2023年10月6日
更級日記「大納言殿の姫君」
五月ばかり、夜更くるまで物語を読みて起きゐたれば、来つらむ方も見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。
いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、
「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ。」
とあるに、いみじう人慣れつつ、かたはらにうち臥したり。
尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物も、きたなげなるは、ほかざまに顔を向けて、食はず。
姉おととの中につとまとはれて、をかしがり、らうたがるほどに、姉の悩むことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしかましく鳴き罵れども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、
「いづら、猫は。こちゐて来。」
とあるを、
「など。」
と問へば、
「夢に、この猫の、かたはらに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御娘の、かく(*)なりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君の、すずろにあはれと思ひ出で給へば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと。』と言ひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり。」
と語り給ふを聞くに、いみじくあはれなり。
そののちは、この猫を北面にも出ださず思ひかしづく。
ただ一人ゐたる所に、この猫が向かひたれば、かいなでつつ、
「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせ奉らばや。」
と言ひかくれば、顔をうちまもりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔に、あはれなり。
【現代語訳】
五月のころに、夜が更けるまで、物語を読んで起きていると、どこから来たのかわからないが、猫がとてものどかに鳴いたのを、はっとして見ると、たいへんかわいらしい猫がいる。
どこからやって来た猫かしらと(思って)見ると、姉が
「しっ、静かになさい。人に聞かれないようにね。たいへんかわいらしい猫だわ。飼いましょう。」
と言うと、たいへん人に慣れた様子をしながら、(私たちの)そばに横になっている。
(この猫を)探す人がいるかもしれないと、隠して飼うが、身分の低い者のいるあたりにも全く近寄らず、じっと(私たちの)前にばかりいて、きたない感じのする食べ物は、顔をそっぽに向けて食べない。
姉妹の中にじっとまとわりついて、面白がり、かわいがっているうちに、姉が病気にかかったことがあったので、なんとなくとりこんでいて、この猫を北側の部屋にばかりいさせて呼ばないので、やかましく鳴き騒ぐけれども、やはり何かわけがあって鳴くのだろうと思っていると、病気の姉が、ふと目を覚まして、
「どうしたの、猫は。こっちに連れてきてちょうだい。」
と言うので、
「どうして。」
と聞くと、
「夢で、この猫がそばに来て、『私は、侍従の大納言殿の御息女が(生まれ変わって)このよう(な猫の姿)になってしまったのです。こうなるはずの前世の因縁が少しばかりあって、この次女のお嬢さんが、しきりになつかしく思い出してくださるので、ほんのしばらくこの家におりますのに、このごろは、身分の低い者の中に(置かれて)いるので、とても情けないこと。」
と言って、ひどく泣く様子は、上品でかわいらしい人のように見えたけれど、はっと目を覚ましてみると、この猫の声であったのが、たいへんしみじみと心を打たれたのです。」
とお話しになるのを聞くと、たいへんしみじみとした気持ちになる。
その後は、この猫を北側の部屋にも出さず、大切に扱う。
(私が)ただ一人座っている所に、この猫が向かい合って座っていたので、なでてやりながら、
「(あなたは)侍従の大納言の姫君でいらっしゃるのね。大納言様にお知らせ申し上げたいものだわ。」
と話しかけると、顔をじっと見つめながら、のどかに鳴くのも、気のせいか、一見したところでは、普通の猫とは違い、(私の言うことを)聞き分けているような顔つきで、しみじみとした感じである。