芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

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幸福論①

 社会人になってから、「幸せ」とは何かを意識するようになった。以前は、「幸せ」とは、どこか遠くにあるもので、常に追い求めていないと手に入らないものだと思い込んでいたが、最近は、身近にあるものに感謝したり、今充足されているものに満足したり、と、要するに、現時点の自分の状況を肯定的に受け入れられることをもって、「幸せ」だと解釈していた。もっと言うと、そのような幸せが「唯一」の「幸せ」であると考えていた。
 ところが、昨晩、ある最も近しい人物と「幸福論」を展開していたところ、上記の「幸せ」(以下、「幸せ①」という)は確かに大切だが、「幸せ」は「それだけではない」という。どういうことかと説明を求めると、上記の「幸せ①」は自分だけに関する概念であり、「他者」が介在していないから「それだけではない」という。つまり、「幸せ①」がある程度充足されたら、今度は、「他者」をも「幸せ」にすることも考慮に入れた「幸せ」(以下、「幸せ②」という)考える必要があるということだ。なるほど、人間は成長する必要があると考えるならば、「幸せ②」は必要だ。「幸せ②」を目指して、他者と切磋琢磨し、自分を高め、その結果として到達した「幸せ」は、素晴らしい。
 以上をまとめると、「現状を肯定的に受け入れつつ(「幸せ①」)、他者を意識したさらなる高み(「幸せ②」)を目指す。」ということだろう。
 そういえば、高校生の時の担任が常々、「小さくまとまるなよ。」と言っていたのを思い出す。

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うざい

 うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。1980年代のツッパリブームから関東圏を中心に使われるようになり、1990年代には不良以外にも使われ、全国的に普及する。うざいが更に簡略化された『うざ』や、うざいの語感が荒くなった『うぜー(うぜえ)』という言い方もある。
 ある対象を「うざい」と感じるか否かは、人それぞれであろう。また、感じる人その人の状態によっても、「うざい」と感じるか否かが違ってくると思う。例えば、ベトナム滞在中に街を歩いている時を想定すると、自分がほとほと疲れているときには、縦横無尽に走り回るバイクの群衆に対して「うざい」と感じる。やつら全員が敵に思えるくらいだ。一方、自分が何かに満ち足りていて状態の良い時には、それらを「うざい」とは思わない。むしろ、彼ら全員が自分の味方のような気がする。
 
 また、最近はいい意味で自分のことを「うざい」と言ってくれる人になかなか出会えない。自分を過大評価する意味ではないが、いい意味で「うざい」と感じられるかどうかは、その人の「観察力」にかかっていると思われる。したがって、「ただ単に(悪い意味で)うざい」というのでは、「観察力」はまだまだだろう。私自身に観察力があるということをここで言いたいわけではないが、私はいい意味で「うざい」人が好きである。特に、「オタク」と言われる人々が、(気持ち悪くなければ)好きである。「オタク」は凄いものを持っている。誰にも負けない何かを持っているからだ。
 人に不快感を与えたくはないが、いい意味で「うざい」と思われる存在でありたいと思っている。

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自然

 先日、ぼんやりとテレビを見ていたら、永平寺第78代貫首宮崎亦保禅師(故人)が物凄く強烈なお言葉を仰っていたので、思わず聞き入ってしまった。概要は以下の通りである。
人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、
褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。
それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 106歳でお亡くなりになった先生(自然と「先生」という言葉が出てきます)の104歳の時のお言葉だったと記憶している。親を亡くして15歳の時に寺に引き取られ、それ以来、禅の道を歩んでこられたそうだ。「平気で生きる。」とは、おそらく、「日々の生活を淡々と生きる。」ということだと解されるが、そのこと自体に意味があるということなのだろう。なんとも、深いお言葉である。

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団塊の世代

 団塊の世代(だんかいのせだい)とは、第二次世界大戦直後の日本において、1947年から1949年までのベビーブームに生まれた世代である。戦後第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。第二次世界大戦後の日本の歩みと人生を共にしており、現在の日本は彼らがあってこそのものである。ただ、明治・大正世代の人間の教育を受けていること、またその特異な人口構成ゆえに、良くも悪くも日本社会の形成に大きな影響を及ぼしている世代である。
 私は、団塊の世代の子供であるので、どうしても団塊の世代について考えざるを得ない。戦後の日本を支えてきたこと、彼らがいるから現在の我々がいること、現在もバリバリ現役の経営者で自分のお客様であること、彼らが引退した後に果たしてバトンタッチができているか等々、話題に尽きない。今後とも、折を見て触れていきたいと考えている。いずれにせよ一つ言えることは、数十年間一生懸命働き、家庭を維持し、子供を育て上げたということだけで、立派である。

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年賀状

 年賀状(ねんがじょう)とは新年に送られる郵便葉書やカードを用いた挨拶状のことである。新年を祝う言葉を以ってあいさつし、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを添えることが多い。親しい相手への場合などには近況を添える。日本では多く取り交わされ、日本に近い韓国、中国、台湾にも似た風習がある。欧米などではクリスマス・カードで新年の挨拶も済ませてしまうので、年賀状の文化はない。
 1年以内に不幸(親族の死去)のあった家からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を遠慮する」旨の葉書を出すことがある。喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀の挨拶ができなくて申し訳ありません」という意味だからである(昨今では喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もいる。一般的には寒中御見舞いのはがきを出すことが多い)。
 今年2月に独立開業し、お世話になったほぼ全ての方々へ年賀状を出すこととしたため、年賀状の数は例年の4倍程度となった。自分自身が戴いて嬉しい年賀状は、「その人らしい気持ち」が伝わってくる年賀状であるため、出すのが遅くなっても、あえて手作りにした。電子メールが発達した今日でも、この手間をかけた作業を大事にしたい。むしろ、「手間をかけて年賀状を作る時間があるということに感謝をするべきである。」と思いつつ、年賀状を作成した。

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Bonnie and Clyde

 ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカー(Bonnie Parker、1910年10月1日 – 1934年5月23日)とクライド・バロウ(Clyde Barrow、1909年3月24日 – 1934年5月23日)からなるカップルである。ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。後にボニーとクライドの犯罪は何度か映画化された。
 仲間を次々失いながら逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路で、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州の警官2名によって、150発を超える銃撃を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて射殺された。
 右写真は、『俺たちに明日はない』 – Bonnie and Clyde (1967) でBonnie Parkerを演じるFaye Dunaway(フェイ・ダナウェイ、1941年1月14日 – 、本名ドロシー・フェイ・ダナウェイ(Dorothy Faye Dunaway))。「Bonnie and Clyde」を描いた映画はいくつかあるようだが、私が忘れられないのは、Faye Dunawayが演じるBonnie Parkerだ。こればかりは好みだが、Faye Dunawayがたまらなく素敵である。顔の表情、しぐさのすべてが、素敵である。
 常々思うのだが、1930年代のアメリカには、美学があったような気がする。街並、ファッション、音楽、大衆文化など、いまだに色褪せないものが多い。「前世」という概念を信じるならば、私は、前世は1930年代のアメリカにいたような気がする。たまらなく懐かしい感じがするからだ。

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NAT KING COLE

 ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 – 1965年2月15日)はアメリカアラバマ州モンゴメリー生まれのジャズ・ピアニスト・歌手。本名:ナサニエル・コール(Nathaniel Adams Coles)、「キング」は愛称。アラバマ州モンゴメリーで生まれ、教会オルガン奏者の母のペリーナから12歳までオルガンを習っていた。1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年に結成したトリオ「Nat King Cole Trio」での活動は有名。 ビッグバンドの時代におけるコールのピアノ、ギター、ベースからなる編成は革新的で、ジャズトリオのスタイルの流行となった。その間、艶のある声を買われて歌手としても活動するに至った。数回の来日経験があり、東京都赤坂の高級キャバレー「ニューラテンクォーター」でのライブショーを行っている。コールは1日にクール(KOOL)を3箱も吸うヘビースモーカーで、コール自身は「タバコは声を低音にする」と信じていた。しかし、歌手としてまだ絶頂時の1965年2月15日に、サンタモニカの病院で肺ガンにより逝去した。
 私が中学1年生の時、当時流行りの「コンポ」を買ってもらった。三菱電機に勤めていた伯父を介して購入したのだが、その伯父が大の音楽好き、しかも戦後の日本人が憧れていたアメリカ音楽が大好きで、コンポ購入と同時に、様々なレコードを貸してくれた。その中でも最も大きな影響を受けたのが、「NAT KING COLE」であった。どの歌も大好きになり、何度も何度も聴いた。高校生のときは、周りの友人がハードロックに酔いしれている中、私はJAZZ BALLADが大好きで、カラオケでもそれを歌おうとするのだが、周りの友人にとっては、「犬が餌を『待て』の状態にされている」が如く耐え難かったらしく、歌っている途中で何度も演奏停止をくらった。
 音楽に関しては、というか、あらゆる面において、周りの友人に迎合することなく「自分らしさ」を通してきたわけであり、数々の衝突もあったが、今ではむしろそれでよかったと思っている。いまだにNAT KING COLEが好きである。

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平岡定太郎

 平岡定太郎(ひらおか ていたろう、文久3年(1863年)6月4日 – 昭和17年(1942年)8月26日)は日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。
 文久3年(1863年)06月 – 播磨国印南郡志方村(現在の兵庫県加古川市志方町上富木)に農民太吉、つるの次男として生まれた。もともと平岡家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だったが、父太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという。神戸の漢学塾・乾行義塾、御影師範学校(現・神戸大学)、二松学舎、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京大学予備門(現・東京大学教養学部)等を経て、
 
明治25年(1892年)07月 – 東京帝国大学法科大学卒業。内務省試補・庶務局。
明治26年(1893年)11月 – 徳島県参事官。
明治28年(1895年)05月 – 栃木県警部長。
明治29年(1896年)12月 – 衆議院書記官。
明治30年(1897年)07月 – 衆議院書記官兼内務省参事官。
明治31年(1898年)04月 – 内務省参事官兼内務事務官。12月 – 広島県書記官。
明治33年(1900年)01月 – 宮城県書記官。
明治37年(1904年)11月 – 大阪府内務部長。
明治38年(1905年)04月 – 大阪府第一部長。
明治39年(1906年)07月 – 福島県知事に就任。
明治41年(1908年)06月 – 樺太庁長官に就任。
大正03年(1914年)06月 – 辞職。
大正04年(1915年)03月 – 横領罪で起訴。
大正05年(1916年)05月 – 無罪判決。
大正09年(1920年)10月 – 東京市道路局長。
昭和09年(1934年)05月 – 詐欺容疑により逮捕される。07月 – 不起訴。
昭和17年(1942年)08月26日 – 死去。
 赤字部分の6年間が空白であるが、ある研究者によると、政党政治を推進していた原敬の政治資金を調達するため、大陸(中国、満州)で麻薬取引等に関与していた模様である。いずれにせよ、非常に優秀な官僚であり、若くして樺太庁長官に抜擢され、そして失脚し、闇社会で暗躍した。波乱万丈な人生であったに違いない。当時、南樺太は日本領、北樺太はソヴィエト領であった。当時の樺太経営はどうなっていたのか。

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三島由紀夫

 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日~1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた。私が記載するまでもなく、彼の作品は素晴らしく、美意識も相当程度に高い。また、彼の英語力も相当程度に高く、特に、語彙が豊富であるとの印象を受けた。また、ボディビルでも有名だが、そのことは、「セルフ・コンントロール能力」が高いことも意味している。とにかく、「優秀」である。
 それでは、「なぜ彼ほどの優秀な人間が自殺したか。」について軽く考えたい。私なりの結論は、「究極の我に入っていた。」ということである。つまり、「愛の欠落」である。彼の成育歴を調べてみると、彼は通常レベルの両親からの愛情を受けておらず、むしろ、祖母などから通常レベルを超えて抑圧されていたと考えられる。そういった人間は、自分のプラス面もマイナス面も、手放しで受け入れることができず、世の中に対してもネガティブな目で見てしまう傾向がある。真実は本人にしか分からないが、現時点の自分を自分自身が受け入れられなかったり、世の中が自分の理想とあまりにも違ったりで、寂しかったのだろうと察する。 
 三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)の父親は、平岡梓(ひらおかあずさ、明治27年(1895年)10月12日 – 昭和51(1976年)12月16日)、日本の農商務官僚)。梓は、父平岡定太郎の影響で、「消極的ニヒリスト」であったと言われている。消極的ニヒリストに育てられた子供はどうなるだろうか。

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Saigon 09

ベトナムの仕事を始めて9ヶ月。旅行気分は全く無い。

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Saigon 08

サイゴンとハノイに顧客ができた。

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Saigon 07

リーマン・ショック。

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Saigon 06

早いもので、東京とサイゴンとを行き来して半年になる。

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Saigon 05

日本の夏が暑い以上に、サイゴンの夏は暑い。

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Saigon 04

いつまでも旅行気分でいたわけではない。

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Saigon 03

サイゴンに部屋を借りた。

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Saigon 02

ベトナムの首都はハノイ市、商都はホーチミン市。

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Saigon 01

独立した日の属する月の翌月である。

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会計士EBJとは?

 「EBJ」という文字は、僕の会計人としての原点です。
 監査法人に所属していた時に、監査調書に作成者としてのサインをするのですが、作成者のイニシャルや略称などをサインとするのが一般的でした。
 僕の場合は、「えばじゅん」というニックネームが稀にあったので、「えばじゅん」を英語表記した場合の「EBAJUN」を「E」「BA」「JUN」に分解し、その頭文字である「E」「B」「J」を合わせた「EBJ」を監査調書のサインとしていました。
 すると、先輩会計士の中に、私のことを「イービージェー」と親しみをもって呼んで下さる方々が現れ、僕もその呼称がまんざらでもなくなり、いつしか気に入っていました。今では、仕事道具の鞄に「EBJ」のイニシャルを彫っているほどです。

 そこで、このブログを始める際、当初は匿名でやることにしたので、その主体を「会計士EBJ」としました。
 また、「うざい」と形容した理由は、「うざい」という形容が僕に対する最大の賛辞と捉えているからです。
 すなわち、僕の関係者の中には、折を見て、僕のことを「うざい」と形容する方々がいらっしゃいますが、‘ネガティブな意味で’本当にうざいと思っていたらとっくの昔に関係が終わっているわけであり、うざいと言いながらも関係を続けてくださってのは、決して自惚れるわけではなく、何かしら‘関係を続ける理由’があるからではないか、と考えているのです。
 要は、ニックネームにしろ、僕の形容にしろ、すべて気に入っています。すべてのご縁に感謝してます。今後とも「会計士EBJ」をよろしくお願い申し上げます。

※2009年02月14日は、前職の有給休暇消化期間最終日の翌日であり、当該日を江幡公認会計士税理士事務所の創立日と定めたものである。

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はじめに

 公認会計士という職業柄、「なにそれ? どういう人? どうして?」の繰り返しであった。ある意味、女性はそうした理詰めの質問に弱いので、「なにそれ? どういう人? どうして?」を妻とのコミュニケーションにおいて連発するあまり、家庭が戦場と化したこともある。
 しかしながら、「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスは、物事を総合的に理解し、一定の結論を出す上で必要不可欠である。これは仕事に限らない。例えば、いま自分が太っているとする。なぜ太っているのか。この問いに対する表面的かつ一面的回答は、「食べすぎ」かもしれない。しかし、「食べ過ぎないようにする」とか「食事を抜く」といったことをすれば解決するのかといえば、そうでない。「なぜ食べ過ぎるか。」が重要である。そこには、必ず「ストレス」の問題がある。じゃあ、そのストレスは何か。仕事か、家庭か、人間関係か。そもそも、なぜストレスに感じるのか。自分の体一つとっても、調べることはたくさんある。
 さて、私は公認会計士という職業もさることながら、幼少の頃から現在に至るまで、「うざい」と言われるほどの、こだわりというか、変な引き出しを持っているようだ。この際、この引き出しを公開し、皆様の何らかのお役に立てないかと考えている。私自身、「世の中に無駄はない」と考えている。「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスで考えれば、無駄でないことが分かる。「原因と結果の法則」「すべては必然」「魂」「輪廻転生」等々様々な言葉があるが、すべての人間の営みは人間に帰結すると思っている。
 なお、深度ある記載をしたいと考えているが、私自身、勉強不足や経験不足があるため、深度が甘い場合はご容赦頂きたい。深度が甘い場合、「優しく」コメントして頂けると幸いである。 また、インターネットの発展に尽力された方々に深く感謝する。

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