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芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

NAT KING COLE

 ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 – 1965年2月15日)はアメリカアラバマ州モンゴメリー生まれのジャズ・ピアニスト・歌手。本名:ナサニエル・コール(Nathaniel Adams Coles)、「キング」は愛称。アラバマ州モンゴメリーで生まれ、教会オルガン奏者の母のペリーナから12歳までオルガンを習っていた。1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年に結成したトリオ「Nat King Cole Trio」での活動は有名。 ビッグバンドの時代におけるコールのピアノ、ギター、ベースからなる編成は革新的で、ジャズトリオのスタイルの流行となった。その間、艶のある声を買われて歌手としても活動するに至った。数回の来日経験があり、東京都赤坂の高級キャバレー「ニューラテンクォーター」でのライブショーを行っている。コールは1日にクール(KOOL)を3箱も吸うヘビースモーカーで、コール自身は「タバコは声を低音にする」と信じていた。しかし、歌手としてまだ絶頂時の1965年2月15日に、サンタモニカの病院で肺ガンにより逝去した。
 私が中学1年生の時、当時流行りの「コンポ」を買ってもらった。三菱電機に勤めていた伯父を介して購入したのだが、その伯父が大の音楽好き、しかも戦後の日本人が憧れていたアメリカ音楽が大好きで、コンポ購入と同時に、様々なレコードを貸してくれた。その中でも最も大きな影響を受けたのが、「NAT KING COLE」であった。どの歌も大好きになり、何度も何度も聴いた。高校生のときは、周りの友人がハードロックに酔いしれている中、私はJAZZ BALLADが大好きで、カラオケでもそれを歌おうとするのだが、周りの友人にとっては、「犬が餌を『待て』の状態にされている」が如く耐え難かったらしく、歌っている途中で何度も演奏停止をくらった。
 音楽に関しては、というか、あらゆる面において、周りの友人に迎合することなく「自分らしさ」を通してきたわけであり、数々の衝突もあったが、今ではむしろそれでよかったと思っている。いまだにNAT KING COLEが好きである。

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大日本帝國

 大日本帝国(だいにっぽんていこく / だいにほんていこく、旧字体: 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。
 「日本」に「大」と「帝國」が付くと、それだけで「立派」な印象を受ける。それにしても、明治維新後15年弱で憲法を発布し近代化を推進したそのスピードとパワーには感服する。「日本人の意思決定は遅い」などと言われることがあるが、いつからそうなったのでしょうか。

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南洋群島

 南洋諸島(なんようしょとう)は、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々のうち、かつて日本が国際連盟によって委任統治を託された、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦の事を指す。日本政府は南洋群島(なんようぐんとう)と呼称した。
19世紀に弱体化したスペインがグアムを除いた大部分をドイツ帝国に売却する。
1914年 – 第一次世界大戦勃発。大日本帝国参戦、海軍がドイツ要塞を次々に攻略して占領。
1918年 – ドイツ帝国が革命によって停戦。
1920年 – ヴェルサイユ条約によって、国際連盟の委任統治領として、グアムを除く赤道以北を日本に託す。以後、日本は南洋庁を置いて統治を進める。社会基盤を整備したほか、先住民に対しても学校教育を行った。また沖縄県を中心に日本人が多数移住する。南洋拓殖株式会社などが次々に殖産し、砂糖などを日本へ輸出して、貿易は黒字であった。
1935年 – 日本が国際連盟を脱退。南洋諸島を自国領に編入し、台湾・朝鮮などと同様に外地として統治を続ける。
1941年 – 9月24日パラオ放送局、放送開始(短波10kW)。12月8日太平洋戦争が勃発。
1944年 – 米軍の大攻勢が始まり、マーシャル諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島の一部の島が米軍の占領下に置かれる。
1945年 – 日本が降伏する。
 現在も、パラオの年輩の方は日本語を話し、親日的だと言われている。樺太についても言えることだが、善い・悪いは別にして、当時の日本は、ある意味、現在よりもグローバル化していたのではないかと思われる。当時の日本人たちの「視野」の広さは、現在のそれと比べてどうだったのだろうか。海外を意識するほど日本を意識し、視野が広くなるような気がするが。

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樺太庁

 樺太庁(からふとちょう、ロシア語: Южный Сахалин、英語: Karafuto Prefecture)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。
 歴史を遡っていくと、そもそも、樺太はどの国に固有の領土だったのだろうか。歴史の中では、日本とロシアが領有権を争うか交換するかをしているが、南樺太には、「残留ロシア人(ざんりゅうロシアじん)」といって、ポーツマス条約によりロシア帝国から大日本帝国に編入された南樺太に、そのまま残留し続けた元ロシア帝国国民のうち、元からの先住民族を除く者を指す者が住んでいたようである。南樺太は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約により日本に割譲された。それまで住んでいたロシア国民は、そのまま残留するか、北サハリンやロシア本土に引き揚げるか二者択一を迫られた。大半の住民は引き揚げを選んだが、少数の者は残留を選んだ。これが樺太における残留ロシア人の起源である。残留ロシア人は財産権が保証されたため、これまで通りの生活を送ることができた。彼らの多くは自家製のパンを焼き、それを「ロシアパン」と名づけて駅前で販売していた。このロシアパンは当時の樺太土産として知られており、ロシアパンの売り声は樺太の風物詩であった。やがて残留ロシア人は日本人社会と溶け込むようになり、日本人経営の企業や商店に勤務する者を現れた。中にはマルキャン・ボリシコのように日本人女性を妻とし、牧場を経営して日本人を雇うほどの名士も出現した。
 しかしながら、日本人とロシア人が同じ土地に共存するなど、現在では考えられない。ロシアパンの売り声が風物詩?一体どういうことなのだろうか。実は、戦前の日本人は、今よりグローバル化しており、排他性が低く、環境適応能力が高かったのではないだろうか。我々は、歴史の一側面しか見ていないのではないだろうか。どなたか、バランス良く歴史を教えて頂きたい。

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平岡定太郎

 平岡定太郎(ひらおか ていたろう、文久3年(1863年)6月4日 – 昭和17年(1942年)8月26日)は日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。
 文久3年(1863年)06月 – 播磨国印南郡志方村(現在の兵庫県加古川市志方町上富木)に農民太吉、つるの次男として生まれた。もともと平岡家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だったが、父太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという。神戸の漢学塾・乾行義塾、御影師範学校(現・神戸大学)、二松学舎、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京大学予備門(現・東京大学教養学部)等を経て、
 
明治25年(1892年)07月 – 東京帝国大学法科大学卒業。内務省試補・庶務局。
明治26年(1893年)11月 – 徳島県参事官。
明治28年(1895年)05月 – 栃木県警部長。
明治29年(1896年)12月 – 衆議院書記官。
明治30年(1897年)07月 – 衆議院書記官兼内務省参事官。
明治31年(1898年)04月 – 内務省参事官兼内務事務官。12月 – 広島県書記官。
明治33年(1900年)01月 – 宮城県書記官。
明治37年(1904年)11月 – 大阪府内務部長。
明治38年(1905年)04月 – 大阪府第一部長。
明治39年(1906年)07月 – 福島県知事に就任。
明治41年(1908年)06月 – 樺太庁長官に就任。
大正03年(1914年)06月 – 辞職。
大正04年(1915年)03月 – 横領罪で起訴。
大正05年(1916年)05月 – 無罪判決。
大正09年(1920年)10月 – 東京市道路局長。
昭和09年(1934年)05月 – 詐欺容疑により逮捕される。07月 – 不起訴。
昭和17年(1942年)08月26日 – 死去。
 赤字部分の6年間が空白であるが、ある研究者によると、政党政治を推進していた原敬の政治資金を調達するため、大陸(中国、満州)で麻薬取引等に関与していた模様である。いずれにせよ、非常に優秀な官僚であり、若くして樺太庁長官に抜擢され、そして失脚し、闇社会で暗躍した。波乱万丈な人生であったに違いない。当時、南樺太は日本領、北樺太はソヴィエト領であった。当時の樺太経営はどうなっていたのか。

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三島由紀夫

 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日~1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた。私が記載するまでもなく、彼の作品は素晴らしく、美意識も相当程度に高い。また、彼の英語力も相当程度に高く、特に、語彙が豊富であるとの印象を受けた。また、ボディビルでも有名だが、そのことは、「セルフ・コンントロール能力」が高いことも意味している。とにかく、「優秀」である。
 それでは、「なぜ彼ほどの優秀な人間が自殺したか。」について軽く考えたい。私なりの結論は、「究極の我に入っていた。」ということである。つまり、「愛の欠落」である。彼の成育歴を調べてみると、彼は通常レベルの両親からの愛情を受けておらず、むしろ、祖母などから通常レベルを超えて抑圧されていたと考えられる。そういった人間は、自分のプラス面もマイナス面も、手放しで受け入れることができず、世の中に対してもネガティブな目で見てしまう傾向がある。真実は本人にしか分からないが、現時点の自分を自分自身が受け入れられなかったり、世の中が自分の理想とあまりにも違ったりで、寂しかったのだろうと察する。 
 三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)の父親は、平岡梓(ひらおかあずさ、明治27年(1895年)10月12日 – 昭和51(1976年)12月16日)、日本の農商務官僚)。梓は、父平岡定太郎の影響で、「消極的ニヒリスト」であったと言われている。消極的ニヒリストに育てられた子供はどうなるだろうか。

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はじめに

 公認会計士という職業柄、「なにそれ? どういう人? どうして?」の繰り返しであった。ある意味、女性はそうした理詰めの質問に弱いので、「なにそれ? どういう人? どうして?」を妻とのコミュニケーションにおいて連発するあまり、家庭が戦場と化したこともある。
 しかしながら、「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスは、物事を総合的に理解し、一定の結論を出す上で必要不可欠である。これは仕事に限らない。例えば、いま自分が太っているとする。なぜ太っているのか。この問いに対する表面的かつ一面的回答は、「食べすぎ」かもしれない。しかし、「食べ過ぎないようにする」とか「食事を抜く」といったことをすれば解決するのかといえば、そうでない。「なぜ食べ過ぎるか。」が重要である。そこには、必ず「ストレス」の問題がある。じゃあ、そのストレスは何か。仕事か、家庭か、人間関係か。そもそも、なぜストレスに感じるのか。自分の体一つとっても、調べることはたくさんある。
 さて、私は公認会計士という職業もさることながら、幼少の頃から現在に至るまで、「うざい」と言われるほどの、こだわりというか、変な引き出しを持っているようだ。この際、この引き出しを公開し、皆様の何らかのお役に立てないかと考えている。私自身、「世の中に無駄はない」と考えている。「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスで考えれば、無駄でないことが分かる。「原因と結果の法則」「すべては必然」「魂」「輪廻転生」等々様々な言葉があるが、すべての人間の営みは人間に帰結すると思っている。
 なお、深度ある記載をしたいと考えているが、私自身、勉強不足や経験不足があるため、深度が甘い場合はご容赦頂きたい。深度が甘い場合、「優しく」コメントして頂けると幸いである。 また、インターネットの発展に尽力された方々に深く感謝する。

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会計士EBJとは?

 「EBJ」という文字は、僕の会計人としての原点です。
 監査法人に所属していた時に、監査調書に作成者としてのサインをするのですが、作成者のイニシャルや略称などをサインとするのが一般的でした。
 僕の場合は、「えばじゅん」というニックネームが稀にあったので、「えばじゅん」を英語表記した場合の「EBAJUN」を「E」「BA」「JUN」に分解し、その頭文字である「E」「B」「J」を合わせた「EBJ」を監査調書のサインとしていました。
 すると、先輩会計士の中に、私のことを「イービージェー」と親しみをもって呼んで下さる方々が現れ、僕もその呼称がまんざらでもなくなり、いつしか気に入っていました。今では、仕事道具の鞄に「EBJ」のイニシャルを彫っているほどです。

 そこで、このブログを始める際、当初は匿名でやることにしたので、その主体を「会計士EBJ」としました。
 また、「うざい」と形容した理由は、「うざい」という形容が僕に対する最大の賛辞と捉えているからです。
 すなわち、僕の関係者の中には、折を見て、僕のことを「うざい」と形容する方々がいらっしゃいますが、‘ネガティブな意味で’本当にうざいと思っていたらとっくの昔に関係が終わっているわけであり、うざいと言いながらも関係を続けてくださってのは、決して自惚れるわけではなく、何かしら‘関係を続ける理由’があるからではないか、と考えているのです。
 要は、ニックネームにしろ、僕の形容にしろ、すべて気に入っています。すべてのご縁に感謝してます。今後とも「会計士EBJ」をよろしくお願い申し上げます。

※2009年02月14日は、前職の有給休暇消化期間最終日の翌日であり、当該日を江幡公認会計士税理士事務所の創立日と定めたものである。

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