2011年3月20日
クララの気持ち~アルプスの少女ハイジ~
TOKYO MXテレビで「アルプスの少女ハイジ」の再放送をやっている。たまに観ているのだが、アルプスの少女ハイジの1話1話は実に奥が深いということが分かった。山で暮らす少女の単なる描写ではない。番組の中で、どこそこに行く、誰誰に会う、というのは単なる入口に過ぎず、その時々でその日のメインキャストがどのような想いであったか、どのような気付きがあったのか、ということを伝えているのだ。
本日のハイジでは、話の入り口は、クララが、ハイジとペーターと山の棚岩に行くというものであった。もちろんそこにもドラマがあるのだが、本日一番のドラマは、最後の頃、クララがハイジとペーターのおばあさんに会いに行った時の話であった。ペーターのおばあさんは目が見えないので、クララが本を読み聞かせていたのだが、読後に、おばあさんが、クララに感謝の気持ちを述べたのであった。気持ちがとてもこもっていて、天使の声のようだ、ありがとうと。すると、一瞬クララは暗い顔をして黙ってしまったのだが、それは大きな気付きがあったからだった。
クララは病気で車いす生活をしていて、普段はたくさんの人に迷惑をかけているという負い目を感じていたのだ。ところが、ここ山の生活では、クララにとってしてみればただ単に本を読み聞かせただけなのに、そのことを褒めてくれ、感謝してくれる人がいる。つまり、クララは、普段は人の世話にばかりなっている自分も、人の役に立てるということに気付いたのである。おばあさんから礼を言われると、クララは涙を流しながら、おばあさんの手を握り、何度も何度も礼を言うのである。
この大震災がなければ演奏会に出場するはずであった宮城のある中学校の合唱団が、被災者のために歌を歌った。「明日さえあれば生きていける」という主旨の歌詞の歌であったが、その歌を、被災者は涙を流しながら、嗚咽しながら聴き入っていた。
私には、クララの涙と被災者の涙に何らかの共通点を見出した。生きていると泣けてくることがある。ただ、悲しいとか嬉しいとか唯一の理由から泣けてくるのではないような気がする。ある事象を目の当たりにし、そこに自分の体験を重ね合わせ、泣くような気がする。「共感」とでも言うのだろうか。こんな大変な時こそ涙は美しい。
そしてもう一つ。「無邪気」というのはハイジのような人間のことを言う。喜怒哀楽に対する100%の感度をもち、人の心の痛みがわかり、思いやりがある人間のことを言う。一方、成人の中にも、一見すると「無邪気」だなどと言われる人間もいるが、それは嘘であろう。いい意味でも悪い意味でも、成人してから無邪気でいられるわけがない。一見して「無邪気」とは、単なる「じゃじゃ馬」である可能性が高いので、その点に留意が必要である。