告決算書の写しを書証として提出していた。このような方法によったのは、削除措置により同業者の匿名性が維持でき、守秘義務に反することにはならないとの判断によったものであった。しかし、青色申告決算書には税務署長側が立証しようとする事項以外にも、例えば従業員数、専従者の年齢、償却資産の内容等沢山な情報が記載されており、また、青色申告決算書自体の筆跡から、申告者の特定が可能になる場合があり、その後、現に、具体的訴訟事件において原告側が、青色申告決算書の写しに基づく調査により、申告者を特定し得たとする事例が散見されるようになった。しかも、その同業者と名指しされた者が、原告側からその事業内容等につき調査されたりして困惑するという事態が生じるに至った。、このような事態は、申告者の住所、氏名等を削除しても、その匿名性が維持できないことが少なくないことを現しているものといえる。さらに、このことは、課税庁がこのような形で青色申告決算書を書証として提出することは、守秘義務に違反することを示しているものといえる。
 そこで、課税庁としては、守秘義務違反になるおそれがなく、しかも、同業者率の正確性、その適用の正当性の立証として必要かつ十分な書証として、国税局長の発した一般通達に基づき、青色申告者のうち選定条件を充足する者の決算項目中、売上金額、売上原価、一般経費等の同業者率算定に必要な数値を各税務署長が青色申告決算書及びその他の資料に基づき調査し、報告した文書(「同業者調査表」)を提出するに至った。
4  推計による課税処分について、納税者側から課税処分取消訴訟が提起され、その訴訟中において推計の基となった同業者の類似性、文書の成立及び内容の真偽の確認等を理由として、推計の基となった類似同業者の青色申告決算書等の原本、青色申告決算書等の隠ペい部分を開示した文書又は固有名詞等の隠ペいされていない同業者調査表、さらには、所得調査書や反面調査書等の文書提出命令の申し立てがなされ、当該文書の民事訴訟法(以下「民訴法」という。)312条各号に定める文書該当性、各税法等に定める守秘義務該当性が争われることが近年著しく多くなった。
5  民訴法312条に定める文書提出義務の規定の趣旨は、文書の所持者である当事者及び第三者の文書提出義務の原因について定めたものである。この義務は、申立人に対する私法上の義務ではなく、国家に対する公法上の義務であるといわれている。それは、文書を証拠として使用することにより、事実認定の適正を図ることが、裁判制度の適切な運用の基礎となることから、国民の義務として文書提出に協力すべきことを認めたものである(4)。したがって、文書の所持者が任意に提出することを期待していては、その提出が得られない場合に単に挙証者の立証の途を閉ざしてしまうことになりかねないという挙証者の利益のみに基づくものではないと解されている(5)。
6  本稿においては、推計による課税処分の取消訴訟において文書提出命令が申し立てられたものについて、昭和45年以降の決定例(70件・抗告審等を含む。)を概観することにより、文書の所持、引用文書、引渡又は閲覧を求めることができる文書、利益文書、法律関係文書及び守秘義務等について分析検討を加え、推計による課税処分の取消訴訟における文書提出命令の申し立てと申告納税制度における文書提出義務の関係について解明を試みたものである。
(推計による更正又は決定)
所得税法第156条 税務署長は、居住者に係る所得税につき更正又は決定をする場合には、その者の財産若しくは債務の増減の状況、収入若しくは支出の状況又は生産量、販売量その他の取扱量、従業員数その他事業の規模によりその者の各年分の各種所得の金額又は損失の金額(その者の提出した青色申告書に係る年分の不動産所得の金額、事業所得の金額及び山林所得の金額並びにこれらの金額の計算上生じた損失の金額を除く。)を推計して、これをすることができる。

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球体=自然体

 「地球の出」は好きな写真の一つだ。地球の出は、「昼」と「夜」、すなわち、「陰」と「陽」を示している。換言すれば、物事の捉え方を端的に示しているのだ。
 最近、「これは無駄だな。こんなことばかりしていては、自分の首を絞めることになる。しかし、そのことを指摘すれば角が立つ。」ということ(以下「Xの問題」という。)があり、すこし悩んでいた。当事者に言うべき言わざるべきか。結局言わずに済んだのだが、その理由は、「あながち無駄ではない。」ということが分かったからである。というのも、実は、Xの問題について悩む以前に、「Zの問題」という根本的な問題があり、このZの問題を解決する上で、どうもXの問題がネックになっている、と思い込んでいたのだ。したがって、まずはXの問題を解決しなければならないと躍起になっており、それが目的となっていた。ところが、そもそも、Xの問題があろうがなかろうが、Zの問題が解決されれば良いわけである。そこを忘れていたのだ。そうこうしているうちに、実はXの問題も「問題」というネガティブな一面も確かにあるが、時にはポジティブな一面もあることを再認識できたのである。むしろ今回は、Xの問題にやむなく向き合っているうちに、Zの問題に関する何らかの糸口が見えたのである。
 長くなったが、つまり、物事を「良い」「悪い」の二元論で捉える事が正しいとは限らないということである。「地球の出」の写真のように、球体に憧れる。球体は「自然体」だ。人間も、いつも自然体でいられたら、どんなに楽だろうか。惰性で生きるのは悲しいが、自然体で柔軟に生きることができれば、争いは少なくなるだろう。

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迷い~何に迷うのか~

 「労力」=「経験」としよう。「経験」と「報酬」の兼ね合いをどうするか、迷うところだ。現在、ある仕事の引き合いがあるのだが、報酬的には厳しい面がある。
 おそらく、この仕事は引き受ける。クライアントは外国人。英語でのコミュニケーションで、会計システム、法人税、消費税、所得税のあらゆる会計・税務マターに関与することになろう。大変な面もあろうが、貴重な経験になりそうだ。ここはひとつ、飛び込んでみるのがよいのか。
 迷ったら飛び込んできたのが私の人生。大怪我をしない程度に飛び込むのだろう、きっと。

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夜の魔力

 夕方や夜というのは不思議なものだ。昼間の事象に特別な効果を与える。中学の時の美術の先生がおっしゃった。「夕方に自分の顔を見なさい。一番いい顔をしているはずだ。君たちの自画像を夕方に描いてきなさい。」と。
 写真の「貴婦人(Fairlady)」も、夜になると昼間と違った魅力を露わにする。この車は単に「走り」だけを志向していない。たしかに、Fairlady2000ともなると、じゃじゃ馬と言われるように、走りを追求している面が強い。しかし、そもそものデザインはFairlady1500であり、Fairlady1500と1967年式の前期型のFairlady2000とでは、そのデザインが訴えかける点で、共通している。優雅さと言えば言い過ぎだが、往年のスポーツカーを彷彿とさせる何かがある。
 いずれにせよ、夜の貴婦人は素敵だ。

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青葉の歌

 「合唱」に対する興味が止まらない。ひとたびYou Tubeで検索が始まるともう止まらない。
 またいい曲を見つけてしまった。「青葉の歌」だ。いい曲なんだけど、若干思いが強い。いずれにせよ、若者が歌うこの「青葉の歌」は、エネルギーに溢れている。
 演奏はどこかの中学生だ。断わっておくが、●●コン趣味はない。あくまで「合唱」に興味があるのだ。演奏技術的にはもっと上がいるかもしれない。しかし、演奏技術の高い演奏が「いい演奏」とは限らない。大切なのは、「訴えかける何かがあるか」だ。僕は、まず、この指揮者は素晴らしいと思う。何を伝えたいかが伝わってくる。僕はこんな熱い演奏が好きだ。
 あ~、いつか合唱の指揮がしたい。

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