芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

月別: 2010年2月

フェイ・ダナウェイ

 映画「俺たちに明日はない」で、ボニー・パーカー役のフェイ・ダナウェイは、左写真のように、帽子をかぶっているシーンも素敵だが、私個人的には、ウォーレン・ビーティ演じるクライド・バローと出会った当初のハンバーガーショップでのシーンが印象に残っている。
 フェイ・ダナウェイ演じるボニー・パーカーは美しい金髪でそれだけでも素敵なのだが、クライド・バローと出会った当初は、男性で言えば、「ペタっとした横分け」になっていた。ボニー・パーカーがハンバーガーをかじっている姿をクライド・バローが微笑ましそうに見ていて、ふと、「I don’t like it.」と、髪型を指摘する。それを受けてボニー・パーカーは、手で髪をとかし、よりセクシーな髪型に直したのだった。クライド・バローはご満悦そうであった。
 男性としては、女性が男性の指摘を素直に聞き入れ、男性にとってより魅力的になると、嬉しいものだ。ただし、映画の世界ではなく、日常生活においては、「言い方」に細心の注意を払う必要があり、女性の「面子」を傷つけてはならないことは、言うまでもない。

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口論(ビジネス上)

 前述「市場」で登場したHangさんの名誉のために、彼女の輝かしい一面も書いておこう。彼女は結婚し、二児の母である。毎朝5時に起き、美貌を保つためのウォーキングをしてから、子供のために食事を作り、子供を学校に送り届け、7:30にはオフィスに到着する(始業は8:00)。時には19:00過ぎまで働き、帰宅する。頑張り屋である。クライアントを訪問する前日に、Hangさんに、「明朝は何時にオフィスを出る?」と聞くと、必ず、「It’s up to you. I come to the office untill 7:30 every morning.」という返答が返ってくる。私は、「たしかに。」と答えるほかない。夜遅くまで仕事をした翌日は、私は8:00までに出社しないことがある。ごもっともである。また、彼女は面倒見がよく、Cafe su da(ベトナム風アイスコーヒー)を入れてくれたり、果物をむいてくれたりする、優しい面もある。ただし、彼女に余裕がある時に限る。
 さて、そんな彼女とも、仕事上の付き合いは早いもので1年。英語でコミュニケーションをとるのだが、お互いに英語は母国語でないため、当初は60%くらいしか理解できなかった。彼女は「Tax」のことを「タ」と発音するのだが、当初はそれすら分からなかった。そのような状況であっても、仕事上話をしなければ先に進まないので、なんとか話をしていくうちに、今では、英語で口論(もちろん、ビジネス上の)をするまでになった。現在はベトナムも繁忙期であるため、忙しい。昨日も、あるクライアントの問題をめぐって、二人とも熱くなり、口論をした。彼女は譲らない。私は、仕事を統括する立場上、すべてを容認するわけにはいかない。そんな中で私がふと、「しかしながら、俺たちも口論をするまでになったんだね。お互いに英語も上達したのかな。」と言うと、彼女も、「たしかに。上達したね。」と言って、お互いに笑った。
 海外で働くということには、日本と「同じ面」と「違う面」がある。どちらか一方だけをクローズアップしても先には進まないし深みが出ない。私は、両者をバランスよく認識しているつもりだが、大変なことは多い。しかし、上記のように、口論をしつつも笑える状況は、ある意味、「やりがい」があるということだ。こういうことを日々確認しながら、自分の行き先を、日々「選択」している。

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仲間

 私には、ベトナム人会計士の良き仲間がいる。名前はHaiさん。Haiさんは、年も経験も私より若い。しかし、ビジネスマンとしてしっかりしており、ユーモアがあり、信頼できる奴だ。
 思えば、2009年3月からここベトナムと日本を行き来するようになり、彼にはいつも助けられている。もちろん、仕事での付き合いだが、時には精神的にも助けてくれる。ベトナムに来た当初に「いや~、右も左も分かんないから大変だよ。」と弱音を吐くと、「Mr. EBJ、ステップ・バイ・ステップだ。大丈夫だ。」と言ってくれた。そして今日も、ミーティングが終わった時に、私の状況を察したのか、「Mr. EBJ、初めての仕事は勝手がわからないから、骨が折れるよな。」と言ってくれた。自分も忙しくて大変なはずなのに、いい奴だ。
 そんな彼なので、旧正月前に彼の事務所のパーティーがあった時、私は相当多忙だったが、なんとか挨拶をしたいと思い、急いでワインを買ってパーティーに駆け付けた。この「心の衝動」こそ、人を動かす原動力だ。なんと素晴らしいのだろう。しかも国境を越えてだ。貨幣的価値では測定不能だ。

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市場

 夕方にベトナム人会計士とのミーティングが終わり、その会計士のオフィスを出たところで、同席した私の事務所のベトナム人スタッフHangさん(女性、40歳)が、「(ラップトップの入った)荷物をオフィスに持って行ってくれ。」という。「タクシーで帰るんだから支障はないはずだ。」という。「なぜ?」と理由を聞いたところ、「これから市場に買い物に行くのだが、大事なパソコンの入った荷物を持って市場を歩くの危険だ。ひったくられる可能性がある。」という。「だったら、一旦オフィスに荷物を置いてから市場に行けばいいのではないか?」と言うと、「オフィスに置いてあるバイクで家に直接帰りたいから、とにかく持って行ってくれ。」と言う。本当の理由だ。自分にとって効率のよい行動順序を選んだのだ。「しょうがないな。」と思いつつ、「自分は彼女の上司なんだけどな。。。」と思いつつ、結局持って帰ることにした。ちなみに、私はお腹がすいていたので、オフィスに帰る前に、重い荷物を2つ持ちながら、「Hu Tieu(細い米麺)」屋に行き、食事をしてからオフィスに帰った。
 その後オフィスに帰ったところ、なんと、彼女も別のタクシーでオフィスに到着したところだった。しかも、オフィスの玄関に近い、べス・ポジにタクシーを乗り付けている。彼女と再会した際、ちょっと自分が情けなくなったので、「こういう形で荷物持ちはもうやらないよ。」と言ったら、「市場からのタクシー代は自分で出したんだからね。」と言う。最近、いちいち「かぶせ」てくる。「あたりまえだよ。きみはプライベートで市場に行ったんだからさ。」と言うと、しばらく黙り、一緒にエレベーターに乗り、オフィスに入った。彼女はそそくさとオフィスを出て行った。私は着替えを始めた。ちょうど、パンツ一丁になったところだった。すると、「開けろ、開けろ。」と言いながらドアを叩く音がする。彼女だ。急いで服を着てドアを開けると、「次男坊のために買ったミルクを忘れた。」と言いながら、またそそくさと出て行った。
 ここまで長々と書いて、実はオチがないのが悔しいのだが、要は、振り回されたということである。女性の皆様には失礼かもしれないが、万国共通、女性にはこういうところがあるような気がする。

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お金

 お金の定義は様々であって、どのような観点から定義するかで異なる。会計的にいえば、貨幣的価値で測定できるもののみが会計の対象になるわけだから、お金は会計の基本である。また、お金は、ただそれだけで価値のあるものだから、価値保存機能がある、などという言い方もする。
 ただ、ここでは、そんな観点からではなく、(結局難しい言葉を使ってしまうが)「交換手段」としてのお金に着目してみたいと思う。
 昔は物々交換だった(のだろう)。例えば、A家では大根がたくさん採れる、B家ではみかんがたくさん採れるとするならば、互いに互いのものが欲しかったり、食べきれなかったり、日頃お世話になっているからということで、そこには「交換」があったと思う。もっと言うと、単なるモノの交換だけではなく、「いや~、大根おいしかったよ。ブリ大根にしたら最高だったよ。」とか、「今年のみかんは甘いねえ。気候が良かったからね。」などと、そこには、モノの交換を超えたやり取りがあったに違いない。つまり、極論すると、お金がなくとも、人間として豊かに生きていけた時代があったはずだ。ここではお金自体について語るつもりはなくさらっと行くが、お金は本来、こういうやり取りの「媒体」であるはずだ。確かに、「金融」の発達は必要で、「金融」がなければ世界はここまで発達しなかったと考えられるが、一方で、2008年秋頃からの経済不況を引き起こしたりもする、怖いものである。
 結論としては、現在においても、そのような「気持ち」をもってお金を使ったりお金のことを考えられたら、気持ちが楽になるのではないかと思うし、行動も変わってくるのではないかと思う。これは自分の資金使途を正当化することになるかもしれないが、細かいことは気にせず、気持ちよくお金を使いたいと思っている。ただ、お金を使うというのは「フロー」の概念だから、会計士としては、「貯金」という「ストック」の概念についても十分考察する必要がある。近いうちに、「貯金」について考察してみたいと思う。

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会計士の三種の神器③

 最後は、筆記用具だ。以前は、多種多様の筆記用具を持ち歩いていたが、現在ではそれらが厳選され、最も重要な筆記用具は、四色ボールペン(シャープペンシル付)、ホッチキスくらいだろう。
 今思い返すと、新人の頃から数年間は、とにかく監査調書の「見栄え」を気にしすぎており、肝心の深度は問題である。もちろん、監査調書を作成することも重要な仕事の一つだが、最も重要なのは、深度ある分析・検討だ。現在はその点を意識しているので、四色ボールペン(写真下の赤いものは手帳)で十分だ。

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会計士の三種の神器②

 次は、電卓(写真の赤いものは電卓ケース)だ。これなしには仕事にならない。女性の先輩会計士で、珠算の影響か、暗算が物凄く、電卓を使わずとも6桁以上の数字の足し算ができる方がいらっしゃったが、稀だろう。
 資格の学校の講師で、「左手で電卓を叩けない会計士は潜りです。」などと豪語している方がいらしたが、実務は受験とは違うので、そこまでの電卓早叩きは必要ない。ただ、左手で電卓を叩き、右手で字を書く方法は、効率が良いことは確かだ。

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会計士の三種の神器①

 新人の時、先輩会計士に、「この仕事は体力勝負だ。くれぐれも腰には気をつけろ。」と言われたものだ。ところが、現在は腰痛持ち。我々の仕事では、クライアントを訪問し、クライアントで仕事をすることが多いため、持ち運ぶ道具が多い。ラップトップ、電卓、筆記用具、専門書等々、重いものが多い。
 そこで必要となるのが、大きな、タフな鞄だ。写真の鞄はTUMIのレザーで、2代目。1代目はナイロン(アメリカ軍が防弾チョッキに使用しているバリスティック・ナイロンを改良したもの)のもので、修理しながら10年使った末に、「新規購入代金<修理代」となったため、リタイアとなった。なお、アメリカ合衆国でTUMIを購入すると、ネーム・プレートへの刻印(写真下)がサービスとなる。いずれにせよ、会計士にとって、大きな、タフな鞄は、三種の神器No.1であろう。

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腰パン

 結論から言うと、このようなことをいちいち問題として取り上げることをやめるべきである。日本人は、変なところに厳しく、変なところに甘い。もっと大事なことがあるだろう。腰パンが社会的に問題があるのか。どこの国か忘れたが、開会式での入場行進の際、ビデオカメラを持ち撮影しながら入場する選手がいたが、比較の問題として言うならば、そちらの方が問題ではなかろうか。
 日本オリンピック委員会(JOC)には国際大会での「代表選手団公式服装規程」という決まりがあり、「自覚と誇りを持って選手団公式服装を着用しなければならない」と定められている。 「腰パン」だと、「自覚」と「誇り」に欠けるというのか。
 「若い者は・・・」という人がいるが、年配者にも「???」な人はたくさんいる。何か他人の粗探しをしてそれを指摘するのではなく、ポジティブな現象を願い、もっと前向きな言動をすべきである。
 国母和宏選手の着こなし、恰好良いと思うが。こんな着こなしができて似合う人は、そういないと思うが。個性の範囲内ではなかろうか。

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こだわり

 「拘り」と漢字で書くと、ネガティブな印象を受けてしまうが、ここでは、ポジティブな概念として「こだわり」を捉えたい。特に仕事においては、「ブレない軸」が必要である。軸がグラグラしていると、何のために何をやっているか、自分を見失うことになる。しかし、「こだわり」を持って仕事をすること、つまり、仕事の対象に思い入れを持って寄り添って自分を出していくこと、そこに軸があるし、価値がある。そのような意味で、、「こだわり」は非常に重要である。一流のコンサルタントの中には、プレゼン資料中の表の罫線の幅といった細部にまでこだわると言うから、ある意味、オタクに近いものがある。
 しかしながら、他者を意識しない、我に入った「拘り」には注意したい。そのような「拘り」は、他者を不快にさせ、結果的には自分を破滅に追い込むことになる。何かにこだわるのはいいが、「あれ?何かおかしいな?」と感じたら、一度その対象から離れてみることが重要である。ちょっとズルいし、矛盾するかもしれないが、「常に着脱可能」な柔軟さも重要である。
 なお、(性格、食事などに)「偏りのある人」は認知症になりやすいとのことなので、殊のほか留意が必要である。

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 「宝」というのは非常に主観的な概念であり、何を「宝」とするかは人または人間集団によって大きく異なる。命、経験、友情など、個人的な有形無形の大切なものも「宝」と呼ばれることが多く、形のあるものから形のないものまで様々である。
 ノルディック複合選手の阿部雅司氏は言う。
 「補欠となった経験が私の宝である。補欠を乗り越えた自分を誇りに思う。それがあったからこそ今の自分がある。」
 アルベールビルオリンピックでは、自分の後輩達が選手として選ばれ、自分は落とされた。当時のノルディック複合部長は、「当時の阿部は若干勢いがなかったということで落としたが、苦渋の決断だった。」と言う。補欠となったことが分かった時、阿部氏は思わずロッカールームから走って出て行ってしまったそうだ。当時はそれくらい、「補欠」となったことはつらい経験で、「補欠」は「宝」の顔をしていなかった。ところが、次のオリンピックでであるリルハンメルオリンピックでは、ノルディック複合団体選手に選ばれ、見事金メダルを獲得している。アルベールビルオリンピックで選手に選ばれた河野孝典・荻原健司にとっても、先輩である阿部氏の存在は、いい意味でプレッシャーになっていたことが窺える。
 成育歴からして、これまでの私は、スポーツに興味を示さなかった。しかしながら、スポーツには「ドラマ」があることが分かった。スポーツを単なる競技としてしか捉えていなかった自分には「観察力」が欠如していたと言うほかない。今後は、スポーツにおける選手の生き様に着目していきたい。

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固定資産の減損

 減損会計(げんそんかいけい、impairment accounting)とは、資産の収益性が低下して投資額の回収が見込めなくなった場合、当該資産の帳簿価額にその価値の下落を反映させる手続きをいう。
 減損会計を理解する上では、次の4つの要素について、趣旨・具体的内容などについて、しっかりと理解する必要がある。
 ①資産のグルーピング
 ②減損の兆候
 ③減損損失の認識
 ④減損損失の測定
 なお、減損会計は、経営上は、単なる固定資産の簿価切り下げにとどまらないのが通常であると考えられる。ビジネスの収益性が低下しているからこそ減損会計を適用するのであって、単なる固定資産の価値のみならず、ビジネスそのものの価値が問われていると言わざるを得ない状況が多々ある。この点、「『正味売却価額』が高い」ことを理由に減損処理を見送っているケースが散見されるが、そもそも、「正味売却価額で固定資産を評価すること自体」の意味を考えてほしい。「ビジネスで使用する固定資産を売る時の価値で評価する」⇒「ビジネスをやめることが前提」、ではないだろうか。
 今後は、固定資産の減損の詳細について考察していくことにする。

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St. Valentine’s Day

 バレンタインデー、あるいはセントバレンタインデー(St. Valentine’s Day)は、2月14日に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる。もともと、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが、これは主に西方教会の広がる地域における伝承である。聖ウァレンティヌスを崇敬する正教会の広がる地域では、西欧文化の影響を受けるまでこのような習慣はなかった。
 バレンタインといえば、高校生時代の国語教師(以下「I氏」とする)の言葉を思い出さざるを得ない。I氏の授業は、65分の授業のうち半分以上が「雑感」で占められ、後半になってやっと、しかし、うまい具合に、本論(国語の授業)に入っていく。バレンタインデーに、男子生徒に向けて、常々I氏が言っていたことがある。「バレンタインデーにチョコがほしかったら、まずはホワイトデーに女性にプレゼントをあげろ。一年がかりだ。そうすれば、うまく循環ができてくるはずだ。」と。説得力のあるようなないような、という感じであったが、I氏は素晴らしい引き出しをたくさん持っている。
 その引き出しの一つを紹介する。授業でI氏は、ユーミンの以下の歌詞を取り上げた。
  あなたを思い出す この店に来るたび
  坂を上って今日も 一人来てしまった
  山手のドルフィンは 静かなレストラン
  晴れた午後には遠く 三浦岬も見える
  ソーダ水の中を 貨物船が通る
  小さなアワも恋のように 消えていった
 I氏は、「ソーダ水の中を貨物船が通る」の歌詞に興味を覚え、どうしてもその意味を知りたくなり、遠路車を走らせ、ドルフィンに行ったそうだ。当然のことながらソーダ水(ドルフィンソーダ)を注文したが、まだ歌詞の意味がわからない。しかし、ふと、テーブルに頬杖をついてみたところ、なんと、ソーダ水の中を貨物船が通ったそうだ。以上を受けてI氏の本論(授業)で言っていたことは、「『詩の背景』を想像してみなさい。」ということだ。「この歌詞の主人公は、頬杖をついて、憂鬱な気持ちでドルフィンで過ごしていたのだろう。」ということだ。「『ソーダ水の中を貨物船が通る』という言葉だけでそういった背景を表現してしまうユーミンはすごい。」とI氏が言っていた。
 I氏、あなたの行動力と感性もすごい。失礼かもしれないが、黒板に物理教師の似顔絵を描くは、65分の授業のすべてを「雑感」で終わらせるはで、(いい意味で)相当の不良教師であった。

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Django Reinhardt (ジャンゴ・ラインハルト)

 ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt 1910年1月23日 – 1953年5月16日)は、ジャズ・ミュージシャン、ギタリスト。本名ジャン・バティスト・レナール(Jean Baptiste Reinhardt)。ベルギー・リベルシーの出身。ジプシーの伝統音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)の創始者として知られる。ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。1924年、歌手の伴奏でバンジョーを弾く。これが初のレコーディング経験となった。その後ギタリストとして活動。18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左手人差指・小指の動きを失う大火傷を負った(後のギター演奏シーンでは、この2本の指を深く曲げたまま、残った3本の指で演奏している)が、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。1934年にはフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成。映画『ギター弾きの恋』の中でも名前がでている。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。1949年、フランス・ホット・クラブ五重奏団の盟友であるステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)と共にローマに渡り、現地のミュージシャンと共にクラブで演奏していた模様を収めた『ジャンゴロジー』は、傑作として名高い。1953年、フランスで亡くなる。
 他人が軽々しく「逆境」などと言ってよいものか、言葉を慎重に選ぶ必要があるが、多くの人は、上記のような状況に陥ったら、ギターをやめるのではないだろうか。上記の状況を「逆境」と言うならば、ジャンゴは、逃げずに逆境に寄り添った。ジャンゴの上記境遇からすれば、他に選択肢がなかったのかもしれない。いずれにせよ、ジャンゴの演奏は素晴らしい。映画「ギター弾きの恋」に、「俺はジャンゴの次にすごい。」と豪語するギター弾きが主人公で登場するが、彼も、ジャンゴの演奏は「涙なしでは語れない。」と言っていた。なお、この映画自体も興味深い。ギター云々よりも、「本当に大切な人は誰?」を教えてくれる。

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写真

 デジタルカメラの発達にはついていけない。どのタイミングで買えばよいのか、どのメーカーがよいのか、どのような機能があるのか、など、デジタルカメラを購入する際の切り口には枚挙に暇がなく、意思決定が難しい。結局のところ、販売員の説明の明確さ・熱心さ・心遣い・顧客観察力(=マーケティング)などが、その時の自分の要求水準を超え、納得のいったときに、購入という意思決定をしているように思える。電気製品に関しては、どうしても大型量販店の存在が大きいとはいえ、結局は「人」である。
 さて、今後は、デジタルカメラを「仕事」で使っていきたいと考えている。これまでは、プライベートでしか使用していなかったし、かつ、自分自身のデジカメを持っていなかった(今は亡き京セラのデジカメを持っていたが、壊してしまった)ため、写真を撮ることに関しては、積極的ではなかった。しかしながら、「仕事」においても、「幸福論」や「専」とも関連し、「今、この瞬間」を大事にしていきたいと思うので、写真の力を、どんな方法でもよいから、「仕事」に活かしたいと考えている。そういうわけで、とうとう、「Canon PowerShot S90」を購入した。「キャノン」ではなく、「キヤノン」である。

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幸福論①

 社会人になってから、「幸せ」とは何かを意識するようになった。以前は、「幸せ」とは、どこか遠くにあるもので、常に追い求めていないと手に入らないものだと思い込んでいたが、最近は、身近にあるものに感謝したり、今充足されているものに満足したり、と、要するに、現時点の自分の状況を肯定的に受け入れられることをもって、「幸せ」だと解釈していた。もっと言うと、そのような幸せが「唯一」の「幸せ」であると考えていた。
 ところが、昨晩、ある最も近しい人物と「幸福論」を展開していたところ、上記の「幸せ」(以下、「幸せ①」という)は確かに大切だが、「幸せ」は「それだけではない」という。どういうことかと説明を求めると、上記の「幸せ①」は自分だけに関する概念であり、「他者」が介在していないから「それだけではない」という。つまり、「幸せ①」がある程度充足されたら、今度は、「他者」をも「幸せ」にすることも考慮に入れた「幸せ」(以下、「幸せ②」という)考える必要があるということだ。なるほど、人間は成長する必要があると考えるならば、「幸せ②」は必要だ。「幸せ②」を目指して、他者と切磋琢磨し、自分を高め、その結果として到達した「幸せ」は、素晴らしい。
 以上をまとめると、「現状を肯定的に受け入れつつ(「幸せ①」)、他者を意識したさらなる高み(「幸せ②」)を目指す。」ということだろう。
 そういえば、高校生の時の担任が常々、「小さくまとまるなよ。」と言っていたのを思い出す。

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事務所

 事務所(じむしょ)。いい響きである。勝手なイメージだが、人がいて、誰かと電話をしていて、なんか書類を書いていて、3時にはお茶をすすっていて、夜は鍵をかけて帰宅して、と、「人の動き」が感じられる場所である。
 左の写真は私の事務所の一角の私のデスクだが、公認会計士を目指した動機でもあった、「自分の城」というものがどうしても欲しかった。現実はそう甘くはないが、今この時、現時点では、仕事・仲間・家族の協力・時間などに恵まれ、貨幣価値で測定不可能な効用のような概念を入れるならば、現時点に満足している。ただ、人間は、魂レベル・仕事・人間関係等、様々な面で成長することが宿命であるから、現状に満足しているからといってそこに甘んじることなく、さらなる成長を志向していたい。ただ、繰り返しになるが、「現状に満足できる」のも「ありのままの自分を受け入れる」ということなので、ますは「現状肯定」をしたいと思う。
 私を含めて3人の仲間(先輩)がいるので、会計・税務の話、世の中の話等々で、いつも賑やかですよ~っ。

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うざい

 うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。1980年代のツッパリブームから関東圏を中心に使われるようになり、1990年代には不良以外にも使われ、全国的に普及する。うざいが更に簡略化された『うざ』や、うざいの語感が荒くなった『うぜー(うぜえ)』という言い方もある。
 ある対象を「うざい」と感じるか否かは、人それぞれであろう。また、感じる人その人の状態によっても、「うざい」と感じるか否かが違ってくると思う。例えば、ベトナム滞在中に街を歩いている時を想定すると、自分がほとほと疲れているときには、縦横無尽に走り回るバイクの群衆に対して「うざい」と感じる。やつら全員が敵に思えるくらいだ。一方、自分が何かに満ち足りていて状態の良い時には、それらを「うざい」とは思わない。むしろ、彼ら全員が自分の味方のような気がする。
 
 また、最近はいい意味で自分のことを「うざい」と言ってくれる人になかなか出会えない。自分を過大評価する意味ではないが、いい意味で「うざい」と感じられるかどうかは、その人の「観察力」にかかっていると思われる。したがって、「ただ単に(悪い意味で)うざい」というのでは、「観察力」はまだまだだろう。私自身に観察力があるということをここで言いたいわけではないが、私はいい意味で「うざい」人が好きである。特に、「オタク」と言われる人々が、(気持ち悪くなければ)好きである。「オタク」は凄いものを持っている。誰にも負けない何かを持っているからだ。
 人に不快感を与えたくはないが、いい意味で「うざい」と思われる存在でありたいと思っている。

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自然

 先日、ぼんやりとテレビを見ていたら、永平寺第78代貫首宮崎亦保禅師(故人)が物凄く強烈なお言葉を仰っていたので、思わず聞き入ってしまった。概要は以下の通りである。
人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、
褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。
それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 106歳でお亡くなりになった先生(自然と「先生」という言葉が出てきます)の104歳の時のお言葉だったと記憶している。親を亡くして15歳の時に寺に引き取られ、それ以来、禅の道を歩んでこられたそうだ。「平気で生きる。」とは、おそらく、「日々の生活を淡々と生きる。」ということだと解されるが、そのこと自体に意味があるということなのだろう。なんとも、深いお言葉である。

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節目

 「Tet (テト)」とは、漢字の「節」のベトナム語読みであり、いわゆる旧暦の正月を意味する。本日はまだテト前であるが、会社によっては、本日からテト休暇に入るケースもあり、本日は、正月休み前で、街が浮足立っているといった印象を受ける。弊事務所のベトナム人スタッフも、明後日からテト休暇に入るのだが、本日はお年玉の用意をし始めるなど、気持ちはテトに向いている。
 「節」、「節目」というのは、何も暦に限ったことではなく、人それぞれ、何らかの節目があると思う。この点、スティーブ・ジョブズは、絶えず自分に問いかけ、「節目」を意識している。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。」
最後に、もうひとつ。
「君たちの時間は限られている。だから他の誰かの人生を生きて時間を無駄にしてはいけない。定説(ドグマ)にとらわれてはいけない。それは他の人たちの考え方の結果と生きていくということだ。その他大勢の意見という雑音に、自分の内なる声を溺れさせてはいけない。最も大事なことは、自分の心に、自分の直感についていく勇気を持つことだ。心や直感はすでに、あなたが本当になりたいものを知っている。それ以外は二の次だ。」
 最近、こういったことを考えると疲れてしまうことがあり、「もう考えない方がよいのか?」などと思ってしまうが、「テト」という「節」が暦の上にあり、ベトナム人の行動が「節」を意識した行動であることを目の当たりにし、やはり、人生については、常々考えていきたいと思った次第である。

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専門

 常々、「専門」について思いを巡らせているが、本日は、改めて、「専門」について考える機会があった。そこで、そもそも、「専門」とはどういう意味なのか、「門」の意味はなんとなくわかるが、「専」はよくわからないので、「専」について調べてみた。
 「専とは、『寸(手の指一本)+糸をまいた紡錘の象形文字』の会意兼形声で、紡錘は何本もの原糸を集めることから、専一の意味が生じた。」という。なるほど、「専一」。ところで、専一とは、「他を顧みないで、ある物事だけに力を注ぐこと。」という。
 そこで分かったことは、現時点で「専門」とするものがないのだとしたら、「専門」とは、どこか遠くにあるものではなく、また、探しに行くものでもなく、「自分の心のありかた」だということだ。「幸せ」の考え方とも似ているように思える。
 「専門」かどうかは、自分がどれだけその対象により添えるか、にかかっているのだろう。

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