芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

学校とは

 福沢先生によると、「学校は人に物を教うる所にあらず,ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず,よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして,能力の発育にあり……。我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。」とのことである。私自身、福沢先生とは別のところで、「教育」という言葉は「Education」の本質を表していない、ということを知ったのだが、確かにそうかもしれない。
 空が暗くなりかけた夏の夜に、母校のキャンパスに行った。夏休みのためか、人は疎らで、ゴミ一つ落ちておらず、整然としていた。新築の近代的な校舎はモダンで、学生には堪能できない粋な場所もある。その粋な場所で、大学時代のゼミの恩師T教授と待ち合わせをした。思えば、自分は恩師に恵まれてきた。正確に言うと、小学生時代はあまり恵まれていないのだが、基本的に恵まれているのだ。とりわけ、高等学校・大学では、素晴らしい恩師に出会うことができた。
 T教授には、授業やゼミはもちろんのこと、論文(卒論ではない)のご指導まで頂き、大変感謝しているのだが、自分にとって一番ありがたいのは、「自分のことをよく知ってくださっている。」ということだ。今回お会いして話をした中での私にとってのキーワードは、「自分の○○な面を認識すること」「自分が正しいと思わないこと」「自分はspecialで異常だと思うこと」「自分の考えを他人に押し付けないこと」「上から目線」「下から目線」等々。もっと凄いのは、T教授によると、「君は、自分が『Xである』ということに気付いていない。仮に『Xである』ということに気付き、悩んだとしても、心の底から『Xである』ことをやめようとは思っていないので、ずっと『Xである』ままでしょう。それが君だ。」と。そこで、上記のキーワードが必要となるのだ。
 深い・・・。
 「ある物事についてあれこれ思いを巡らせても仕方がない。自分自身を知ることが最も大切なことだ。自分自身を知ったら、その知った自分をもって、人と接することだ。」という結論を、自分なりに出しました。

EBJ

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