芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

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桜から学ぶ

 やっとこの地に来ることができた。やっとこの目で見ることができた。被災地の中でもあまり注目されないが、相当程度の被害のあったM市。瓦が落ち屋根がブルーシートで覆われた住宅が散見され、補修済みとはいえ道路の陥没が甚だしい。昔通った幼稚園の教会の塔は無くなっていた。3月11日の凄さが伝わってくる。
 M市は比較的北に位置するので、東京よりも桜の開花が遅い。昨日NHKでM市で桜が開花したというニュースがあったので、どうしてもこの目で見たいと思っていた。両親を誘い、見に行った。そこは「桜川」という名の川沿いの土手だ。とにかく素晴らしい桜だった。涙がにじむ。震災があって人々の心が落ち込んでも、時期が来れば桜は咲く。自然は立派だ。
 そんな桜から、どんな状況にあってもやるべきことを淡々とやる強さを学びたい。

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当たり前のことから生まれる何か

 お恥ずかしいことに、4月8日に歯医者を予約していたにもかかわらずすっかり忘れてしまい、本日改めて予約を取り歯医者へ行った。いつもお忙しい院長先生に担当して頂いているので、心から申し訳なく思い、治療の前に心から謝罪の気持ちを伝えた。
 すると、院長先生は「ああ、いいんですよ~。」と言って、いつもどおり治療に取り掛かった。というか、いつも以上に丁寧に治療をして下さった。席をちょっと離れた際にたまたま院長先生の顔が見えたのだが、真剣そのものだ。
 こんな日常の出来事なのだが、心がすっと楽になった。おそらくだが、心からの謝罪が院長先生の心に届き、院長先生のモチベーションがいつもよりも上がったのだろう。つまり、「ストローク」ができたのだ。「ありがとう」「ごめんなさい」は当たり前のことなのだが、日々できているとは限らない。忘れてしまったり、何かがひっかかってできないことがある。その結果、人間関係に歪みに生じることがある。逆に、その当たり前のことができていれば、人間関係は良好であるだろう。そんなことを学んだ一日だった。

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海の恵み

 今週は期日の迫った仕事がない。そして天気が良い。思い切ってOFFにし、大磯へ向かった。目的地は大磯プリンスホテル。大学生の時の自分には高根の花だったが、主にデフレの影響や競争激化等で経営が厳しくなったのだろう、非常にお手頃なプランがあることを発見したのだ。しかし天下の「プリンス」であることには変わりはない。
 とにかく「ゴロゴロ」することに決めていた。昼間から酒を飲むことに決めていた。DVDや本をたくさん持ってきた。オーシャン・ビューの部屋から見る海は格別だ。思えば、震災直後は仕事の予定が詰まっていたので考え込む暇などなかったが、仕事が一段落した3月末頃から、どうも気持ちが冴えなかった。割りたガラスのように、心が散乱している感覚があったのだ。
 そんな時は、海を見に行くとよい。海が大きく包んでくれるに違いない。

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宮城出身お笑い芸人座談会 x 東京都知事選 x K市

 日曜日だというのに今朝は早起きだ。7時の目覚ましで一発で起床。仕事のアポがない限りなかなか難しい起床時間だ。しかし、今日はK市になるべく早く行きたい用事がある。その前に東京都知事選がある。選挙は7時から開始なので、現実的な7時に起床することにした。
 その前に、朝食を摂りながらテレビをつけると、「伊達みきお x 富澤たけし x 狩野英孝」という宮城出身者による座談会の番組がやっていた。まず思ったのが、やはり、大震災のl現場を経験している本人の言葉は、そうでない人の言葉よりも相当説得力があるということだ。素晴らしいと思った。なお、「自粛」については、節電等無駄遣いをしない「自粛」なら分かるが、それ以外の事は自粛というのだろうか?どうなんだろうね(精神論でも困るよね)、といった旨の事を言っていたのが印象的であった。
 いずれにせよ、どんな小さなことでもよいから、自分ができること・するべきことを、自分でしっかりやっていくことが大切だと改めて思った。

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クララの気持ち~アルプスの少女ハイジ~

 TOKYO MXテレビで「アルプスの少女ハイジ」の再放送をやっている。たまに観ているのだが、アルプスの少女ハイジの1話1話は実に奥が深いということが分かった。山で暮らす少女の単なる描写ではない。番組の中で、どこそこに行く、誰誰に会う、というのは単なる入口に過ぎず、その時々でその日のメインキャストがどのような想いであったか、どのような気付きがあったのか、ということを伝えているのだ。
 本日のハイジでは、話の入り口は、クララが、ハイジとペーターと山の棚岩に行くというものであった。もちろんそこにもドラマがあるのだが、本日一番のドラマは、最後の頃、クララがハイジとペーターのおばあさんに会いに行った時の話であった。ペーターのおばあさんは目が見えないので、クララが本を読み聞かせていたのだが、読後に、おばあさんが、クララに感謝の気持ちを述べたのであった。気持ちがとてもこもっていて、天使の声のようだ、ありがとうと。すると、一瞬クララは暗い顔をして黙ってしまったのだが、それは大きな気付きがあったからだった。
 クララは病気で車いす生活をしていて、普段はたくさんの人に迷惑をかけているという負い目を感じていたのだ。ところが、ここ山の生活では、クララにとってしてみればただ単に本を読み聞かせただけなのに、そのことを褒めてくれ、感謝してくれる人がいる。つまり、クララは、普段は人の世話にばかりなっている自分も、人の役に立てるということに気付いたのである。おばあさんから礼を言われると、クララは涙を流しながら、おばあさんの手を握り、何度も何度も礼を言うのである。
 この大震災がなければ演奏会に出場するはずであった宮城のある中学校の合唱団が、被災者のために歌を歌った。「明日さえあれば生きていける」という主旨の歌詞の歌であったが、その歌を、被災者は涙を流しながら、嗚咽しながら聴き入っていた。
 私には、クララの涙と被災者の涙に何らかの共通点を見出した。生きていると泣けてくることがある。ただ、悲しいとか嬉しいとか唯一の理由から泣けてくるのではないような気がする。ある事象を目の当たりにし、そこに自分の体験を重ね合わせ、泣くような気がする。「共感」とでも言うのだろうか。こんな大変な時こそ涙は美しい。
 そしてもう一つ。「無邪気」というのはハイジのような人間のことを言う。喜怒哀楽に対する100%の感度をもち、人の心の痛みがわかり、思いやりがある人間のことを言う。一方、成人の中にも、一見すると「無邪気」だなどと言われる人間もいるが、それは嘘であろう。いい意味でも悪い意味でも、成人してから無邪気でいられるわけがない。一見して「無邪気」とは、単なる「じゃじゃ馬」である可能性が高いので、その点に留意が必要である。

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人のやさしさ

 巨大地震後は都内もガソリンが不足している。巨大地震前に車に乗った際、「また乗る時にガソリンを入れればいいや。」ということでガソリンが10ℓ程度のままにしておいたのだが、今後いつ車が必要になるかわからない。電車がストップしたがどうしても実家に帰らなければならない場合等に備え、とりあえずはガソリンを入れておいた方が無難であろうと判断した。ネットで給油可能なGSを探しまくり、何とか探し当てたので、急行した。
 案の定、大行列ができていた。並んでからガソリンを入れるまで1時間くらい待っただろう。この非常時に乗るような車ではなく、人によっては非国民と思ったかもしれないが、私はこれ以外に車はない。趣味の車であるが唯一の足でもある。しょうがない。本日は日差しが強かった。オープンにしていたので、日差しのせいでフラフラしてきた。水分を取ろうと、沿道の店に駆け込んで急いで飲み物を買った。店の方はかなり協力的に接してくれたのがうれしかった。
 またしばらく待っていると、小さい女の子の手を引いた男性が話しかけてきた。「GSはもうすぐだよ。満タンOKみたいだから、心配しなくていいよ。」と。なんとも優しいお言葉。こういう時は、ちょっとした一言がうれしい。

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厭世的思考になってはならぬ!

 先週・今週と出張で浜松に行っていたが、昨日ようやく東京に戻ってきた。忘れもしない3月11日(金)の昼過ぎ。浜松も船酔いをするような長い揺れが続いたので違和感を感じていたところ、東北地方・関東地方で大変なことになっていた。先週は関東地方の被災県にある実家の家族に1日に何度も連絡し、当地の状況、家族の状況を事細かに把握した。実家の家族とは離れて暮らしているが、できる限りのサポートをすることを誓った。
 さて、現在の大変な時期においても、思わず口を滑らしてしまう人、当局等を批判するだけの人、火事場泥棒等々、残念な方々がいるのは事実だ。また、インターネット等ではいわゆる「正しくない情報」が流れているようだ。腹立たしくなるが、腹を立てていてもしょうがない。現在最も重要なのは、被害を食い止めること、被害者を救うこと、復興することだ。この数日間だけでも感動したことはたくさんある。日本は凄い国だと思うので、必ず復興する。これまでの歴史が証明している。大きな災難と言えば、関東大震災、第二次世界大戦、広島・長崎の原爆、阪神淡路大震災等々あるが、全て復興してきている。以下、ここ数日で感動したことを記載しておく。
①見ず知らずの人との会話が増えた
②世の中が節電ムードになった
③人々が駅で文句を言わず黙々と階段をのぼっている
④原子力発電所で危険な作業をしてくださる英雄が日本にいる
⑤自衛隊・警察・消防の方々も英雄だ
⑥世界各国の支援がある
⑦米国の投資家は日本の復興を信じていると言っていた
⑧(ストレスは計り知れないが)社会が一定の秩序を保っている
⑨友人らと連絡を取り合う機会が増え互いに安否を気遣っている
⑩赤ん坊の甥がすくすくと育っている
⑪こんな状況でも責任感を持って仕事をしている人達がたくさんいる
⑫電車・高速道路等が復活し始めている
⑬これまで顕在化していなかった日々の絆が目に見える
⑭日本人は悪く言えば自己主張しないが耐え忍ぶ強い国民だ
 シンガポールの友人が「Please take care of yourself and always keep thinking positive.」という心強いメールをくれた。今目の前で起こっている「不幸」は、今現在は「不幸」かもしれない。しかし、数々の「副産物」があることを忘れてはいけない。不幸を乗り越えたものにだけ与えられる「強さ」、「思いやり」、「人の心の痛みが分かる敏感な心」がある。「家族」との絆も再認識できるだろう。今現在は日本にとって「不幸」だが、将来的にはよりよい日本になるための「試練」であったと思える日が必ず来る。そう信じて、笑える時は笑って、毎日を大切に生きていこう。

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命あってこそ

 一昨日「家族の存在」という記事を書いた矢先、本日午後の東北地方太平洋沖地震により、危うい状況が続いている。私は出張で静岡県浜松市にいたため(帰京できず現在も浜松市滞在中)、関東地方ほどの地震の強さではなかったが、テレビで見る限り、関東地方では想像を絶する強い地震があったことが分かった。家族に何度も何度も電話をかけてやっと繋がったので話をしたところ、屋根の瓦がすべて落ち、壁にはひびが入り、食器は割れ、無残なあり様とのことであった。とはいえ、現時点で無事が確認できたため、ひとまずはよしとするしかない。
 現在も予断を許さない状況であり、地震や津波の可能性がある。こんな状況では、日頃の悩みが些細に思え、とにかく、命が無事であってほしいと願うばかりだ。
 「命あってこそ」だ。

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家族の存在

 久々にはまったテレビドラマで、全4話全てが終了した、「四十九日のレシピ」。評価は人それぞれだろうが、私は、この「四十九日のレシピ」が伝えたかったことを大切にしていきたい。
 長く生きれば生きるほど色々なことがある。まさに山あり谷ありだ。また、時には人の心を傷つけてしまったり、逆に自分の心が傷つけられたりする。自分が良い状態の時は(なんだかんだ言って)有頂天になり、やがて谷間に落ちて凹む。振り返れば、基本的には、こんなことの繰り返しではなかろうか。
 この点、特に谷の状態にいる時、最終的には自分でしかそこから這い上がることはできない。自分以外の誰かが身代りになってくれたり、埋め合わせをすることはできない。例えば、病気になった時、その病気を誰かが引き受けることはできない。悲しい気持ちを誰かが持ち去ったり埋め合わせをすることはできない。結局は「自分」しかない。しかし、こんな時に拠り所になるのは、「家族の存在」だ。色々な形の家族があるし、表現の仕方も様々だが、家族は自分に「共感」する。自分のことを誰よりも良く分かっているし、これまでに喜怒哀楽を共にしてきた実績があるので、家族が、今目の前にいなくても、支えてくれている。こうした家族の存在が原動力になり、「谷から這い上がろう。」という思いを抱き、具体的行動に移せることがある。
 新しい家族ができれば殊のほか嬉しいし、家族が亡くなれば大いに悲しい。これらの感情は理屈抜きだ。理屈などない。この理屈抜きの存在こそ、「家族」だ。

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脱力

 今日は思い切って「休む」と決めた。そんな日に限って自分にとって勉強になるテレビ番組に出会うことができるのだが、今日も例外ではない。4番組連続で見入ることになった。一方で、毎月1回は自分を振り返り、反省する時間を取ろうと決めていたのだが、今日をその日に当てようと考え、反省してみた。
 今年に入ってから、自分なりに精力的に頑張っていたつもりだが、裏を返せば、力が入り過ぎていたようにも思える。力が入るということは、ある意味、現在の自分を受け容れておらず、自分を痛めつけていることにもつながる。自分を痛めつけることは、それは「抑圧」であり、どこかで「歪み」となり、何かが起きることになる。これは私自身に限ったことではなく、世の中の人々すべてに言えることだろう。体調が悪くなったり、情緒不安定になったり、酒に溺れたり等々、様々な何かが起こるはずだ。私の場合は、特に心身に異変が生じたり、酒に溺れることはないのだが、自分の言動を振り返ってみると、日々の生活・仕事・趣味・社交等々で、「ちょっと力が入ってんじゃないのか?」と思えることばかりであった。
 私のメンター的存在であるO氏は言う。「すべては『脱力』だ。」と。最近は仕事のことばかり考えていた。まるで、「仕事のことばかり考えていれば仕事がもっとうまくいく。」とでも勘違いしていたかのように。今思うと怖いことだが、土曜日にクラシック音楽のコンサートに行った際、音楽そのものを楽しんだのは楽しんだのだが、演奏している楽団のビジネスの状況、楽団員達の人間模様、観客の平均年齢等々を考えてしまっている自分がいた。良く言えば「視野が広い」だが、悪く言えば「考え過ぎ」だ。純粋に音楽だけを楽しんでいればよいのにだ。
 そこで、以前からやろうやろうと思っていたことをとうとうやった。「脱力」という文字を書いて見えるところに貼ることだ。「脱力」という文字を書くことすらはじめは力が入っていたので、思い切って大胆に書くことにして書いたのが写真だ。ただ、一つ言えるのは、おそらくこの繰り返しだということだ。力が入っていた時の自分も自分だし、起こった事は起こるべくして起こった事だ。そこに気付いた時に、弊害があれば、軌道修正すればよい。あと、そういえば、お世話になっている美容師のK氏の言葉を思い出した。「2日悩んだら終わりね。それ以上悩んでも解決しないし精神的にきつくなるからね。」と。これもある種の「脱力」だと思う。

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父親

 本日は慌ただしい、肉体労働の日であった。心機一転、事務所の机とキャビネットを新しくするため、これまで使用していた机とキャビネットを、午前中に事務所から自宅まで運んだのだ。一人ではできないのだが、都合のつく友人がつかまらず、父親にサポートしてもらうことになった。また、大きなものなので普通の車では運べないことから、私のお客様から軽トラを借りた上で運ぶことになっていた。さらに、机とキャビネットを運んだ後、私は、友人Iから電子ピアノをもらうことになっていた。ただ、その友人Iは夜にならないと自宅に戻らないことから、夜までの時間を父親と過ごすことになった。つまり、本日は、午前の部の配送と夜の部の配送の2本立てと、午後の部は自由時間となったわけである。
 午前の部終了後に軽トラを返したわけだが、そのお客様の所在地は川口市。川口といえば川口オート。私も一度行ってみたいと思っていたし、父親がオートバイが好きなので、午後の部の自由時間は川口オートに行くことにした。オートレースと言えば、私が高崎市に住んでいた頃、父親に伊勢崎オートに連れて行かれたことを鮮明に記憶している。当時は、私はオートバイや車にさほど興味がなかったことから、オートレース場に鳴り響く爆音やオイルの焼けた匂いは好きではなかった。ちなみに、父親も、幼い頃に叔父に大井のオートレースに連れて行かれた記憶があり、それ以来オートバイが好きになったそうだ。血は争えない。子供というものはなんと純粋無垢なのか。あらゆることに刺激を受け吸収し、自らの人格を形成していく。
 さて、第10レースから参加したわけだが、父親は4,000円ほど投資して回収額ゼロ。私は1,000円投資して回収額1,440円。そもそもギャンブルを目的にして来たわけではなく、オートレースの雰囲気を味わいに来たから結果はどうでもよいのだが、父親が嬉しそうに楽しんでくれたので、それがなによりだった。
 ある出来事を契機に、その出来事から副産物を得た。その副産物とは家族の絆の強化だ。もともと私の家族は普通にワークしている家族であったが、最近は結束がより強固になった。これからも機会があればこうやって家族と接し、家族のことをもっと知りたいと思っている。

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ストレス発散

 本日も充実した日々でした。午前中から記帳代行の入力作業、午後も同作業。ただし、午後は、先輩会計士のA氏から連絡があり事務所近くをお茶をしながら情報交換、九段会館で税理士関係の手続、そしてまた入力。夜は私のクライアントでもあり、今後協業によりお互いの発展を確認するためのミーティング等々。その後、高校時代の友人とお互いに羽を伸ばしながら情報交換。
 と、これだけだと、よくありがちな単なる日記的Blogになってしまいますが、そうではなく、改めて気付くことがあります。最近はなんだかんだ言ってストレスが溜まっていました。もっと言うと、ストレスをストレスと感じないままストレスがありました。人間の行動は正直にできています。ストレスが溜まっているときはおかしな行動をします。ストレスが溜まっているとバランスを崩します。
 みなさん、ストレスが溜まっている自分を認めましょう。そして、人に迷惑をかけずに(=変なことを言わない、変な行動をとらない等々)ストレスを発散しましょう。当たり前のことなのですが、ついつい無理をしてしまうものです。この点は、本日最後の行動である友人との情報交換で再確認できました。この友人は最近転職をしました。しかし、彼はいい意味で「脱力」しているので、どんな環境でもやっていける人間です。そして、人並みにやることをやっています。たまにはバカ騒ぎしてますか?バカな話をしてますか?恰好をつけないで、ストレス発散しましょう。自分のためです。人のためです。いい仕事のためです。

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2011年2月開始!!!

 2月と言えば節分です。節分とは、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことであり、「季節を分ける」ことをも意味しています。なお、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらいが豆撒きですね。さて、「鬼」という言葉を聞くと、「泣いた赤鬼」を思い出さずにはいられません。以下は泣いた赤鬼の概要です。幼い頃に母に絵本を読んでもらい、心底悲しくなって泣いたことを何となく覚えています。絵本は人間の心にダイレクトに響きますし、非常にシュールなものです。
山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼は、人間たちとも仲良くしたいと考えて、自分の家の前に、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」と書いた、立て札を立てました。
けれども、人間は疑って、誰一人遊びにきませんでした。赤鬼は悲しみ、信用してもらえないことをくやしがり、おしまいには腹を立てて、立て札を引き抜いてしまいました。そこへ、友達の青鬼が訪ねて来ました。青鬼は、わけを聞いて、赤鬼のために次のようなことを考えてやりました。
青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば、人間たちにも、赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう、と言うのでした。しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。
計画は成功して、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。毎日、毎日、村から山へ、三人、五人と連れ立って、出かけて来ました。こうして、赤鬼には人間の友達ができました。赤鬼は、とても喜びました。しかし、日がたつにつれて、気になってくることがありました。それは、あの日から訪ねて来なくなった、青鬼のことでした。
ある日、赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみました。青鬼の家は、戸が、かたく、しまっていました。ふと、気がつくと、戸のわきには、貼り紙がしてありました。そして、それに、何か、字が書かれていました。
「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼。」
赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました。
 これは本物の「愛」です。青鬼になるのは無理だとしても、少なくとも、1つ1つの目先の損得にこだわらず、「損して得取れ」の余裕をもって、人や物事に接したいと考えています。まだまだ未熟ですので、足元の状況に余裕がないと大らかさを失いがちです。大人になると、他人はいちいち「指摘」してくれません。他人に指摘を求めること自体が甘えです。昔々、金八先生が言っていました。「自分の頭で考え、自分で決断し、自分で責任を取れ。」と。

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波乱の1月~天の声~

 もうすぐ1月が終了し2月になる。案の定、1月は怒涛のように過ぎていった。毎年のことだが、「どうせ1月は瞬く間に過ぎ去ってゆくのだろうな。」と思っていると、本当にその通りになる。1日1日を粗末にしているということは毛頭ないが、どうしても慌ただしく過ぎていく。
 そんな今年の1月は色々なことがあった。良い出来事も悪い出来事も。心折れそうになることもあったが、そこから掬い上げてくれるようなこともあった。何とも不思議なことなのであるが、私は、これは「天の声」であると捉えることにした。すなわち、1月というのはその年の初めの月である。ある意味、その年をどのように過ごすのかの試金石ともなり得るのではないだろうか。私の場合、いわゆる正月は順調に滑り出したが、1月第2週目に谷底のような所に陥り、1月第3週目に這い上がった感じだ。そして最近、なんだかブルーになることもあった。それら1つ1つの出来事に一喜一憂するのではなく、「今年はこういうことに気をつけるんだよ。」という「天の声」として、私は捉えたい。
 そもそも私は喜怒哀楽がはっきりしている方なので自分自身にとっても分かりやすい自分である。あまり悩んでも仕方がない。日々新鮮であるし、総じて幸せな毎日なのであるから、どんな時であれ、1日1日をしっかりと生きることが重要だ。きれいごとを言うつもりもない。どんな状況であれ、どんな自分が見え隠れしても、それらすべてが自分の人生、本当の自分。よく「自分探し」とか「自分らしさ」という言葉を耳にするが、「自分」はどこか遠くにあって、探し当てるものではないと考えている。良い面も悪い面もすべて自分だ。今ここにいるのが自分だ。そう考えれば、悲観することもないし自惚れることもないはずだ。
 それにしても、山ちゃんは完成度が高い。

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べえ独楽と人生

 税務のお客様であるGSに用事があって行ったところ、非常に驚いたことがあった。なんと、40代・50代のおじさま方が、真剣にべえ独楽をやっているのだ。噂には聞いていたが、本当にやっているとは。自分も誘われて、生まれて初めてやってみたが、なかなか難しい。最初のうちは力が入ってしまい、うまく土俵に上がらない。土俵から落っこちて地面でくるくる回るありさまだ。だんだんやる気がなくなって帰りたくなってきたのだが、ここは考えを改めて、いっそ力を全く入れないでやってみることにした。すると、土俵に上がる確率が格段に上がり、だんだん楽しくなってきたのだ。気が付くと1時間くらいやっていた。
 日々生活していると、自分の中でバランスを崩すことがある。人間の気持ちはコロコロ変わるもので、全世界が自分の味方に思える時と、全世界が自分の敵に思えること、の両方がある。人間とはまことに勝手なものだ。独立開業しているといろいろな試練があって、これでもかこれでもかと押し寄せてくる時がある。そんな時は、もう2回ほどこのBlogに書かせて頂いた、永平寺の故宮崎亦保禅師の御言葉を思い出す。「死ぬ時が来たら死ねばいいんや。それまで平気で生きておればいいんや。」と。
 力が入りすぎると独楽がうまく回らないように、力を抜いて、フラットな気持ちで生きていく。そうすれば、思わぬ出来事や出会いがあり、人生が面白くなっていく。これこそが、独立開業という、仕組み自体はシンプルな道を選んだことの醍醐味だ。べえ独楽一つとっても気付きがあるとは、これまた驚いた。

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運は使い果たすものなのか?

 なんだか宗教じみた画像の掲載となってしまったが、「運」の画像をググってみると一番に出てきたので掲載することにした。実は、本日は私の属する業界の地域会の新年会があり、参加させて頂いたわけだが、その会で催されたくじ引きで、一等賞が当たってしまったのだ。商品はPanasonicのナノケアだ。
 それにしても、私はそもそもくじ引きに当たる性質(タチ)ではない。当たる確率はめっぽう低い。ただ、いまふと思い出したが、当たる時は大きなものが当たり、これまでに、自転車(一等賞)、蟹詰め合わせ(一等賞)が当たったことがあるから、くじ引きの引き、もっと言うと、私の「運」に関して、どのように考えればよいのだろうか。くじ引きに当たると、「もうそれで運を使い果たした。」などと言われることがあるが、果たして、「運」とはいかなるものなのであろうか。
 結論付けることは困難だが、本日のこの出来事は、私なりにプラスに捉えることにした。すなわち、「特に期待していなくても、いいことはある。」ということだ。捨てる神あれば拾う神あり。物事というものは、捨てなければ新しいものは入ってこない。とてつもなく広い保管場所があれば別だが、家財道具でも服でもなんでも、何かを捨てなければ新しいものは入る余地がない。
 本日頂いたナノケアは、今年の新たな「身入り」の象徴としたいものだ。

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よき仲間

 人間の風習はよくできている。冠婚葬祭がその最たる例であり、冠婚葬祭というイベントの下に、家族、友人、会社の人、地域の人が集まり、そのイベントを執り行う。冠婚葬祭という理由であれば、会社を休んだり、早退できる訳だから、冠婚葬祭が人間の生活にとっていかに大きなものであるか、思い知らされる。
 本日は高校時代の友人の結婚式があり、高校時代の友人が終結した。みなそれぞれの人生を歩んでおり、この歳になると色々な意味で貫録が出てくるものだ。我々高校時代の仲間は、出演依頼に応じ、毎回違った出し物を披露する、いわばダンサーだ。上写真は、本番前の待ち時間におけるワン・ショットだ(左から、ジョージ、N社長、私)。極寒の青山の空の下、パンツ(ふんどしの者あり)一丁で本番を待っていると、本当にダンサーのような気分になってくる。当然といえば当然だが、重要なのは「真剣にやる」ということだ。準備の段階から本番に至るまで、真剣に議論し、真剣に事を決め、真剣に披露する。今回の出し物は、年末年始の休みの関係で、本番前日に初顔合わせをし、形を作るという、非常に切羽詰まった状況にあった。衣装は「ふんどし」がいいのか「競泳用水着」がいいのかについて、真剣に議論した。この衣装の議論だけで30分は費やしたのではないだろうか。また、大きく2つの出し物がある中で、この2つの出し物をつなぐCMソングは何がよいのか、についても30分くらい議論した。「こんな30代後半はいねえよな、俺達馬鹿だよな。」とか言いながら、その場を楽しんでいる。
 結婚披露宴の挨拶で、新郎の会社の社長が仰っていた。「青年にとっての貯蓄は、お金ではなく、経験だ。」と。「青年」の定義はさておき、このことは肝に銘じておくべきだと考えた。「十分なお金がないのであれば、その分、様々な、多くの経験をするべきだ。」という風に自分をもっていけばよいのだ。
 結婚式に参加した高校時代の仲間。それぞれどのような想いで結婚していく友人を眺めていたのか。いい時もあれば悪い時もある。それぞれ違った悩みがあろう。そんな中に、こういった冠婚葬祭というイベントの下に集結し、久々に仲間と時間を共有する。これほど尊いものはない。

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2011年1月1日

 あけましておめでとうございます。本年も「なぜ会計士EBJはうざいのか?-独立系会計士の思念-」を宜しくお願い申し上げます。
 年末年始は、ほぼ自分の思い描いていた年末年始となった。「紅白歌合戦」の後に「ゆく年くる年」を観ながら新年を迎え、寝る。起床後、雑煮を食べ、家族で神社にお参りをする。墓参りをする。年末年始の過ごし方は人それぞれであろうが、私にとっては、いかにも年末年始らしい過ごし方をした。ところで、家族での神社へのお参りと墓参りは、散歩も兼ねて徒歩で行った。車だと混雑するという理由もあるが、年末は運動不足気味だったことが一番の理由だ。上写真は散歩の途中に見つけた沼である。両親によれば、私が小さい頃に何度か連れて行ったことがあるとのことであるが、私にはその記憶がなく、「こんな沼がここあったのか!?」と、なんとも新鮮なものであった。このように、散歩をすると新たな発見があり、気持ちがよい。また、IphoneのMapを使えばショートカットを教えてくれるので、普段は通らない道を通ったりして、またまた新鮮だ。そんな新鮮さと同時に、この何気ないひと時を過ごせることに、幸せを感じるのであった。
 こうしたことを受けて思うのは、人間は、何か特別な出来事よりも、何気ない日常のひと時こそ、記憶に残るのではないだろうかということである。後になってじわ~っとくるのは、陽が燦々と差し込む居間で飲んだお茶の湯煙だったり、母親が残り物を食べていたり。こうしたひとつひとつのことを大切にしながら、仕事では肉食系の要素をもっと取り入れて、励んでいきたい。おみくじによれば、他人の力も借りながら、利益をあげることになっている。昨年もなかなかいい年だったが、今年はもっといい年になるよう、努力していきたい。

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何かを共有するということ

 週末に奥多摩にツーリングに行った。仕事や法事などで夏のツーリング以来参加できなかったので、殊のほか楽しみにしていた。総勢8台のフェアレディが6:00AMに外環新倉に集結し、奥多摩に向かった。
 私自身もそうなのだが、運転席にしろ助手席にしろ、フェアレディに乗っている時に、ふと何かを考えていることがある。車が車だけにボーっとしていることはできないのだが、ふと、何かを考えるのである。参加された皆さんは何を考えていたのだろうか。一つ言えるのは、それぞれ異なった環境で生きている人達がフェアレディという車を通して同じ時間に同じ場所に集まり、行動を共にするというのは、非常に興味深いものであるといういことだ。極端な表現をすれば、それはフェアレディの家族だ。そしてフェアレディの人格的なものがフェアレディに乗っている人そのものだ。
 フェアレディのオーナーには、いわゆる「一人親方」が多い。非常に個性的である。人も車も個性的なのだから、面白いし、勉強にもなる。

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善と悪

 世の中には暗い出来事が多い。自分の身の回りにも、自分とは遠いところでも。戦争、テロリズム、犯罪等々。それらの情報に触れるたびに、どうしても、世の中を善と悪の二元論で考えてしまう。
 いてもたってもいられなくなって、先輩会計士のN会計士に思いをぶつけてみた。その結果、N会計士は現実的な例を出しながら、実に腑に落ちる考えを述べてくれた。すなわち、「世の中の出来事や人間には清濁混在しており、そもそも清と濁を明確に区分できないものだ。確かに、世の中には悪と言われるものがある。しかし、自分自身はどうだろうか。(自分から見て何かを「悪」と考えるのは自分の考えが「善」であることを前提としているからであるが)、自分だって「悪」の部分は持っているのではないだろうか。つまり、自分自身にも清濁入り混じっているのではないだろうか。この仕事に置き換えてみれば、自分も最初の頃は「清」であろうと努力していたが、いくらそう努力しても、結果として「濁」が生じてしまうことがある。お客さんから報酬をもらっているにもかかわらず、結果としてどうしても「濁」が生じてしまうことがある。私はそれは、極端にいえば、詐欺であるということもできると思う。しかしながら、その点について開き直るのではなく、詐欺とならないように努力している。」と。
 つまり、世の中の「悪」「濁」について憂いるのはある意味ナンセンスであり、まず、自分自身にも清濁あることを認めることが必要だ。それを認めるならば、あとは程度の問題である。戦争、テロリズム、犯罪等々が目立つのは、ごく平凡な生活の中の「悪」「濁」と比べれば、「悪」「濁」の側面があまりにも強いからである。
 以上から、本日の結論は、「自分は『善』『清』である、世の中は腐っている。」といった「自惚れ」を抱かないことが肝要だということである。世の中に清濁入り混じっているのと同様、自分自身にも清濁入り混じっているのである。それが長所と短所であり、ある一面と他の一面なのである。このように考えるならば、この世で生きるのがもっと楽になるだろう。

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永平寺第78代貫首 宮崎亦保禅師の悟り(再)


人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。

それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 心に染みるお言葉です。泣けてきます。自分の両親や自分の祖父母、いや、世の中の中高年の方々を時には思ってみて下さい。きっと色々な事があったでしょう。他人の想像を絶することがあったでしょう。それでも日々生きているのです。どうせ何度も大きな壁にぶち当たるのだから、先を案じ過ぎず、いつもやりたいように行動すればよいと思います。

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体の声を聞く

 時には、体の声を素直に聞くのがよい。大病を患った人がそれまでの自分の生活を振り返り、「そういえば、あの時は妙に・・・だったな。」とか「あの時の・・・が響いたのだな。」という話をよく聞く。
 早いものでもう12月である。気がつけば、12月の夜の予定はどんどん埋まっている。ただでさえ寒くて、風邪っぴきが増えて、体調管理が難しい中、連日のように夜に酒を飲むとなると、体にこたえないわけがない。「全然平気だ。」という方もいるが、おそらく、体の声が聞こえていないだけだと察する。
 ある大先輩の会計士でが、「健康第一ではなく、健康がすべてだ。」と仰っていたことが印象的で忘れられない。その会計士は若い頃に過労で大病を患ったという。ある意味、過労と言えるほど仕事をしてみたいが、やはり健康あっての仕事だ。結局、体調が悪いといい仕事ができないし。
 時には、自分の体の声を聞こう。おいしいものを食べるのではなく、自分の体が求めているものを食べよう。できれば、自分のために自分で料理を作ってあげる。自分に対する労りである。

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幸福論④

 いつも考えてばかりだと疲れてしまうが、やはり、「幸福」については、折を見て考える必要がある。そう考えたきっかけは2つ、今日の出来事だ。
 1つ目は、銀座での出来事。今日は久々に買い物をする日と決め、買い物リストを基に、午前中から買い物をした。最近は以前のように物欲で何かを満たすことはなく、つまり、物欲を満たすことでは幸福は得られないことに気付いたので、必要なものしか買わない。なので、銀座で買い物をすること自体が久々だ。私にとって銀座といえば、テイジンメンズショップ。社会人になって以来、服は大体テイジンで購入しており、そこの名物店長I氏には、服のことのみならず、時には男の生き方のようなものを教わっている。I氏は銀座で数十年、様々な男性を見てきている。服のアドバイスとフィッティングは的確で、私がどのようなものが好きかを熟知している。また、社会人になって以来の私の生き方を見てきている。そんなI氏に会うのは半年ぶり位なのだが、私の今年最大ともいえる出来事を、ちょっと余計なことも言いつつ報告したところ、「『幸福な生き方とは何か』を追求しなさい。」とのことであった。I氏とここまで距離が縮まっていたのかと多少嬉しかったし、もう義理(『たまには顔を出さなきゃな。』と思い込んでいた。)のような感情を持つ必要がないことを感じて楽になった。これまでにもう散々ファッションには金をつぎ込んできたので、もういいんじゃないの、ということだ。もう「実質」のみを追求する時が来たのだ。あと、仕事の面で、「仕事は順調なの?」と聞かれたので、「いや~、まだまだ理想には程遠いです。」と月並みの回答をしたのだが、「そんな、その歳で理想の形になるなんて無理だよ。逆に理想の形になっていたら、気味が悪いよね。」とのこと。ははぁ~っ、仰る通り。
 2つ目は、NHKスペシャル。ヒマラヤのチベットの天空の集落で暮らす人々は、生活必需品を買うために、標高4,600m以上の山々を行き来するのだが、行き来する道は絶壁を崩して細い道にしただけの道であり、人と馬がやっと通れるほどのものだ。ちなみに、馬を使うようになったのは7年前とのこと。これまでに数え切れない人と馬が亡くなったそうである。主人公は妻のために洗濯機を街で買って集落まで運ぶ男性なのだが、インタヴューに対し、「一生この運搬を続けたい。塩とお茶さえあれば生きていけるし、馬が4頭いるので、私にはこれ以上望むものはない。」とのことであった。清らかな目で真剣に語っていたのが印象的であった。僭越ながら、最近は、人の目を見ればおよその人となりが分かるようになってきた。「『自然に』清らかな目」をしている人は、自分自身を知り、自分の幸福を探し当てた人だと思う。
 ネガティブな感情が湧きおこり、「今、自分は幸福ではない。」と感じる時、人は既にある幸福を忘れ、言い訳をし、人のせいにする。すべては自分に原因があり、責任があるのに、人に求める。物に求める。さらなる要求をする。きりのない要求をする。そんな時こそ、「今ある幸福」を再認識し、感謝するのが一番だ。「感謝、感謝」などと口先ばかりの感謝など必要ない。何か問題が生じ、今ある幸福を再認識した時に感謝できれば、それでよい。

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球体=自然体

 「地球の出」は好きな写真の一つだ。地球の出は、「昼」と「夜」、すなわち、「陰」と「陽」を示している。換言すれば、物事の捉え方を端的に示しているのだ。
 最近、「これは無駄だな。こんなことばかりしていては、自分の首を絞めることになる。しかし、そのことを指摘すれば角が立つ。」ということ(以下「Xの問題」という。)があり、すこし悩んでいた。当事者に言うべき言わざるべきか。結局言わずに済んだのだが、その理由は、「あながち無駄ではない。」ということが分かったからである。というのも、実は、Xの問題について悩む以前に、「Zの問題」という根本的な問題があり、このZの問題を解決する上で、どうもXの問題がネックになっている、と思い込んでいたのだ。したがって、まずはXの問題を解決しなければならないと躍起になっており、それが目的となっていた。ところが、そもそも、Xの問題があろうがなかろうが、Zの問題が解決されれば良いわけである。そこを忘れていたのだ。そうこうしているうちに、実はXの問題も「問題」というネガティブな一面も確かにあるが、時にはポジティブな一面もあることを再認識できたのである。むしろ今回は、Xの問題にやむなく向き合っているうちに、Zの問題に関する何らかの糸口が見えたのである。
 長くなったが、つまり、物事を「良い」「悪い」の二元論で捉える事が正しいとは限らないということである。「地球の出」の写真のように、球体に憧れる。球体は「自然体」だ。人間も、いつも自然体でいられたら、どんなに楽だろうか。惰性で生きるのは悲しいが、自然体で柔軟に生きることができれば、争いは少なくなるだろう。

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Memory of Smile

 ここがどこかわかるだろうか。なんだか、北アフリカの某都市を地中海側から眺めたようにも見える。実はお台場だ(すぐ分かった方もいるだろうが)。
 ふと夜の海が見たくなったので車をとばした。しかしひとつ失態が。ガス欠になりかけていた。気がつけばフューエル・メーターがエンプティを指したまま1時間近く走っていたので、さすがに青ざめた。親切な方がいて有明にあるガソリンスタンドを教えてくれて、そこでガソリンを入れてから、再びロマンチスト・モードに戻った。
 男はロマンチストだ。繊細だ。時には女性よりも。今日の夜、海が見たくなったきっかけは、「Memory of Smile」という曲。大野雄二さん作曲で、山田康雄さんがルパンの声で歌っている。秋のよい季節だし、車も調子がよいので、この曲を聴いていたら、ふと海が見たくなった。しかし、お気に入りの場所に着いたら、ガキどもがバイクの修理と試運転をしていてうるさい。これが船の汽笛だったら。。。
 そんなわけで、タバコを1本吸っただけですぐに引き上げた。それにしても、いい曲だ。歌詞は月並みといえば月並みだが、全体的に、ぐぐっとくる曲だ。いつかラッパで演奏してみたい。

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最期の時

 映画『俺たちに明日はない』で機関銃で蜂の巣にされる直前の場面。フェイ・ダナウェイ演じるボニー・クライドが、ウォーレン・ビーティ演じるクライド・バローを見つめている。なんとも愛しみのある顔である。死を察知したにもかかわらず最期にクライド・バローに微笑みかける。なんとも美しい愛である。
 私は、映画『俺たちに明日はない』が大好きである。たまに自宅で体を休める日を作った時などに思い出したように観賞している。ストーリーも美しいが、服装や車等々、細部に気を使っていることが分かる。英語の勉強にもなる。銀行強盗を繰り返す彼らには追手(警察)が迫り、状況が日増しに悪化していく。だんだん安らげなくなっていく。そんな極限の状況で、様々な葛藤がありながらも、二人は愛し合っている。
 どんな状況においても、自分の軸がしっかりしていれば、幸せになれるのである。換言すれば、幸せは自分で見つけるものである。

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Singaporeでの生活で学んだこと

 JICPAの某基金による海外派遣の機会を頂いて、一週間ほどシンガポールに滞在した。ほぼ同年代の他の10名の公認会計士の先生方と寝食をともにし、昼間は勉強や企業視察、夜は様々な見聞を深めた。
 私は副団長という立場もあったので、とにかく、何事も積極的にやろうと決めていた。昼間の授業では単に座学に終始するのではなく、担当教授から何かを引き出そうと考えていた。企業視察においても、シンガポリアンに積極的に質問し、本音みたいなものを引き出そうと考えていた。
 そんなこんなで過ごしていたわけだが、前半はシンガポールに関する「誤解」をしていたように思えるし、後半はその「誤解」が少し解けたように思える。私はどうしてもこういう方向に持っていかなくてはすまない性分なのだが、やはり、「人」は皆「同じ」面がある。どんなシステムの国でも同じ面がある。以下、五月雨式だが、誤解に関するBefore・Afterを書き留めておく。変化が生じた理由は、やはり「人」である。シンガポリアンと会話をし議論をし、街を自分の目で見、ローカルの食堂で食事をして、YoutubeでLee Kuan Yewの動画を観たりしたことである。ちなみに、今回は3回目のシンガポールである。
【Before】
①シンガポールって国は確かにすごいけどそこで暮らす人々は幸せなの?
②相変わらず国全体がお台場みたいですぐに飽きそうだな。
③よく日本と比較されるけどなあ。
④そもそも日本とシンガポールはバックグランドが違うよね。やりすぎなんじゃないの?
【After】
①’何人だろうが幸せは自分で見つけている(例 海辺の芝生でピクニックをしたり凧あげをしたり)。
②’たしかにお台場的イメージが強いがそれだけではない。ちゃんと糊代を用意している。
③’シンガポールから学ぶ面もあるが日本もすごい。いや、日本の方が凄い面もある。
④’発展途上国がよくぞここまで頑張った。すごい。Lee Kuan Yewはやっぱすごい。
 何事も、ある一面だけをみて判断してはいけない。かならず誤解をする。誤解ほど空しいものはない。誤解は人間の成長を阻害する。やはり、いつも自然体で人や物事に接し、お互いにOPENにコミュニケーションをすることが大切である。この点、最後の夜は、たわいもないことも含めて、シンガポリアンと楽しく会話ができてよかった。
 そうそう。そのことに胡坐をかいてはいけないが、やはり日本は世界的に一目おかれている。これは、我々の先人達が築いてきたものがあまりにも大きかった証であろう。シンガポールでもしかりであった。日本人として、今後とも頑張っていきたいという決意を新たにした。
 最後に、やはり、人と寝食をともにし、何かを一緒にやる、という経験は何物にも代えがたい。特に今回のケースは、独立開業していなければ経験することができなかったであろう。今回出会った仲間とは何かしら縁があるのだろうから、今後もどこかで繋がっていくことだろう。

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尚仁沢湧水

 今日は両親と尚仁沢の渓谷を散策し、温泉につかり、鮎をほうばった。親が元気なうちにこんな日が何度あるのかと思うと、尊い一日だった。独立開業の理念がここに生きている。独立開業の理念の一つは、自分らしく、バランスよく生きること。さっ、明日から稼ぎたくなってきたぞ。

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1945年8月15日

 大東亜戦争について語る立場として、次の2つがあると考える。①歴史・地理・教育制度等を総合的に多面的に勉強した上で「戦争全体」について語ること、②ある一面について語ること。私は早く①で在りたいと考えているが、①で在るまで待っていては常に閉口していなければならないので、勉強不足であることを認識しつつ、なるべく偏りがないように語ることにしている。
 ただ、世の中には②の人がいかに多いことか。代表格はテレビ番組のコメンテーターや街角でインタヴューされる人。在る一面を原因や結論のように語る。全く説得力がないし、腹立たしくなることがある。
 この点、作家の浅田次郎氏は言っていた。「戦争自体は悪いことかもしれないが、そこに参加した人々までを愚かしいと言うことは嫌いだ。」と。私は全く同感だ。これは戦争に限ったことではないが、何かについて語る時、その事象・人の背景や当時の歴史、教育等につい知って初めて、その事象・人の意味がわかるはずだ。
 私の祖父や彼を支えた祖母を含めて、当時の日本人はどのような気持ちで戦争の中を生きてきたのか。そういう慮る気持ちを持ちながら、もう一度大東亜戦争について考えてみてはいかがだろうか。
 それから、人間の「死」とは、肉体的に死ぬことと、人々の記憶から消えること、の2つの死があるという。そのような意味で、一昨年に亡くなった祖母は死んでいない。今日は祖母の生き様について思い巡らすことになった。祖母は記憶から消えていない。
 おお、やはり、8月15日は特別な日だ。

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幸福論③

 本日の午前中は、印鑑証明を取得するために区役所に行った。家からは近いが、地下鉄の駅から距離のあるところにあり、印鑑証明を取得して駅まで行くのに、しばらく歩くことになった。「クソ暑いな。」と思いつつ歩いていたのだが、ふと、木々の緑が美しく見え、空を見上げると太陽がいかにも夏らしくさんさんと輝いているのが微笑ましく思え、「ああ、日本には四季があり、夏のこの暑さも、汗が出るのも、心地よいな。」と、「幸せ」を感じたのであった。
 一旦幸せを感じてしまうと、電車に乗っても、居眠りをしている茶髪の女性が寄りかかってきても不快には思えず、目の前のあまり品のないおじさんを見ても、微笑ましく思える。いろいろな表現の仕方があると思うが、人間は勝手なものであり、同じ自分自身でも、ある時は意気消沈し、ある時は質実剛健になる。実のところ、ここ2週間くらいは仕事があまり乗らないことが多かったのだが、本日、「自然の立派さ」に元気をもらったのである。自然は偉大である。また、都心にいても自然を感じることはできる。
 「すべては自分次第である。」ということを、ここ2週間くらい、忘れていました。

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両親の健在に感謝

 私自身がもう35歳。両親は60歳代となった。60歳というと「老」という文字がちらつかないわけにはいかないが、たしかに、「老」なのである。ある本によると、親と同居していない場合に親と共にすることが時間は、相当限られてくるとのこと。確かに、こちらはこちらで日々の生活が流れていくため、「親に会う」ことを意識しないと、親と会う機会はめっきり少ない。
 「親孝行」らしいことはまったくできていないが、最近は、「親に会う」ことを意識している。やはり何といっても、自分の一番の理解者は親だ。母は常々言う。「子供はいつまでたっても子供だよ。」と。嬉しい限りだ。心強くもある。しかし同時に、一抹の不安が頭をよぎる。というのも、親はいつか死ぬ。親に甘えているつもりはないが、心のどこかで甘えていることは否定できない。こんなことでいいのだろうか、早く確固たる「軸」を確立しなければ、自分は親が子供にしてきたように出来るのだろうか、などと、「焦り」のようなものが出てくる。一方で、ある女優は、「親が生きている間はとことん甘えてよい。」と言う。その意味(特に親の立場から)もわかる。
 いずれにせよ、いま両親が健在なことは何よりの幸せである。6月21日は父親の63歳の誕生日だ。感謝しなければならない。

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仙台の友人U

 仙台にUという友人がいる。Uは東京でのOL生活を謳歌していたが、旦那さんの仕事の都合により、現在は仙台に住んでいるそうだ。私はそもそも夜遊びをそんなにしないので、ベトナムに来ると、様々な情報をインターネットで入手するのが習慣となっている。そういうわけで、特にベトナムでは、主な知り合いのBLOGには目を通している。UのBLOGも例外ではない。
 Uは同郷M市の友人である。いい奴だ。その経緯は憶えていないが、私が公認会計士第二次試験に合格した際、真っ先にその旨を連絡した友人がUであった。合格発表当日だったか、Uは、同郷M市の友人達に連絡を取り、急なタイミングにも関わらず、多数の友人を集めて一席設けてくれた。渋谷の「いろはにほへと」だったか、それはそれは大人数で、殊のほか楽しいひと時を過ごさせて頂いた。私の大学の恩師が常々言っていた。「人生で心の底から喜べることの数は、5本の指に入る程度である。(何らかの試験の)合格、(一概には言えないが)結婚等々である。」と。「5本の指に入る喜びは、心の底から喜ぶべきだ。」と。
 喜怒哀楽を共有してくれる友人がいるということは、素晴らしいことである。同郷M市の友人達は高校時代の友人であり、大学・会社がそれぞれ異なる環境であるゆえ、疎遠になる人、話が合わなくなる人等々、温度差はあるものの、ある一時点で一堂に会し、楽しい時間を共有したのは事実である。私は、彼らの恩を忘れていない。いつか彼らの役に立てれば幸いである。

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幸福論②

 「幸福論①」に続き、今回も「幸福」について考えてみた。現時点で思うことは、ごちゃごちゃ言う前に、やはり、「『幸福』とは、現時点の自分を振り返り、自分で見つけるものだ。」ということだ。
 現時点の自分の「幸福」を例示列挙してみよう。あくまで例示列挙なので、「以下に記載していないことについては幸福を感じていない。」ということではない。ブレインストーミング的に湧き出てきた事項を記載したのみである。
 
 ①両親が健在で、最近は、密で深度あるコミュニケーションがとれていること。
 ②(いろいろ苦労もあるが)仕事があり、東京で暮らしていること。
 ③将来の仕事の展開に希望が持てること(=前向きでいられること)。
 ④知り合いの知り合いなどから思いがけない仕事の問い合わせがあること。
 ⑤出身国・老若男女問わず、訪れる各国で、素晴らしい出会いがあること。
 ⑥N氏・I氏と出会い、事務所をシェアさせて頂き、仕事上も励みになること。
 ⑦自分を気にかけてくれる先輩・友人がいて、時々メールをくれること。
 ⑧「人間力」に関する様々なアドバイスを根気強く教えてくれるO氏と出会ったこと。
 ⑨車の師匠であり、お客様でもある、S氏と今でも繋がっていること。
 ⑩中学・高校・大学と、個性的で忘れられない恩師に恵まれてきたこと。
 ⑪K氏との再会により、海外での仕事を経験できたこと。
 ⑫ベトナムのA社の社長が、自分を気遣い、自宅に招いてくれたこと(「菊水」を鱈腹飲んだ)。
 他にもたくさんあるが、とりあえずこの辺に留めておこう。このように、自分を振り返ると、1つ1つの出来事がありがたく思える。自分のことばかり考えていないで、意識を他者に向けると、「人」が愛おしく思える。これは不思議なことだが、自分の心次第で、「世の中のすべてが敵に見える」こともあるし、「世界中のすべてが自分の味方に思える」こともある(村上龍が同じことを言っていたかな)。すべては「自分の心」次第。現存しない飽くなき幸福を求めるのではなく、折を見て、今ある幸福を噛みしめたいものだ。

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4

 本日は平成22年4月4日。2の倍数だらけだが、私は「4」に着目したい。
 日本では、一般的には、「4」という数字は「シ(死)」とも読むので、縁起が悪いとされている。しかし、私にとって「4」とは、縁起の良い数字なのである。例えば、公認会計士試験を4回目でパスした。大手監査法人では、監査業務を4年、FAS業務を4年、と、4年で変化が訪れている。プライベートでも、4年で変化することが多い。「石の上にも3年」と言うが、私の場合は「4年」である。人よりも物事の習得期間が1年遅いのかもしれない。
 成長曲線というものがある。X軸を時間の経過、Y軸を成長度合いとすると、しばらくの間は、時間の経過にかかわらず、成長度合いは横ばいで推移する。しかし、成長度合いが乗数的に、飛躍的に伸びる「その時」が来るものだ。継続していることが前提だが。
 良い意味でも悪い意味でも「あきらめ」が悪い私は、時には「さっさとあきらめて、ばっさり切り捨てる」こともあるが、基本的にはあきらめない。そういうわけで、ある人は3回または3年で結果を出すかあきらめるところ、私の場合は4回または4年まで引っ張るのだろう。

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父親

 ここ2年くらいは、両親と話をする機会がめっぽう多くなった。それまでは、両親と話をすると言ったら、たまに実家に帰省した時くらいであり、特に話をする必要性を感じていなかったというのが正直なところである。特に、父親と対面して、サシで話をすることなど、これまでに何回あったことだろうか。おそらく5本の指に入るくらいだろう。
 そのような状況だったものの、最近は、父親が仕事で度々上京するものだから、父親と対面して話をする機会が多くなった。本日は、大塚の「こなから」という店で、酒を飲みながら話をしていた。日本酒の2杯目からだろうか、父親も気分が良くなってきたのであろう、饒舌になってきた。ところが、父親の話は、単なる昔話ではなく、幼い頃の心情の吐露であった。自分のことに関しては寡黙であった父親が、これまでに自分自身のことを、聞いてもいないのに話をすることはまずなかった。いや、こちらから聞いたとしても話すことはなかった。その父親が、自分の心の内を話し始めたのである。どのような幼少期を送ったか、どのような経緯で母親と結婚をしたか、どのようなつもりで仕事をしてきたのか。 私は、父親が生きているうちに話を聞けて、嬉しく思っている。
 やはり、人間は、「プラス+マイナス=ゼロ(ちょっとのプラス?)」と相場が決まっている。世の中には、程度の差こそあれ、また、意識的にも無意識的にも、親との間にわだかまりがあることが多いかもしれない。それは親に対する「思い込み」であったり「コンプレックス」であったり「蔑み」であったり。しかし、親は馬鹿ではない。だてに数十年を生きてきていない(中には何十年たっても「学び」のない方もいるが)。このブログを読んでいる方の中には、親に対して何らかのわだかまりがあり、親を遠ざけている方がいるかもしれない。しかし、その「親を遠ざける」ことによって得られる(一見して)「平穏」という「プラス」には、例えば、親が亡くなり「親と分かりあうことをしなかったことの後悔」という「マイナス」が伴うかもしれない。一方、勇気をもって「親と分かりあう努力をした」という(束の間の)「マイナス」には、その後の親との関係が良好になるという(持続的な)「プラス」が待っているかもしれない。いずれにせよ、人間の人生は「フェア」にできていると思う。

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癒し

 「癒し」というと、商業的意図も絡んで、温泉、エステ、アロマ、懐石料理等々、何か特別な手段によるところが世の中には散見されるが、果たしてどうだろうか。「癒し」とはそのような何か特別な手段を借りないと得られないものなのだろうか。観点を変えると、日常生活の中で得られる「癒し」とはどういうものなのだろうか。
 私にとっての「癒し」の一つは、実は、「温泉」である。ただ、温泉に求める物は、主に身体的癒しであり、また、温泉は遠隔地にあるゆえ、日常生活の中で得られるものではない。私にとっての「癒し」は、「某ガレージ(左写真)」である。
 私は幼いころから自動車が大好きであった。父親が若い頃、2輪・4輪のアマチュア・レーサーであり、また、常に自動車に触れる仕事をしていたことの影響を受け、物心ついた時から自動車が大好きであった。幼稚園児の頃、トンネル内で自動車のバックライトを見ただけで車名を言い当てたくらい、そのくらい好きだった。理由は分からない。ただ、音・デザイン・におい・自動車を扱う場所の雰囲気すべてが、私にとっては心地よいのである。
 したがって、「某ガレージ」に行くと、心が癒される。そこには、常にお客さんが戯れ、自動車談義、人生談義に花が咲く。時には人生相談にも乗ってくれる。(愛情を込めて)不良のおじさん達がメインであり、私などまだまだ若造で、いじられまくりだが、それも心地よい。某ガレージ代表のS氏(写真右)は、私のクライアントでもあるのだが、「Z」が付く前のフェアレディのスペシャリストである。S氏には、フェアレディでも人生でもお世話になっている。仕事を通じて毎日を立派に生きているS氏には、いつも勉強させてもらっている。
 結局のところ、真の「癒し」とは、自分の心の持ちようであると思う。何でもいいから、自分の心が和むような事・場所を見つけられれば良いのだと思う。

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指摘

 言葉で表現することは、時として非常に難しいことであるが、今回は、「指摘」という言葉で表現したい。「指摘」とは、「大切な点や注意すべきこと、欠点や過失などを具体的に取り上げて指し示すこと。」とする辞書がある。「叱責」という言葉もあり、「叱責」とは「失策や怠慢などを叱りとがめること。」とする辞書があるが、個人的には、「叱責」はネガティブなイメージがあり、好きではない。
 今週は、他にも仕事が山積している中で、納期までの時間が短く、(ある意味)難易度の高い仕事に従事していた。ただ、会計専門家にとっては、普通にやればできる仕事である。私は、第一義的には、ベトナム人のアカウンティング・マネジャーのHさんに任せた。Hさんは、「OK. Only one day.(1日で終わるよ。)」と言う。確かに、Hさんならできるだろう、そう思った。ところが、蓋を開けてみると、どうもおかしい。ボロがボロボロ出てくる。私は本日帰国するのだが、この期に及んでボロが出てきた。Hさんの作業の後に2日間程度で終わると想定していたのだが。さすがに、普段はいい顔をしていた私も、今日はHさんに「指摘」した。「この会社にこの取引がないわけがないでしょう。あなたは何をチェックしてたのか。」と。普段は、いちいち「言い訳」をしてくるHさんも、今日はしおらしくしていたのが印象的だったが、結局のところ、Hさんの実力にしては、仕事の質が低かったのである。
 Hさんは会計歴16年のベテランだ。Hさんなら、もっと質の高い仕事ができたはずだと心底思えたから、今日は「指摘」した。そうしたら、Hさんをいたずらに傷つけることなく、結果としては成果を出せた。時には「指摘」も必要なのだなと、心底思えた。「指摘」は「感情の垂れ流し」ではない。「正論」と「事実」がしっかりと噛み合っている時の「指摘」は非常に有効である、そう思えた。ただ、「正論」が分からない相手には「指摘」は無効かもしれない。そのような相手には、「指摘」ではなく、「(単なる)叱責」と映るかもしれない。
 外国で働くということは、ある意味、「鉄下駄」を履いて仕事をするような感じかもしれない。人間として勉強になることが多い。

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フェイ・ダナウェイ

 映画「俺たちに明日はない」で、ボニー・パーカー役のフェイ・ダナウェイは、左写真のように、帽子をかぶっているシーンも素敵だが、私個人的には、ウォーレン・ビーティ演じるクライド・バローと出会った当初のハンバーガーショップでのシーンが印象に残っている。
 フェイ・ダナウェイ演じるボニー・パーカーは美しい金髪でそれだけでも素敵なのだが、クライド・バローと出会った当初は、男性で言えば、「ペタっとした横分け」になっていた。ボニー・パーカーがハンバーガーをかじっている姿をクライド・バローが微笑ましそうに見ていて、ふと、「I don’t like it.」と、髪型を指摘する。それを受けてボニー・パーカーは、手で髪をとかし、よりセクシーな髪型に直したのだった。クライド・バローはご満悦そうであった。
 男性としては、女性が男性の指摘を素直に聞き入れ、男性にとってより魅力的になると、嬉しいものだ。ただし、映画の世界ではなく、日常生活においては、「言い方」に細心の注意を払う必要があり、女性の「面子」を傷つけてはならないことは、言うまでもない。

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お金

 お金の定義は様々であって、どのような観点から定義するかで異なる。会計的にいえば、貨幣的価値で測定できるもののみが会計の対象になるわけだから、お金は会計の基本である。また、お金は、ただそれだけで価値のあるものだから、価値保存機能がある、などという言い方もする。
 ただ、ここでは、そんな観点からではなく、(結局難しい言葉を使ってしまうが)「交換手段」としてのお金に着目してみたいと思う。
 昔は物々交換だった(のだろう)。例えば、A家では大根がたくさん採れる、B家ではみかんがたくさん採れるとするならば、互いに互いのものが欲しかったり、食べきれなかったり、日頃お世話になっているからということで、そこには「交換」があったと思う。もっと言うと、単なるモノの交換だけではなく、「いや~、大根おいしかったよ。ブリ大根にしたら最高だったよ。」とか、「今年のみかんは甘いねえ。気候が良かったからね。」などと、そこには、モノの交換を超えたやり取りがあったに違いない。つまり、極論すると、お金がなくとも、人間として豊かに生きていけた時代があったはずだ。ここではお金自体について語るつもりはなくさらっと行くが、お金は本来、こういうやり取りの「媒体」であるはずだ。確かに、「金融」の発達は必要で、「金融」がなければ世界はここまで発達しなかったと考えられるが、一方で、2008年秋頃からの経済不況を引き起こしたりもする、怖いものである。
 結論としては、現在においても、そのような「気持ち」をもってお金を使ったりお金のことを考えられたら、気持ちが楽になるのではないかと思うし、行動も変わってくるのではないかと思う。これは自分の資金使途を正当化することになるかもしれないが、細かいことは気にせず、気持ちよくお金を使いたいと思っている。ただ、お金を使うというのは「フロー」の概念だから、会計士としては、「貯金」という「ストック」の概念についても十分考察する必要がある。近いうちに、「貯金」について考察してみたいと思う。

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腰パン

 結論から言うと、このようなことをいちいち問題として取り上げることをやめるべきである。日本人は、変なところに厳しく、変なところに甘い。もっと大事なことがあるだろう。腰パンが社会的に問題があるのか。どこの国か忘れたが、開会式での入場行進の際、ビデオカメラを持ち撮影しながら入場する選手がいたが、比較の問題として言うならば、そちらの方が問題ではなかろうか。
 日本オリンピック委員会(JOC)には国際大会での「代表選手団公式服装規程」という決まりがあり、「自覚と誇りを持って選手団公式服装を着用しなければならない」と定められている。 「腰パン」だと、「自覚」と「誇り」に欠けるというのか。
 「若い者は・・・」という人がいるが、年配者にも「???」な人はたくさんいる。何か他人の粗探しをしてそれを指摘するのではなく、ポジティブな現象を願い、もっと前向きな言動をすべきである。
 国母和宏選手の着こなし、恰好良いと思うが。こんな着こなしができて似合う人は、そういないと思うが。個性の範囲内ではなかろうか。

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Django Reinhardt (ジャンゴ・ラインハルト)

 ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt 1910年1月23日 – 1953年5月16日)は、ジャズ・ミュージシャン、ギタリスト。本名ジャン・バティスト・レナール(Jean Baptiste Reinhardt)。ベルギー・リベルシーの出身。ジプシーの伝統音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)の創始者として知られる。ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。1924年、歌手の伴奏でバンジョーを弾く。これが初のレコーディング経験となった。その後ギタリストとして活動。18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左手人差指・小指の動きを失う大火傷を負った(後のギター演奏シーンでは、この2本の指を深く曲げたまま、残った3本の指で演奏している)が、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。1934年にはフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成。映画『ギター弾きの恋』の中でも名前がでている。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。1949年、フランス・ホット・クラブ五重奏団の盟友であるステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)と共にローマに渡り、現地のミュージシャンと共にクラブで演奏していた模様を収めた『ジャンゴロジー』は、傑作として名高い。1953年、フランスで亡くなる。
 他人が軽々しく「逆境」などと言ってよいものか、言葉を慎重に選ぶ必要があるが、多くの人は、上記のような状況に陥ったら、ギターをやめるのではないだろうか。上記の状況を「逆境」と言うならば、ジャンゴは、逃げずに逆境に寄り添った。ジャンゴの上記境遇からすれば、他に選択肢がなかったのかもしれない。いずれにせよ、ジャンゴの演奏は素晴らしい。映画「ギター弾きの恋」に、「俺はジャンゴの次にすごい。」と豪語するギター弾きが主人公で登場するが、彼も、ジャンゴの演奏は「涙なしでは語れない。」と言っていた。なお、この映画自体も興味深い。ギター云々よりも、「本当に大切な人は誰?」を教えてくれる。

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幸福論①

 社会人になってから、「幸せ」とは何かを意識するようになった。以前は、「幸せ」とは、どこか遠くにあるもので、常に追い求めていないと手に入らないものだと思い込んでいたが、最近は、身近にあるものに感謝したり、今充足されているものに満足したり、と、要するに、現時点の自分の状況を肯定的に受け入れられることをもって、「幸せ」だと解釈していた。もっと言うと、そのような幸せが「唯一」の「幸せ」であると考えていた。
 ところが、昨晩、ある最も近しい人物と「幸福論」を展開していたところ、上記の「幸せ」(以下、「幸せ①」という)は確かに大切だが、「幸せ」は「それだけではない」という。どういうことかと説明を求めると、上記の「幸せ①」は自分だけに関する概念であり、「他者」が介在していないから「それだけではない」という。つまり、「幸せ①」がある程度充足されたら、今度は、「他者」をも「幸せ」にすることも考慮に入れた「幸せ」(以下、「幸せ②」という)考える必要があるということだ。なるほど、人間は成長する必要があると考えるならば、「幸せ②」は必要だ。「幸せ②」を目指して、他者と切磋琢磨し、自分を高め、その結果として到達した「幸せ」は、素晴らしい。
 以上をまとめると、「現状を肯定的に受け入れつつ(「幸せ①」)、他者を意識したさらなる高み(「幸せ②」)を目指す。」ということだろう。
 そういえば、高校生の時の担任が常々、「小さくまとまるなよ。」と言っていたのを思い出す。

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うざい

 うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。1980年代のツッパリブームから関東圏を中心に使われるようになり、1990年代には不良以外にも使われ、全国的に普及する。うざいが更に簡略化された『うざ』や、うざいの語感が荒くなった『うぜー(うぜえ)』という言い方もある。
 ある対象を「うざい」と感じるか否かは、人それぞれであろう。また、感じる人その人の状態によっても、「うざい」と感じるか否かが違ってくると思う。例えば、ベトナム滞在中に街を歩いている時を想定すると、自分がほとほと疲れているときには、縦横無尽に走り回るバイクの群衆に対して「うざい」と感じる。やつら全員が敵に思えるくらいだ。一方、自分が何かに満ち足りていて状態の良い時には、それらを「うざい」とは思わない。むしろ、彼ら全員が自分の味方のような気がする。
 
 また、最近はいい意味で自分のことを「うざい」と言ってくれる人になかなか出会えない。自分を過大評価する意味ではないが、いい意味で「うざい」と感じられるかどうかは、その人の「観察力」にかかっていると思われる。したがって、「ただ単に(悪い意味で)うざい」というのでは、「観察力」はまだまだだろう。私自身に観察力があるということをここで言いたいわけではないが、私はいい意味で「うざい」人が好きである。特に、「オタク」と言われる人々が、(気持ち悪くなければ)好きである。「オタク」は凄いものを持っている。誰にも負けない何かを持っているからだ。
 人に不快感を与えたくはないが、いい意味で「うざい」と思われる存在でありたいと思っている。

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自然

 先日、ぼんやりとテレビを見ていたら、永平寺第78代貫首宮崎亦保禅師(故人)が物凄く強烈なお言葉を仰っていたので、思わず聞き入ってしまった。概要は以下の通りである。
人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っていた。
ところが、それは間違っていた。
いつでも平気で生きていられるのが悟りだった。
自然は立派やね。
自然の法則を真似て、人間は暮らす。
時が来たならば、ちゃんと花を咲かせ、
そして、黙って、
褒められても、褒められなくても、
すべきことをして、黙って去っていく。
それが実行であり、教えであり、真理だ。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときがきたら、死ねばいい。
それまで平気で生きていればいいのだ。
 106歳でお亡くなりになった先生(自然と「先生」という言葉が出てきます)の104歳の時のお言葉だったと記憶している。親を亡くして15歳の時に寺に引き取られ、それ以来、禅の道を歩んでこられたそうだ。「平気で生きる。」とは、おそらく、「日々の生活を淡々と生きる。」ということだと解されるが、そのこと自体に意味があるということなのだろう。なんとも、深いお言葉である。

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団塊の世代

 団塊の世代(だんかいのせだい)とは、第二次世界大戦直後の日本において、1947年から1949年までのベビーブームに生まれた世代である。戦後第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。第二次世界大戦後の日本の歩みと人生を共にしており、現在の日本は彼らがあってこそのものである。ただ、明治・大正世代の人間の教育を受けていること、またその特異な人口構成ゆえに、良くも悪くも日本社会の形成に大きな影響を及ぼしている世代である。
 私は、団塊の世代の子供であるので、どうしても団塊の世代について考えざるを得ない。戦後の日本を支えてきたこと、彼らがいるから現在の我々がいること、現在もバリバリ現役の経営者で自分のお客様であること、彼らが引退した後に果たしてバトンタッチができているか等々、話題に尽きない。今後とも、折を見て触れていきたいと考えている。いずれにせよ一つ言えることは、数十年間一生懸命働き、家庭を維持し、子供を育て上げたということだけで、立派である。

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年賀状

 年賀状(ねんがじょう)とは新年に送られる郵便葉書やカードを用いた挨拶状のことである。新年を祝う言葉を以ってあいさつし、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを添えることが多い。親しい相手への場合などには近況を添える。日本では多く取り交わされ、日本に近い韓国、中国、台湾にも似た風習がある。欧米などではクリスマス・カードで新年の挨拶も済ませてしまうので、年賀状の文化はない。
 1年以内に不幸(親族の死去)のあった家からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を遠慮する」旨の葉書を出すことがある。喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀の挨拶ができなくて申し訳ありません」という意味だからである(昨今では喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もいる。一般的には寒中御見舞いのはがきを出すことが多い)。
 今年2月に独立開業し、お世話になったほぼ全ての方々へ年賀状を出すこととしたため、年賀状の数は例年の4倍程度となった。自分自身が戴いて嬉しい年賀状は、「その人らしい気持ち」が伝わってくる年賀状であるため、出すのが遅くなっても、あえて手作りにした。電子メールが発達した今日でも、この手間をかけた作業を大事にしたい。むしろ、「手間をかけて年賀状を作る時間があるということに感謝をするべきである。」と思いつつ、年賀状を作成した。

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Bonnie and Clyde

 ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカー(Bonnie Parker、1910年10月1日 – 1934年5月23日)とクライド・バロウ(Clyde Barrow、1909年3月24日 – 1934年5月23日)からなるカップルである。ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。後にボニーとクライドの犯罪は何度か映画化された。
 仲間を次々失いながら逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路で、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州の警官2名によって、150発を超える銃撃を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて射殺された。
 右写真は、『俺たちに明日はない』 – Bonnie and Clyde (1967) でBonnie Parkerを演じるFaye Dunaway(フェイ・ダナウェイ、1941年1月14日 – 、本名ドロシー・フェイ・ダナウェイ(Dorothy Faye Dunaway))。「Bonnie and Clyde」を描いた映画はいくつかあるようだが、私が忘れられないのは、Faye Dunawayが演じるBonnie Parkerだ。こればかりは好みだが、Faye Dunawayがたまらなく素敵である。顔の表情、しぐさのすべてが、素敵である。
 常々思うのだが、1930年代のアメリカには、美学があったような気がする。街並、ファッション、音楽、大衆文化など、いまだに色褪せないものが多い。「前世」という概念を信じるならば、私は、前世は1930年代のアメリカにいたような気がする。たまらなく懐かしい感じがするからだ。

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NAT KING COLE

 ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 – 1965年2月15日)はアメリカアラバマ州モンゴメリー生まれのジャズ・ピアニスト・歌手。本名:ナサニエル・コール(Nathaniel Adams Coles)、「キング」は愛称。アラバマ州モンゴメリーで生まれ、教会オルガン奏者の母のペリーナから12歳までオルガンを習っていた。1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年に結成したトリオ「Nat King Cole Trio」での活動は有名。 ビッグバンドの時代におけるコールのピアノ、ギター、ベースからなる編成は革新的で、ジャズトリオのスタイルの流行となった。その間、艶のある声を買われて歌手としても活動するに至った。数回の来日経験があり、東京都赤坂の高級キャバレー「ニューラテンクォーター」でのライブショーを行っている。コールは1日にクール(KOOL)を3箱も吸うヘビースモーカーで、コール自身は「タバコは声を低音にする」と信じていた。しかし、歌手としてまだ絶頂時の1965年2月15日に、サンタモニカの病院で肺ガンにより逝去した。
 私が中学1年生の時、当時流行りの「コンポ」を買ってもらった。三菱電機に勤めていた伯父を介して購入したのだが、その伯父が大の音楽好き、しかも戦後の日本人が憧れていたアメリカ音楽が大好きで、コンポ購入と同時に、様々なレコードを貸してくれた。その中でも最も大きな影響を受けたのが、「NAT KING COLE」であった。どの歌も大好きになり、何度も何度も聴いた。高校生のときは、周りの友人がハードロックに酔いしれている中、私はJAZZ BALLADが大好きで、カラオケでもそれを歌おうとするのだが、周りの友人にとっては、「犬が餌を『待て』の状態にされている」が如く耐え難かったらしく、歌っている途中で何度も演奏停止をくらった。
 音楽に関しては、というか、あらゆる面において、周りの友人に迎合することなく「自分らしさ」を通してきたわけであり、数々の衝突もあったが、今ではむしろそれでよかったと思っている。いまだにNAT KING COLEが好きである。

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平岡定太郎

 平岡定太郎(ひらおか ていたろう、文久3年(1863年)6月4日 – 昭和17年(1942年)8月26日)は日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。
 文久3年(1863年)06月 – 播磨国印南郡志方村(現在の兵庫県加古川市志方町上富木)に農民太吉、つるの次男として生まれた。もともと平岡家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だったが、父太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという。神戸の漢学塾・乾行義塾、御影師範学校(現・神戸大学)、二松学舎、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京大学予備門(現・東京大学教養学部)等を経て、
 
明治25年(1892年)07月 – 東京帝国大学法科大学卒業。内務省試補・庶務局。
明治26年(1893年)11月 – 徳島県参事官。
明治28年(1895年)05月 – 栃木県警部長。
明治29年(1896年)12月 – 衆議院書記官。
明治30年(1897年)07月 – 衆議院書記官兼内務省参事官。
明治31年(1898年)04月 – 内務省参事官兼内務事務官。12月 – 広島県書記官。
明治33年(1900年)01月 – 宮城県書記官。
明治37年(1904年)11月 – 大阪府内務部長。
明治38年(1905年)04月 – 大阪府第一部長。
明治39年(1906年)07月 – 福島県知事に就任。
明治41年(1908年)06月 – 樺太庁長官に就任。
大正03年(1914年)06月 – 辞職。
大正04年(1915年)03月 – 横領罪で起訴。
大正05年(1916年)05月 – 無罪判決。
大正09年(1920年)10月 – 東京市道路局長。
昭和09年(1934年)05月 – 詐欺容疑により逮捕される。07月 – 不起訴。
昭和17年(1942年)08月26日 – 死去。
 赤字部分の6年間が空白であるが、ある研究者によると、政党政治を推進していた原敬の政治資金を調達するため、大陸(中国、満州)で麻薬取引等に関与していた模様である。いずれにせよ、非常に優秀な官僚であり、若くして樺太庁長官に抜擢され、そして失脚し、闇社会で暗躍した。波乱万丈な人生であったに違いない。当時、南樺太は日本領、北樺太はソヴィエト領であった。当時の樺太経営はどうなっていたのか。

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三島由紀夫

 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日~1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた。私が記載するまでもなく、彼の作品は素晴らしく、美意識も相当程度に高い。また、彼の英語力も相当程度に高く、特に、語彙が豊富であるとの印象を受けた。また、ボディビルでも有名だが、そのことは、「セルフ・コンントロール能力」が高いことも意味している。とにかく、「優秀」である。
 それでは、「なぜ彼ほどの優秀な人間が自殺したか。」について軽く考えたい。私なりの結論は、「究極の我に入っていた。」ということである。つまり、「愛の欠落」である。彼の成育歴を調べてみると、彼は通常レベルの両親からの愛情を受けておらず、むしろ、祖母などから通常レベルを超えて抑圧されていたと考えられる。そういった人間は、自分のプラス面もマイナス面も、手放しで受け入れることができず、世の中に対してもネガティブな目で見てしまう傾向がある。真実は本人にしか分からないが、現時点の自分を自分自身が受け入れられなかったり、世の中が自分の理想とあまりにも違ったりで、寂しかったのだろうと察する。 
 三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)の父親は、平岡梓(ひらおかあずさ、明治27年(1895年)10月12日 – 昭和51(1976年)12月16日)、日本の農商務官僚)。梓は、父平岡定太郎の影響で、「消極的ニヒリスト」であったと言われている。消極的ニヒリストに育てられた子供はどうなるだろうか。

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