芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

カテゴリー: 教養

自分の頭で考えて行動する。

 何事にも言えるのだが、自分の頭で考えて行動することは非常に重要だ。人間の文明がこれほどまでに発展を遂げてきたのは、やはり、オツムの賜物だ。受動的な教育を受け、受動的な社会に慣れてしまうと、人間が本来持っているオツムも錆びついてしまう。つい最近まで自分もそうだった。
 例えば、先日の記事に書いたように、今月からラッパのレッスンを始める。レッスンを始めるにあたり考えたのは、先生にとって最低限の礼儀を払うということだ。つまり、先生にすべてを委ねるという姿勢ではなく、基本的には自分で行動している中でそのアドバイスを頂くという姿勢でいることだ。簡単な例で言うと、歯医者に行く前に歯を磨くようなものか(よくわからないか・・・)。
 そんなわけで、今日も軽くラッパを吹いてみた。私が認識している一番の問題は、息が口から漏れるということ。つまり、息がラッパに効率よく入っていかないということだ。そこで今日は、アンブシュアを意識してみた。これまで、唇の真ん中にマウスピースが来るのがあるべきアンブシュアだと考えていたが、その考えを取っ払った。今日は、息が漏れているところにマウスピースの中心を敢えて持って行った。すると、なんだか、息の通りがよいような気がするのだ。試しに、ハイトーンを出してみた。「唇に力が入らないようにするために腹に力を入れる。」ということを意識してみたところ、ハイE♭が出た。まぐれもあるが。
 こんな風に、今日は、自分の頭で考えて行動してみた。時には思い込みを取っ払い、大胆な仮説に基づいて行動してみる。そして、その行動の結果を分析する。こんな感じでラッパを頑張ってみようと思う。

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Trumpet

 トランペット(英: Trumpet、伊: Tromba:トロンバ、独: Trompete:トロンペーテ)は、金管楽器の一種。略称は「Tp」「Trp」「ラッパ」「ペット」など。管の全長に対して円筒部分の割合が大きく、多くは長円状に巻かれ、その中ほどに3つ(稀に4つ)のピストン又はロータリー式のバルブを備える。この楽器の調性には様々なものが存在するが、最も一般的なのは変ロ調(B♭管)とハ調(C管)である。ハ調を除き、移調楽器である。3つ又は4つのピストンまたはロータリーを操作しつつ、息のスピードで音を変え、演奏する。
 写真は、約20年前に、今は亡き祖父に買って貰った、Vincent Bachの「Stradivarius Model 37」。まだまだ使える逸品だ。ちなみに、以下の事項は知らなかった。。。
 ヴィンセント・バック社は1918年にウィーン生まれのトランペット奏者ヴィンセント・バック(本名:ヴィンセント・シュローテンバッハ、Vincent Schrotenbach、1890年 – 1976年)によって設立された。創業当初はマウスピース製造を目的としていたが1924年にはトランペットを製造しはじめている。 この数年間でヴィンセント・バック社はアポロ (Apollo) 、ミネルバ (Minerva) 、マーキュリー (Mercury) 、メルセデス (Mercedes) 、ストラディバリウス (Stradivarius) などのブランド名でトランペット、コルネット、フリューゲルホルン、トロンボーンを製造した。しかし1961年にセルマーUSA社に買収され傘下となり、ヴィンセント・バックは辞任した。買収後もヴィンセント・バック社の楽器設計は維持され、バック・ストラディバリウス(Bach Stradivarius)の名で販売されている。全米自動車労働組合364地域の呼びかけで、2006年4月から2009年現在、3年以上の期間、従業員がストライキを続けている。しかしながら、製造、供給は継続されている。

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再開・再会

 歳を重ねるにつれ、いかに自らの生活を自らが充実させるかを考えるようになる。決して「隙間症候群」ではないのだが、「三脚」は足が3本あるから安定するように、自分にとっても「人(生活)」「仕事」と、より充実した「教養」が欲しいところだった。「三人寄れば文殊の知恵」と言うように、より精神的に安定するには、2つの点を結ぶだけではなく、あともう1点を加えて「面」にすることが重要である。
 このような時、「自分に足りないもの」を探してはいけない。「あれがない、これがない」と言っていては、いつまでたっても「足りる」ことはないだろう。先輩会計士のN会計士がいいことを言った。「足るを知る」ということだ。そうしてみると、自分は音楽が趣味だ。以前はトランペットとピアノをやっていた。しかし今はピアノを失ってしまった。残るのはトランペットだ。中学生の時に今は亡き祖父に買ってもらったトランペット。これしかない。
 早速トランペットを再開すべく、まずは、レッスンを受けることにした。ネットでさんざん探したがめぼしい先生は見つからない。そこで、高校時代からの友人のJAZZ SaxミュージシャンのI氏に連絡し、誰か紹介してくれるようお願いしたところ、なんと、共通の知人であるJAZZ TrumpetミュージシャンS氏の名前が挙がった(写真)。彼は私が大学のJAZZ研で活動していた時の先輩である。数年間サラリーマンをした後、プロとして独立した。彼はとにかくトランペットが好きだ。研究と練習を重ね、彼が大学2年生の時にはすでに、素晴らしいアドリブを披露していた。早速彼に連絡しレッスンをお願いしたところ、なんと、快諾してくれたのだ。思い立ってから行動に移すまで約3ヶ月かかった。こんな感じで時が過ぎてゆくのだから、第一歩を踏み出すことがいかに大切なことか。
 早速今月に第1回目のレッスンがある。現在の私はかなりブランクがあるため、アンブシュアから始まる基礎的なことからやらなきゃだめだ。一方で、わたしは、小学生の頃からトランペットをやっており、その楽しさはよくわかっている。トランペットを通じて人に何かを伝え、それが伝わった時の感動は、何物にも代えがたい。そんな状態に必ず持っていくつもりだ。たとえが悪いが、チェット・ベイカーは喧嘩や麻薬の影響ですべての歯を失っても、謎の転落死をするまで死ぬまでトランペットを続けていた。何かを伝え続けていたのだろう。
 さあ、はじめよう。いま自分にあるものからはじめよう。

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「至誠一貫」・「堅忍力行」~誇り~


 
 画像は我が母校の校是である。最後の将軍・徳川慶喜揮毫である。しかしながら、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったそうだ。「至誠一貫」とは、「誠実に生きる」ということであろう。孟子の「至誠にして動かざる者は、未だ之れあらざるなり。」からきている。
 徳川慶喜は、天保8(1837)年、水戸家・徳川斉昭の7男として江戸小石川に生れ、翌年より幼少時を水戸で過ごす。父斉昭が天保12年に創建した藩校・水戸弘道館にて11才まで学ぶ。慶応2(1866)年、第15代将軍宣下。翌年大政奉還を上表、将軍職を辞す。慶応4(1868=明治元)年4月、江戸城無血開城。同時に水戸に退去、弘道館・至善堂にて謹慎。
 ちなみに、もうひとつ校是がある。それは「堅忍力行」だ。「強い意志をもって困難を耐え忍び、努力して実行すること。」だ。これも素晴らしい。困難が伴うであろうが、自分に対しても他人に対しても、「至誠一貫」と「堅忍力行」を意識していれば、充実した人生が送れるであろう。

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S文庫

 私のお気に入りの場所がある。故S元水戸市長のメモリアル・プライベート図書館である。彼は政治のみならず、芸術にも造詣が深く、度々小澤征爾氏等の一流の音楽家が訪れてはコンサートを開いているようだ。彼の蔵書とCD等は半端ない数だ。水戸市の中心から少し離れたところにポツンと、モダンな建物と庭があり、静寂だ。隠れ家的な場所だと思っていたが、最近は認知度が格段に上がったのか、学生たちの自習室的側面が強いのが少し残念だ。ただ、将来の水戸市・茨城県を背負っていく学生たちが一生懸命勉強しているのだから、ある意味望ましいことだ。
 思えば、ここで公認会計士第三次試験の勉強をしたものだ。強引に1カ月以上の休暇を取り、実家に寄生(敢えてこの字)しながら毎日ここで勉強をしていた。興味深い再開もあった。高校生時代の親友のIと再開した。Iは病気を患いながらも、司法試験の勉強を孤独に続けていたのだ。Iは大学卒業後もしばらく東京で司法試験の勉強を続けていたのだが、病気を患ってからは実家に帰り、このS文庫で勉強していたのだ。結局彼は司法試験を断念したのだが、現在はたくましく東京で生きている。最近一児の父になり、先月は私の慰労を兼ねてゴルフに行った。友達はいいものだ。
 そんなことをふと思い出しながら、今はセミナーの資料を作っている。

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「世界中をつなぐ日が、きっときっと、やってくる」

 先日の記事で紹介した「青葉の歌」のには、「世界中をつなぐ日が、きっときっと、やってくる。」、「世界中のみんなの手を、もっともっと 固く結ぶ。」という歌詞の部分がある。当初は若干違和感があったのだが、作詞者を調べてみると、その訳が理解できた。作詞者は小森香子先生であり、「きらめく青葉の描写を通して、世界平和と人類愛を訴えかける」という強いメッセージが込められている。なお、小森香子先生は、東京原水協、日本平和委員会理事、日本子どもを守る会理事などを務めた平和活動家であり、非核ソング「青い空は青いままで子どもらに伝えたい」の作詞者としても知られているそうだ。
 実現可能性や各論は考えないものとして、この力強い歌詞を形に表すこととして、是非やってみたいことが2つある。1つ目は、通勤ラッシュ時の京浜東北線のある1両の車両を「合唱列車」にし、毎日毎日、各パートずつ練習をし、最後はみんなで大合唱を行うというものだ。移動のためにたまに京浜東北線を利用するが、朝の京浜東北線の雰囲気は重い。誰かがクレームの口火を切れば、一気に気持ちが沈む。しかし、本当は乗車しているみなさんは、日々仕事やプライベートを頑張って生きている人達だと思う。各人の人生には様々な出来事があり、様々な思いがあるだろう。しかしみなさん頑張って生きているからこそ、朝京浜東北線で移動しているのだ。だとすれば、「合唱列車」で熱唱し、いい気分になったところで、皆が皆を送り出してあげれば、その日のパフォーマンスは格段に上がると思うのだ。日本が明るくなるのではないだろうか。
 2つ目は、国民全員とは言わないが、すべての国の皆で手を繋ぐという行為だ。たしか、どこかの大学の先生が開発した装置で、その装置を皆でつかんで何かすると音が鳴るというものがあったと記憶している。すべての国の皆が手を繋ぐことができれば音が鳴る仕組みにするのだ。「だから何?」と自分でも思ってしまうが、「思いを形にする」ことも重要ではないだろうか。
 掲載写真で伝えたかったこと。掲載写真の主人公は「Datsun Roadster 1967 1/2 original Sun Visors(サンバイザー)」である。日本で血眼になって捜したがみつからなかった、1967年当時物である。ネットやメールを駆使し、ようやくアメリカで見つかったのだ。彼も私と同じ車をこよなく愛する方で、それを生業にしているのだ。とても気持ちの良い方で、レスポンスが早い。信頼できる方だと思う。つまり言いたかったのは、材料は何でもよい、強い気持ちがあれば国境は関係ない、ということである。

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夜の魔力

 夕方や夜というのは不思議なものだ。昼間の事象に特別な効果を与える。中学の時の美術の先生がおっしゃった。「夕方に自分の顔を見なさい。一番いい顔をしているはずだ。君たちの自画像を夕方に描いてきなさい。」と。
 写真の「貴婦人(Fairlady)」も、夜になると昼間と違った魅力を露わにする。この車は単に「走り」だけを志向していない。たしかに、Fairlady2000ともなると、じゃじゃ馬と言われるように、走りを追求している面が強い。しかし、そもそものデザインはFairlady1500であり、Fairlady1500と1967年式の前期型のFairlady2000とでは、そのデザインが訴えかける点で、共通している。優雅さと言えば言い過ぎだが、往年のスポーツカーを彷彿とさせる何かがある。
 いずれにせよ、夜の貴婦人は素敵だ。

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青葉の歌

 「合唱」に対する興味が止まらない。ひとたびYou Tubeで検索が始まるともう止まらない。
 またいい曲を見つけてしまった。「青葉の歌」だ。いい曲なんだけど、若干思いが強い。いずれにせよ、若者が歌うこの「青葉の歌」は、エネルギーに溢れている。
 演奏はどこかの中学生だ。断わっておくが、●●コン趣味はない。あくまで「合唱」に興味があるのだ。演奏技術的にはもっと上がいるかもしれない。しかし、演奏技術の高い演奏が「いい演奏」とは限らない。大切なのは、「訴えかける何かがあるか」だ。僕は、まず、この指揮者は素晴らしいと思う。何を伝えたいかが伝わってくる。僕はこんな熱い演奏が好きだ。
 あ~、いつか合唱の指揮がしたい。

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日本の技術力

 その上に胡坐をかくつもりはないが、以前から、日本の素晴らしいところを探すようにしている。ここ2年間くらいは海外に行く機会が多かったものだから、なおさらだ。
 怪我の形成外科手術をしたことは以前書いたが、改めて傷の経過を確認したところ、抜糸をしていない段階にもかかわらず、綺麗である。結局、日本が何が凄いかといえば、外国人には絶対に真似のできない「機微」である。日本人にしかない機微。これが日本の技術力を支えているのだと思う。いつから起算すればよいかわからないが、日本人のDNAには脈々と受け継がれているのでしょう。程度は別にして、自分の身の回りの方達はほとんど同様の機微を持っているだろう。そこが日本の凄いところだ。
 ちなみに、ブラタモリで丸の内の特集があった。東京駅や鉄道の高架等の土木建築についての考察があったが、明治時代の技術は、アナログだとしても、現在の技術に引けを取っていないそうだ。100年以上経過した現在でも使い続けているのだから。
 特に昔の日本人は、なんて凄いのだろう。そういう先人達に感謝し、自分もがんばろう。あと、連日マスコミで報道される日本に関するネガティブな報道について、それはそれで無視はできないが、それに振り回されるのはやめにしましょう。それより、自分の頭で考えつつ、まずは、日本の良いところを探して、ポジティブに生きませんか?

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Hospitality

 生まれて初めて病院に入院した。飯田橋の東京逓信病院だ。ベトナムで額に怪我をしたのだが、その怪我の見た目を良くするために、保険適用の形成外科手術を受けたのだ。13日(水)午前中に入院手続をし、午後は運転免許証の更新と仕事をしてから、夕方に本格的に入院となった。14日(木)午前中に手術をし午後は点滴を受けるなどじっとしており、15日(金)朝に退院した。2泊3日の入院生活であったが、大きくは以下の3点を学んだ。
①医師・看護師は一生懸命働いている。
②HospitalはHospitalityの集積である。
③健康が全てである。
 まず、看護師の方々は3交代制で1日中患者をケアしており、その働きぶりには脱帽だ。ほんと優しくて、ありがたい存在だった。初めは少々緊張したが、だんだん慣れてくると、大部屋の病室はホッとする場所になった。医師の先生方も頼もしかった。手術中はずっと世間話をしながら事が進んだ。確定申告で困っているというので、営業活動もしておいた。こちらが緊張しているのを察しての世間話だったと思うが、そのお陰で苦痛なくあっという間に手術が終わった。
 本日朝に退院し、飯田橋のお堀沿いを歩いていると、久々にシャバ((注)収監されたことはない)に出た感じがして、妙な解放感を感じた。私の場合は形成外科手術なので命に別条があるわけではないが、長い期間、重い病等で入院されている方々のことを思うと、やはり、何といっても健康が大事なのだと、改めて実感するのだった。創傷にはタバコはよくないと言われているが、タバコはやめられないでいる。近い将来、タバコをやめ、体力を増強し、タフな仕事を今まで以上に遂行できるよう、健康を保っていきたい。

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新米


 新米は殊のほかうまい。何と表現をすればよいのだろうか、挽きたての豆で入れたコーヒーとインスタントコーヒーとの違い、とでも言えばいいだろうか。とにかくうまい。
 新米には目がないので、実家にまで赴き、新米を入手した。精米していないので、近所の有料精米機で精米して東京に持ってきた。なお、精米すると米糠がでる。こちらはお持ち帰り自由。なんとも無駄のない仕組みである。
 精米してた米を炊いて口にする背景には、農家の方々の並々ならぬ労力があることを忘れてはならないが、精米した米はもちろんのこと、藁・米糠等、無駄なくすべて利用できるところに、先人たちの知恵というか、合理性を感じるのであった。IRRも大事だが、それらこそがほんとの意味の合理性ではないだろうか。

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歌舞伎


 新橋演舞場に歌舞伎を観に行った。友人の新聞記者がチケットを2枚くれたのだが、開演が16:30なので、なかなか一緒に行く相手が見つからない。仕方がないので一人で行ったわけだが、21:00頃までたっぷりと楽しませて頂いた。
 実は初めての歌舞伎だったのだが、大変素晴らしいものであった。会場の雰囲気は独特だし、なんだか華やかな気分になるし、日本の文化の素晴らしさを改めて実感した。3つも演目があり見ごたえもあった。言葉が昔の言い回しなので聴きとるのに難解な部分もあるが、あらかじめ筋書きを読んでおけば大勢に影響はない。場面によっては涙をそそる。
 いや~、やっぱ日本って国は凄いな。最近「美徳」について考えることがあるが、日本にはそういったことを志向してきた国でもあるのだろう。これからも日本の良いところを再発見していきたい。

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水森亜土


 文京区の弥生美術館で開催されている水森亜土展に行ってきた。当美術館は、ある弁護士が設立し、竹久夢二の作品が常設されている美術館である。
 亜土ちゃんは幼い頃から大好きであった。かなり不思議ちゃんであるが、ただの不思議ちゃんではないことが分かった。人間として尊敬の念を抱く。結婚をし、4人か5人の親族等の介護をしてきたのである。介護の秘訣は週に2階に介護休暇を必ず取ることとのことであるが、それにしてもその精神力には感服する。
 また、彼女の生き方には裏付けがある。やはり、自分の好きなことをやり続けるには並々ならぬ覚悟が必要だ。リスクとリターンをすべて自分で享受しなければならない。自分にも言い聞かせるが、諦めずに自分の信ずることをやり続けるには、勇気と忍耐が必要だ。乗り越えるべき試練を乗り越えないと明るい先はない。
 亜土ちゃんの描く、観ているだけで涙の出そうな、優しい女の子の絵は、そんな亜土ちゃんの強さに裏付けられているからこそ、優しさに溢れているのだろう。

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物を大切にする心

 同じ車でも、日々大切にされている車とそうでない車では、写真写りがまったく異なる。日々大切にされている車からはオーラが放たれるので写真写りが非常に良い。一方、あまり大切にされていない車の写真写りはいまいちである。
 私も車を大切にしている。車の師匠の指示もあり、一生懸命ワックスをかける。所詮「物」だがされど「物」。時にはその人の生きざまを色濃く形成していることもある。白洲次郎とベントレー・お洒落な服・小物、所ジョージと車・バイク・様々なグッズ。枚挙にいとまがないが、そういうものである。「それらの『物』がないとその人がアイデンティファイされない。」というのではあまりにも悲しいし薄っぺらいが、上記のようにその逆であれば、別に問題はないのではないだろうか。

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『議論』~社会科学における化学反応~


 自然科学はすごい。何がすごいかと言うと、その存在自体が完璧な「自然」を対象としているから、ダイナミックである。化学に焦点を当てれば、いわゆる「化学反応」により、様々な物質ができて、変化が起こる。水素と酸素のくっつき方次第では、水ができてしまうのである。質量保存の法則、位置エネルギーが運動エネルギーに変わることなど、美しい面もある。
 理系に行くか文系に行くかは、高校生の時に明確になることが多いのではないだろうか。私の場合は、高校生の当時は視野が狭かったので、理系に興味を示すことはなかった。成り行きで文系に進み、仕事も超文系である。まあ、よい。思考回路が文系のようだ。
 さて、勝ち負けの問題ではないが、社会科学は自然科学に負けていない。社会科学と言ってしまうと実感がわかないので、我々公認会計士の仕事に焦点を当ててみよう。我々も化学反応を起こしている。「議論」によってだ。「三人寄れば文殊の知恵」という諺もあるように、確かに、3人集まって議論すると、かなりの頻度でいいアイディアが出てくる。いや、2人で議論してもしかりだ。1人だと煮詰まってしまうような物事でも、議論をすれば着地点が見えてくることがある。もちろん、自分自身の意見や考えがあっての議論であり、議論自体に依存してはならない。
 いずれにせよ、「議論」は社会科学における化学反応である。

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自分が頑張ってきたこと

 小学3年生の時、小学校の金管バンドの演奏を聴き、度肝を抜かれた。それ以来、特にトランペットが吹いてみたくてたまらなくなって、入部が認められる4年生になると、すぐさま金管バンドに入部した。トランペットが吹きたい一心で。
 しかし、ひとつ問題があった。どの楽器を担当するかは、先生の目利き、楽器の競争率などに左右されるのだった。しかも困ったことに、体格のいい人はTubaという低音楽器を担当する傾向が強かった。当時私はデブだったので、「Tubaをやれと言われたらどうしよう・・・」と真剣に悩んでいた。 ところがなんと、念願のトランペットを吹けることになった。先生に熱意が通じたのだろう。そう決まってからは、がむしゃらに練習した。嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。6年生の最後の頃には、先生にも一目おかれていて、ソロ曲を吹いたりして、なんとも充実した日々だった。
 中学校は地元の私立の中学校で、高校生と合同の吹奏楽部に入部した。ここでも当時、トランペットは競争率が高く、ひやひやしたが、なんとかトランペットを許可された。この部には高校生がいるし、歴史のある部だったのでレベルが高く、それなりの地位に行くには中学3年生になってからだった。とはいえ、結構練習したし、幅広いジャンルの音楽に触れることができ、非常に充実したものだった。
 高校でも吹奏楽部に入部した。高校自体が明治以来の古い高校で、個性的な生徒ばかり。吹奏楽部も相当個性的であり、かなりマニアックなクラシック音楽を志向していた。当時は主に生徒が中心となって自主運営しており、指揮者も生徒。熱い日々を過ごした。ここで音楽的なセンスのようなものを学んだ。
 大学ではいわゆるジャズ研に属していた。大学2年生から公認会計士の勉強を始めるまで、とにかくジャズ漬の日々だった。相当LPやCDを買ったし、セッションにも参加した。当時は横浜に住んでいたが、近所にプロのジャズマンのジャズ研の先輩がいたので、夜な夜なジャズを聴いて、曲や奏者について語ったものだった。クラシック音楽も大好きだが、ジャズを通じて自分を表現できる気がして、心地よい日々であった。
 いまはどうだろう。先日久々に楽器を手にしたが、悲しかった。昔取った杵柄などない。アンブシュアがそもそも崩れており、息が漏れて、音が出ない。悔しかった。しかし、このままでは済ませない。またあの輝かしい若い時のように、音楽をしたい。いつか再開しようと思い、楽器は事務所に持ってきてある。
 「なるべく」近々、再開するつもりだ。

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作曲家 木下牧子


1956年東京生まれ。都立芸術高校ピアノ科卒業。東京芸術大学作曲科卒業、同大学院終了。在学中、作曲を石桁真礼生、黛敏郎、浦田健次郎、丸田昭三の各氏に、ピアノを岩崎操氏に師事。芸大卒業記念演奏会において、管弦楽曲「壺天」が作曲科首席卒業作品として演奏される。管弦楽のための「幻想曲」で第51回日本音楽コンクール作曲(管弦楽曲)部門入選。管弦楽のための「オーラ」で第9回日本交響楽振興財団作曲賞入選。’03年オペラ「不思議の国のアリス」(モーツアルト劇場創立20周年委嘱作品)初演で三菱信託芸術文化財団奨励賞受賞。’05年同オペラ全面改訂版初演は各界から絶賛を博し、主宰・モーツアルト劇場がエクソンモービル音楽賞受賞。
<合唱作品>
混声合唱組曲「方舟」(大岡信/男声版あり)
混声合唱組曲「ティオの夜の旅」(池澤夏樹/男声版あり)
混声合唱組曲「光る刻」(男声版あり)
混声合唱曲集「地平線のかなたへ」(春にを含む)(谷川俊太郎/女声版・男声版あり)
混声合唱曲集「光と風をつれて」(工藤直子)
混声合唱曲集「うたよ!」(まど・みちお)
女声合唱曲集「わたしは風」
混声合唱曲集「夢みたものは」
ア・カペラ混声合唱のための「ELEGIA」(北園克衛)
男声合唱組曲「真夜中」(清岡卓行)
男声合唱組曲「Enfance finie」(三好達治)
男声合唱曲集「恋のない日」(堀口大學)
無伴奏男声合唱のための「わたしはカメレオン」
男声合唱とピアノのための「美術館へ」(大岡信)→出版に当たり「朝の頌歌」と改題
無伴奏男声合唱組曲「いつからか野に立つて」(高見順)
ア・カペラ女声合唱のための「絵の中の季節」(岸田衿子)
無伴奏女声合唱曲集「5つの祈り」(ヴォカリーズ)
混声合唱曲「邪宗門秘曲」(北原白秋/ピアノ伴奏版・管弦楽伴奏版)
混声合唱曲「オンディーヌ」(吉原幸子/女声版あり)
合唱曲「もえる緑をこころに」(関根栄一/混声版・女声版。第59回(1992年度)NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲)
合唱曲「めばえ」(みずかみかずよ/混声版・男声版・女声版。第64回(1997年度)NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲)
混声三部合唱曲「そのひとがうたうとき」(谷川俊太郎/混声四部版あり)
合唱曲「なぎさの地球」(大岡信/混声版・男声版・女声版。第69回(2002年度)NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲)
混声合唱曲「さびしいカシの木」(やなせたかし)
合唱曲「ロマンチストの豚」(やなせたかし/混声版・同声版・女声版・男声版・歌曲編曲版)
同声二部合唱曲「まいにち「おはつ」」(工藤直子/第73回(2006年度)NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
混声(女声)合唱のための「木下牧子アカペラ・コーラス・セレクション」
吹奏楽伴奏による女声三部合唱曲「いま!」(ピアノ伴奏版/混声版)
混声四部合唱とオルガンのための「光はここに」(立原道造)
女声合唱組曲「悲しみの枝に咲く夢」
女声合唱とピアノのための「花のかず」
女声合唱と打楽器のための「Blue」
同声(女声)合唱とパーカッションのための4つの舞曲
「大学4年。プロ作曲家を目指してがんばっていた」時のお写真だそうです。以前から御綺麗なのですね。

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作曲家 松下 耕


作曲家、合唱指揮者。1962年、東京生まれ、国立音楽大学作曲学科首席卒業。ハンガリー・コダーイ研究所合唱指揮マスターコース修了。現在音楽監督を務めている合唱団は10団体を数える。各合唱団とも、日本国内、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、アジア各国のコンサートやフェスティバルに招待演奏されているほか、国際コンクールでのグランプリ受賞など、優秀な成績を収めている。
<合唱曲>
タンポポ(第65回(1998年)NHK全国学校音楽コンクール中学校の部の部課題曲)
言葉にすれば(第74回(2007年)NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲。安岡優(ゴスペラーズ)との共作)
混声合唱とピアノのための『信じる』 (表題曲は、第71回(2004年)NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲として書かれた混声3部・女声3部版を混声4部に改作したもの。なお、課題曲は演奏時間の都合により一部カットした形のものが用いられたが、のちに女声版を出版する際(女声合唱曲集「そのひとがうたうとき」収録)、ノーカット版で再発表している。)

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詩人 谷川俊太郎


哲学者で法政大学学長の谷川徹三を父として東京府東京市(東京都)杉並区に生まれ育つ。兄弟はいない。1948年から詩作および発表を始める。1950年には父の知人であった三好達治の紹介によって『文学界』に「ネロ他五編」が掲載される。1952年には処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行する。まもなく、詩作と並行して脚本や、歌の作詞、エッセイ、評論活動などを行うようになる。
<合唱曲>
問い(作曲/湯浅譲二)
青空のすみっこ(作曲/寺島尚彦) – 第41回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲
信じる(作曲/松下耕) – 第71回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲
いのち(作曲/鈴木輝昭) – 第77回NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲
<対談集>
谷川俊太郎の33の質問
魂にメスはいらない(河合隼雄との対談)
対談現代詩入門(大岡信との共著)
谷川俊太郎質問箱(東京糸井重里事務所、2007年)
ものみなひかる(河合隼雄との対談)

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合唱に目覚める~Nコンを通して~

 常々、合唱はいいものだと思っていた。何度かコンサートに足を運んだこともある。しかし、最近は全くのご無沙汰だった。
 ところが、最近はNコン(NHK全国学校音楽コンクール)の時期であり、NHKの地方版番組でも取り上げられている。それがきっかけで、インターネットで検索をしているうちに、以下の合唱曲に行き着いた。もう、目から鱗の詩と曲であり、思わず20回以上繰り返して聴いてしまった。
「信じる」 作詞 谷川俊太郎 作曲 松下 耕
 
笑うときには大口あけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない私
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない
地雷をふんで足をなくした
子どもの写真目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち
葉末の露がきらめく朝に
何を見つめる子鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きる源
信じることは生きる源   
私は信じる
 上記URLは、北海道の中学生の合唱である。中学生が体全体を使って「信じる」と訴えかけてくる。若者の美しいエネルギーをもらった。この点は幸いだが、東京では数々の生の合唱を聴く機会がある。今後は、合唱のコンサートに足繁く通いたいものである。また、合唱への理解を深めるため、詩人の谷川俊太郎氏、作曲家の松下耕氏、同じく作曲家の木下牧子氏の作品について、触れていきたい。

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真の練習場

 本日はプールで1,000m泳いだ後、ゴルフの打ちっ放し場でゴルフの練習をした。今月初めにコースに出て実地のゴルフの練習をしたので、今日の練習では、これまでにない「安定感」を感じた。
 ただ、思うに、ゴルフの真の練習場はコースだ。これは間違いない。もちろん、ゴルフの打ちっ放し場での練習はそれはそれで必要だが、うまくなりたければ、どんどんコースに出て実地の練習をすべきであろう。ゴルフ場経営にとっては大変だが、近年のデフレの影響で、プレー代が破格だ。こんなことでよいのだろうかと思うくらい安い。今後とも、実地の練習をしていこうと思う。ちなみに、本日の練習を経ての感想は、やはり、①グリップ、②フォームが重要だということだ。疲れてくると体が段々後ろのめりになってくるのだが、そうなると全くボールが飛ばなくなるのだ。
 ところで、この実地の練習。何かにも言えることではないだろうか。そう、仕事だ。もちろん、報酬を頂いてするのだから「練習」という概念を前面に出すわけにはいかないし、「練習」のつもりで仕事をしているわけではないが、ある仕事が終わってみると、様々な学びがある。どんな仕事でもだ。おお、個々の仕事が終わった後に、「学び」の書留をしておこう。
 仕事とは、このように、人生の学びととらえて取り組むと、面白いものだ。

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ゴルフから学ぶこと

 私は生まれてこのかた、球技に興味を持ったことがなかった。スポーツのセンスがなかったし、肥満体形だったしで、球技はむしろ苦痛だった。キャプテン翼が流行った時期、一応アディダスのキャップとハイソックスとシューズを着用したものの、それらは形だけであり、サッカーが好きだったわけではなかった。
 ゴルフに関してもしかりであった。上司との付き合いでコースに出たことはあるものの、走ってばかりで、ちっとも面白くなかった。ところが、今回のゴルフは違う気がする。今回ばかりは続く気がするのだ。結論から言うと、付き合いゴルフでのスコアが180であったのに対し、今回は157。数字が違う。
 これはそもそも、ゴルフをやることになった経緯と、仲間が違うのだ。まず、ゴルフをやる仲間は、それぞれ独立開業しているI会計士、N会計士、H会計士、A会計士だ。年上だし、会計士としても先輩だが、非常によくしてくれるし、いつもお世話になっている。まず、N会計士はサッカーが大好きであり、私をサッカー観戦に引き込んでくれたのも彼だ。N会計士は非常に社交的であり、仲間と時間を共有することを大事にしている。N会計士以外の方々もスポーツが好きだし、社交的で、紳士的だ。ゴルフそのものを学ぶというより、そうした、ゴルフをやることになった経緯と、プレーを通した時間の共有に、感謝である。
 私の備忘のために書いておくと、現時点では、①グリップ、②フォームが重要である。特にフォームは、足の親指に体重がかかる、要は前のめりになる位にすると、私の場合は調子がよい。あとは、3打目以降のアプローチだ。アプローチを練習しないと。

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サザンを聴くと湘南に行きたくなるのはなぜか。

夕方から一人ドライブしていた。葉山、逗子、鎌倉、茅ヶ崎と、湘南づくしだ。北の方に行こうと思ったが、『四六時中に好き〜と言って〜』というラジオを聴いたら、海が見たくなったのだ。
道は全く混雑しておらず、海辺を3,500回転・2速ホールドで、「フォ~~」っと流していた。殊のほか気持がよかった。
(今日は「思念」は無しです。)
葉山で撮った富士山の写真です。

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趣味について

 Wikiによると、趣味とは、『1.人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に、好んで習慣的に繰り返しおこなう事柄やその対象のこと。道楽ないしホビー(英:hobby)。 』とある。一方、『2.物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英:taste)。・・・。 』ともある。1.だとちょっと深度に欠ける感じがするが、2.を前提に1.であるとするならば、趣味とは、『ある対象の持つ味わい・趣きを鑑賞し、また、好んで習慣的に繰り返し行う、その対象である。』ということができるだろう。
 私の趣味の一つは古い車。最近は比較的に時間的余裕があったので、趣味実現の場でもありクライアントでもある某ガレージに入り浸ることが多かった。そこには、某ガレージ代表はもちろんのこと、かなり個性的な人たちが出入りする。ふら~っと来てはお茶を飲みながら、車談義や冗談を言って、笑いが絶えない。ただ、一つ言えるのは、その某ガレージに出入りする人たちは、『自分一人ピンの仕事を持ち、自分軸を持っている。』ということである。善し悪しの問題ではなくて、ほとんど自営業の人たちである。靴製造販売業、内装業、電気工事業等々、(もちろん他人の力は借りるが)自分の仕事を持ち、維持している。そして、その上で、古い車を趣味としている。なので、彼らの興味の対象は、車オンリーではない。時間をもてあまして車を流す、なんてことはしない。車はあくまで趣味。しかし、とても大切にしている。
 私がまだ会社勤めだった頃もこの某ガレージに出入りしていたが、実は、彼らに対し、一種の憧れがあった。「自由ほど厳しいものはない。」という言葉があるくらい、自営業は生易しいものではないだろう。いろいろな問題もあるだろう。しかし、某ガレージに来ると、なんだか生き生きとして見える。こうした人と人のつながりがあるのも趣味の一環である。趣味とは、人生を豊かにするものである。

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Fairlady その1

 本ブログのプロフィールにも記載しているが、私の趣味の1つは「古い車」である。理由を言葉で説明することは困難である。ただ、小さい頃、トンネル内で車のテールランプを見ただけで車名を言い当てられたし、数え切れないほどのミニカーを所有していたし、とにかく、古い車を見ただけでワクワクするのだから、よっぽど好きなのであろう。とにかく、音・見た目・匂いなどがたまらなくいいのである。

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「カントの人間学 」(講談社現代新書)を読んで

 ハーバード大学におけるカント哲学に関する講義のテレビ番組をたまたま観たことがきっかけで、カント哲学に興味を持った。どのような点に興味を持ったかというと、「道徳」に関する考察だ。例えば簡単に言うと、「修道院で修業し、禁欲的な生活をしていることは道徳的ではない。」という。つまり、「修道院の人たちはあらゆる俗世の誘惑を物理的に遮断し、その遮断されたところに身を置いているからこそ誘惑に乗らないだけであって、それは、俗世に実際に身を置いて、何らかの「義務」に基づき、誘惑に乗らないことを選択・実行しているのとは訳が違う。」というのである。換言すれば、その時々の感情に左右されず、何らかの「義務」に基づいて行動することこそ「道徳的」だというのである。「こいつは凄い。」と思った。
 早速、カント哲学に関する本を読んでみようと思い、Amazonで調べてみたところ、「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」などの著書が登場した。ところが、カスタマーレヴューをいくつか読んでみたところ、面白い記事があった。その記事は、カントの著書を読むとしても、カントがどのような人物かを知った上で読んだ方がよく、それにはまず、「カントの人間学 」(講談社現代新書)を読むのがよい、ということであった。
 本日読み終えた。電車の中だけで読んでいたので数日かかったが、面白い内容であった。まだカントの著書自体を読んでいないためあまり偉そうなことは言えないが、「人間は皆同じだ。」という気付きがあった。たしかに、カントの「道徳」に関する洞察は凄い。観念的で薄っぺらい精神論とは違って、行動が伴うことが要求される厳しさがあり、現実的であり、とにかく、洞察が鋭い。しかしながら一方で、カントは、「自分の世界」が最も大事であって、友人や女性を必要としなかったが、赤ちゃんの時と死ぬ時は、女性の愛情に包まれていたという。赤ちゃんの時に彼を包んでいたのは母親、死ぬ時に彼を包んでいたのは妹とのことであるが、それらの時、カントはとても幸せなひと時を過ごしていたという。
 さて、「人間は皆同じだ。」という気付きとは、つまり、どんな哲学者だろうが、どんな芸術家だろうが、どんな偉い経営者だろうが、「人」だということである。対外的には仮面をかぶる必要があり、また、その仮面はその人の重要な側面ではあるが、忘れてはならないのは、「人」だということである。つまり、喜怒哀楽があり、プライドがあり、お腹もすくし、時には「ほっ」としたくなる。幼少期・青年期の経験や家庭環境などが複雑だったりすると人格に少なからぬ負の影響を及ぼす代わりに、素晴らしい芸術作品や本を世に残したりする。どれも、「人」のなす技なのである。
 生きていると、大変なことだらけだ。例えば、常々「A」という「許せない」ことがあり、思い出せば悶々とする状況なのに、それにさらに追い打ちをかけるように「B」という痛い状況が起きたとする。その時は「やってられない。」と絶望するだろう。しかし、その後、「B」だけが気になることとして残り、「A」はどうでもよくなったりする。よく鍼の先生が言っていた。「いっぺんに体の複数の箇所が痛くならないんだよ。」と。
 「人」は皆同じだと思うことにするのがよいと思う。芸術家が芸術家たる理由が必ずある。平凡過ぎてつまらないと思う人がいれば、それはそれで良しとしよう。平凡だということは、とりたてて痛い出来事も起こっていないということだ。結局、「リスク(振れ幅)」の問題である。ある一つの問題に拘泥するのはよくない。「そんなことを言ったって、お前に私の気持ちがわかるか。」と言いたくなる気持ちも分かる。しかし、問題が生じた時、人は、深く悩むこともできるし、初めだけちょっと悩んでその後は悩まないこともできる。すべて自分の気持ち次第である。
 先ほど観たテレビ番組で、秋元康さんが言っていた。「両親とたくさん話をしなさい、たくさん過ごしなさい。両親が最大のアドバイザーだ。」と。それを受けて、このBLOGとつなげると、「両親こそ、自分にとっての最大の哲学者かもしれない。」ということだ。もちろん、今後とも、カントの著書等、本は読んでたくさん勉強していこうと思うが、勉強する目的は人生を豊かにするためだ。そして、人生とは、現実社会を生きることに他ならない。決して、前世・来世のために生きているのではない。世の中がどんなに荒んでいようが、今現在の自分の状況がどんなにつらかろうが、今ここにある「現実」を生きるしかない。つらい出来事が起こった時、それを世の中のせいにしたり、自分を顧みず他人のせいにしたり、さらにはスピリチュアルな世界に逃げる人がいるが、本末転倒である。事の発端は「人」、他ならぬ「自分」だと思った方がよい。そして、いつまでもくよくよせず、次に活かして前に進むのがよい。
 長くなったが、このように、本、テレビ番組、インターネット等々どれをとっても、勉強になることばかりだ。人生は面白い。人生は捨てたものではない。

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St. Valentine’s Day

 バレンタインデー、あるいはセントバレンタインデー(St. Valentine’s Day)は、2月14日に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる。もともと、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが、これは主に西方教会の広がる地域における伝承である。聖ウァレンティヌスを崇敬する正教会の広がる地域では、西欧文化の影響を受けるまでこのような習慣はなかった。
 バレンタインといえば、高校生時代の国語教師(以下「I氏」とする)の言葉を思い出さざるを得ない。I氏の授業は、65分の授業のうち半分以上が「雑感」で占められ、後半になってやっと、しかし、うまい具合に、本論(国語の授業)に入っていく。バレンタインデーに、男子生徒に向けて、常々I氏が言っていたことがある。「バレンタインデーにチョコがほしかったら、まずはホワイトデーに女性にプレゼントをあげろ。一年がかりだ。そうすれば、うまく循環ができてくるはずだ。」と。説得力のあるようなないような、という感じであったが、I氏は素晴らしい引き出しをたくさん持っている。
 その引き出しの一つを紹介する。授業でI氏は、ユーミンの以下の歌詞を取り上げた。
  あなたを思い出す この店に来るたび
  坂を上って今日も 一人来てしまった
  山手のドルフィンは 静かなレストラン
  晴れた午後には遠く 三浦岬も見える
  ソーダ水の中を 貨物船が通る
  小さなアワも恋のように 消えていった
 I氏は、「ソーダ水の中を貨物船が通る」の歌詞に興味を覚え、どうしてもその意味を知りたくなり、遠路車を走らせ、ドルフィンに行ったそうだ。当然のことながらソーダ水(ドルフィンソーダ)を注文したが、まだ歌詞の意味がわからない。しかし、ふと、テーブルに頬杖をついてみたところ、なんと、ソーダ水の中を貨物船が通ったそうだ。以上を受けてI氏の本論(授業)で言っていたことは、「『詩の背景』を想像してみなさい。」ということだ。「この歌詞の主人公は、頬杖をついて、憂鬱な気持ちでドルフィンで過ごしていたのだろう。」ということだ。「『ソーダ水の中を貨物船が通る』という言葉だけでそういった背景を表現してしまうユーミンはすごい。」とI氏が言っていた。
 I氏、あなたの行動力と感性もすごい。失礼かもしれないが、黒板に物理教師の似顔絵を描くは、65分の授業のすべてを「雑感」で終わらせるはで、(いい意味で)相当の不良教師であった。

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パシュミナ

 パシュミナは、カシミヤ繊維等を糸に紡ぎ、織り上げた、ネパールやインドで伝統的に作られてきたストール・ショールおよびその素材を指す。非常に弱い糸から生地を織り上げるため、インドでは「DIVINE WEAVE」と言われている。 ネパールでは経糸にシルクを使用して織り上げたストールが主になる。一般的なカシミヤストールは、カシミヤ繊維の持つ縮充性を利用してフェルト化させた生地を用いるが、パシュミナストールは、カシミヤ繊維を糸に紡ぎ、織り上げるため、生地が薄く、光沢感が高いと言う特徴を持つ。 近年、そのファッション性の高さから、欧米や日本等の先進国を中心に流行したため、それらの地域ではパシュミナという名称が一般化された。パシュミナストールの素材もまたパシュミナと呼ばれる。伝統的には、パシュミナはヒマラヤ山脈に生息するカシミヤ山羊およびその近似種から採取された素材とされているが、明確な定義が無いため、現在はパシュミナ素材からではないものまでパシュミナとして販売されていることがある。
 「パシュミナ」とは、「パシュミナ・ストール」のことを指すとこれまで認識していたが、上記のように、「パシュミナ素材」のことも意味するということは知らなかった。サイゴンのある店であるパシュミナを手に取り、「この素材はなに?」と店員に質問したところ、「パシュミナ!」と言うから、「う~ん、話がかみ合っていないなあ。」と思ったものだが、そういうことだったのだ。
 そういえば、大学生の頃、冬に開催された合コンで、誇らしげにパシュミナを自慢している女性がいたのを記憶しているが、彼女は今頃、どこで何をしているのだろうか。

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伊藤博文

 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) – 明治42年(1909年10月26日)は、日本の幕末の長州藩士、明治時代の政治家。初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣。元老。
 伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。
 明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
 ただし、日本では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている。また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。
 本日のスーパーモーニング(テレビ朝日、08:00~09:55)で伊藤博文の暗殺について取り上げられていた。常々思うのだが、このスーパーモーニングは、ニュース番組の中で唯一、深度のあるニュース番組だろう。勝手な憶測だが、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんの指導があるのだと思っている。日本経済の不況により、テレビ番組の製作費も削られていると聞くが、それ以前に、ニュース番組には「So what?」という内容のものがほとんどである。確かに、世界各地で起こった様々な事件を伝えること自体に価値はあるが、情報の垂れ流しに終始している番組が多くはないだろうか。その事件を伝えることで何を伝えたいのか。いや、キャスターの気のきいたコメントがほしいといっているのではない。そんなものはほしくない。そうではなく、スーパーモーニングの特集のように、「どのような観点から、どのような所に切り込んでいるか、何を伝えたいか」がはっきりしないと、インターネットが発達し、情報の非対称性が小さくなりつつある現在においては、ジャーナリズムの意味が薄れてしまうように思える。

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Bảo Đại

 バオ・ダイ(ベトナム語:Bảo Đại、漢字:保大、1913年10月22日 – 1997年7月30日)は、ベトナム阮朝第13代にして、ベトナム最後の皇帝。諱は福晪(晪は日偏に典)。バオ・ダイは治世の元号である保大に由来し、保大帝とも称される。
 1913年10月22日に生まれ、当初諱を阮福永瑞(グエン・フク・ヴィン・トゥイ、Nguyễn Phúc Vĩnh Thụy)といった。フランスで教育を受け、父親である啓定帝が1925年11月6日に崩御するまで宗主国のフランスに住んでいた。1926年1月8日に皇帝に即位し、年号を「保大」としたが、すぐフランスへ戻り、しばらく留まった。バオ・ダイはその治世に、ベトナムの完全独立を許可するようフランスを説得し、改革のために委員会を確立した。1934年には、カトリック教徒で南ベトナム出身の阮友蘭(南芳皇后、ナム・フォン、Nam Phương)と結婚する。
 第二次世界大戦末期の1945年3月には、前年のヴィシー政権崩壊に伴い日本軍がフランス軍を制圧したのを機にベトナム帝国の君主となりフランスからの独立を宣言した。当時の日本軍人の中には、日本へ亡命中の畿外侯彊柢(クォン・デ、Cường Để)をベトナム帝国皇帝に推す者も少なくなかったが、南方総軍や第38軍はベトナム新政権へ不干渉の方針で、「軍政も敷かない」「親日政権への改編もしない」ことを既に決定していたため、バオ・ダイは栄えある独立ベトナム最初の元首の地位を手にした。
 1945年9月2日には、日本軍が敗北してベトミン(Việt Minh、越盟)がベトナム全土を席巻したが、この時にバオ・ダイは退位へ追い込まれた。その後、ハノイ(Hà Nội、河内)でベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)が成立すると、バオ・ダイはホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh、胡志明)によって新政府の「最高顧問」に任命される。しかし、公式の外交代表団の一員として訪中時に亡命、1946年にはイギリスの植民地の香港へ移った。
 1949年にはフランスの支援で、南ベトナムに樹立されたベトナム国(Quốc gia Việt Nam)の元首(Quốc Trưởng、国長)としてベトナムに帰国後、1954年のジュネーヴ会議によって正式にベトナム国元首となった。バオ・ダイは、ゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm、呉廷琰)を首相に指名した。しかし、翌1955年ゴ・ディン・ジェムは国民投票を実施してベトナム国を共和制へと移行させ、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng hòa)が成立すると大統領に就任した。
 バオ・ダイは退任を余儀なくされ、パリへ亡命した。その後はベトナムへ帰国せずにカンヌ付近で余生を送り、1997年7月30日にパリの陸軍病院で死去した。
 さすが、お洒落で、独特の雰囲気がありますね。立場上、時代に翻弄されてしまった面がありますが、彼の人生の本当のところは彼にしか分かりません。不幸かどうかだったなんて、他人が判断できるものではありません。

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フェアレディ2000(SR311)

 ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカー。フェアレディZの源流である。
 1967年3月 「フェアレディ1600」に追加されるかたちで「フェアレディ2000」(SR311型)発売。直列4気筒SOHC U20型エンジン(1982cc 145ps/6000rpm)と、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載、発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなった。「フェアレディ」の完成形と後に賞賛されるモデルとなる。ちなみにテレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
✓1967年5月 「第4回日本グランプリ」GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
✓1967年11月 ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。趣味の上では、3月から10月までのモデルは「ロースクリーン」、11月以降のものは「ハイスクリーン」と呼ばれ、区別されている。
✓1968年5月 「第5回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が1-2-3フィニッシュを飾る。
✓1968年7月 SP / SR共に、ソフトトップを持たない、ハードトップモデルを追加。
✓1968年8月 「第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GTS-Ⅱクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
✓1968年11月 ステアリングギアボックス、マフラー、ワイパー、ライセンスプレートランプ、テールランプなどを変更。
✓1969年1月 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79(Raimo Kossila / Pertti Mannonen組)と、同44(Risto Virtapuro / Charles Lindholm組)の二台の「ハイスクリーン」タイプのSPL311でエントリー。
✓1969年10月 「第6回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
✓1969年 後継車種「S30型系フェアレディZ」を発表。
✓1970年生産終了。
 このSP/SRシリーズの最初の車は、フェアレディ1500(右写真)という、どちらかというと優雅な感じのオープンカーでした。右の広告写真をみてもわかるように、女性が一緒に写っており、レースを意識したフェアレディ2000とは異なり、優雅な印象を受けます。上の筆者の愛車はフェアレディ2000であり、前オーナーの趣向によりかなりレーシーな車でした。昨年夏に訳あって手放し、その後再び他のフェアレディ2000を購入し、現在レストア中です。なお、上記のとおり、昭和42年式(通称「ヨンニー」)とそれ以降とでは、特に見た目が大きく変わってしまいました(上記赤字部分参照)。マニアの間ではヨンニーが人気であり、私もやっとのことで再びヨンニーを見つけました。こればかりは御縁なので、ほんと大変なんですよ。
 しかし、なぜこんな古い車に乗るのだろうと、たまにふと考えることがありますが、「理由はなく、いいものはいい。たまらなくいい。」というのが理由です。

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Sài Gòn

 ホーチミン市(越:Thành phố Hồ Chí Minh/城舗胡志明?、英語:Ho Chi Minh City)は、ベトナム最大の都市であり、インドシナ半島有数の世界都市。人物のホー・チ・ミンと区別するため、ホーチミン市またはホーチミンシティと呼ぶ。旧名はサイゴン(越:Sài Gòn/柴棍、中:西貢)で、旧南ベトナムの首都であった。地元住民や旅行者の間ではホーチミン市ではなく現在でもサイゴンという呼称が使われる場合が多い。但し現在のホーチミン市は、チョロンなどの旧サイゴン近隣の町を含めた広域の都市名であり、サイゴンをホーチミン市の中心部(旧サイゴン市の市域)というニュアンスで解釈される場合もある。首都ハノイがベトナムの政治の中心なら、ホーチミン市は経済の中心である。
 何かご縁があるのだろう、今月で10回目の訪越である。いつもSAIGONに滞在するが、HANOIに行くこともある。暗中模索、七転八起、試行錯誤、一進一退といった四字熟語がぴったりの10ヶ月間であったが、中央教会近くの公園のベンチに横になって空を見上げると、木々の葉が強い太陽光線を遮り、青い空と緑の葉とがコントラストをなし、幸せな気分に浸ることができる。こういう時こそ、自分の進路について考えるときであるのが分かっている。ポジティブになれるからだ。「ああ、この歴史あるSAIGON、東洋のパリと呼ばれたSAIGONに、今こうして居るのだなあ。なぜなのだろう。小さくとも1つの世界を作る、自分のファンとも呼べるお客様を作るというのは、容易なことではない。まず、1つの分野を見つけること自体が難しい。『自分はこの道で行くのだと自己暗示が必要』とまで言う人もいる。自分は、おそらく、このSAIGONとしばらくかかわるべきだな。」などと、考えるのであった。

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大日本帝國

 大日本帝国(だいにっぽんていこく / だいにほんていこく、旧字体: 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。
 「日本」に「大」と「帝國」が付くと、それだけで「立派」な印象を受ける。それにしても、明治維新後15年弱で憲法を発布し近代化を推進したそのスピードとパワーには感服する。「日本人の意思決定は遅い」などと言われることがあるが、いつからそうなったのでしょうか。

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南洋群島

 南洋諸島(なんようしょとう)は、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々のうち、かつて日本が国際連盟によって委任統治を託された、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦の事を指す。日本政府は南洋群島(なんようぐんとう)と呼称した。
19世紀に弱体化したスペインがグアムを除いた大部分をドイツ帝国に売却する。
1914年 – 第一次世界大戦勃発。大日本帝国参戦、海軍がドイツ要塞を次々に攻略して占領。
1918年 – ドイツ帝国が革命によって停戦。
1920年 – ヴェルサイユ条約によって、国際連盟の委任統治領として、グアムを除く赤道以北を日本に託す。以後、日本は南洋庁を置いて統治を進める。社会基盤を整備したほか、先住民に対しても学校教育を行った。また沖縄県を中心に日本人が多数移住する。南洋拓殖株式会社などが次々に殖産し、砂糖などを日本へ輸出して、貿易は黒字であった。
1935年 – 日本が国際連盟を脱退。南洋諸島を自国領に編入し、台湾・朝鮮などと同様に外地として統治を続ける。
1941年 – 9月24日パラオ放送局、放送開始(短波10kW)。12月8日太平洋戦争が勃発。
1944年 – 米軍の大攻勢が始まり、マーシャル諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島の一部の島が米軍の占領下に置かれる。
1945年 – 日本が降伏する。
 現在も、パラオの年輩の方は日本語を話し、親日的だと言われている。樺太についても言えることだが、善い・悪いは別にして、当時の日本は、ある意味、現在よりもグローバル化していたのではないかと思われる。当時の日本人たちの「視野」の広さは、現在のそれと比べてどうだったのだろうか。海外を意識するほど日本を意識し、視野が広くなるような気がするが。

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樺太庁

 樺太庁(からふとちょう、ロシア語: Южный Сахалин、英語: Karafuto Prefecture)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。
 歴史を遡っていくと、そもそも、樺太はどの国に固有の領土だったのだろうか。歴史の中では、日本とロシアが領有権を争うか交換するかをしているが、南樺太には、「残留ロシア人(ざんりゅうロシアじん)」といって、ポーツマス条約によりロシア帝国から大日本帝国に編入された南樺太に、そのまま残留し続けた元ロシア帝国国民のうち、元からの先住民族を除く者を指す者が住んでいたようである。南樺太は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約により日本に割譲された。それまで住んでいたロシア国民は、そのまま残留するか、北サハリンやロシア本土に引き揚げるか二者択一を迫られた。大半の住民は引き揚げを選んだが、少数の者は残留を選んだ。これが樺太における残留ロシア人の起源である。残留ロシア人は財産権が保証されたため、これまで通りの生活を送ることができた。彼らの多くは自家製のパンを焼き、それを「ロシアパン」と名づけて駅前で販売していた。このロシアパンは当時の樺太土産として知られており、ロシアパンの売り声は樺太の風物詩であった。やがて残留ロシア人は日本人社会と溶け込むようになり、日本人経営の企業や商店に勤務する者を現れた。中にはマルキャン・ボリシコのように日本人女性を妻とし、牧場を経営して日本人を雇うほどの名士も出現した。
 しかしながら、日本人とロシア人が同じ土地に共存するなど、現在では考えられない。ロシアパンの売り声が風物詩?一体どういうことなのだろうか。実は、戦前の日本人は、今よりグローバル化しており、排他性が低く、環境適応能力が高かったのではないだろうか。我々は、歴史の一側面しか見ていないのではないだろうか。どなたか、バランス良く歴史を教えて頂きたい。

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