Ebalog

芸術的経営者を追求する、江幡公認会計士税理士事務所の心のブログ

パシュミナ

 パシュミナは、カシミヤ繊維等を糸に紡ぎ、織り上げた、ネパールやインドで伝統的に作られてきたストール・ショールおよびその素材を指す。非常に弱い糸から生地を織り上げるため、インドでは「DIVINE WEAVE」と言われている。 ネパールでは経糸にシルクを使用して織り上げたストールが主になる。一般的なカシミヤストールは、カシミヤ繊維の持つ縮充性を利用してフェルト化させた生地を用いるが、パシュミナストールは、カシミヤ繊維を糸に紡ぎ、織り上げるため、生地が薄く、光沢感が高いと言う特徴を持つ。 近年、そのファッション性の高さから、欧米や日本等の先進国を中心に流行したため、それらの地域ではパシュミナという名称が一般化された。パシュミナストールの素材もまたパシュミナと呼ばれる。伝統的には、パシュミナはヒマラヤ山脈に生息するカシミヤ山羊およびその近似種から採取された素材とされているが、明確な定義が無いため、現在はパシュミナ素材からではないものまでパシュミナとして販売されていることがある。
 「パシュミナ」とは、「パシュミナ・ストール」のことを指すとこれまで認識していたが、上記のように、「パシュミナ素材」のことも意味するということは知らなかった。サイゴンのある店であるパシュミナを手に取り、「この素材はなに?」と店員に質問したところ、「パシュミナ!」と言うから、「う~ん、話がかみ合っていないなあ。」と思ったものだが、そういうことだったのだ。
 そういえば、大学生の頃、冬に開催された合コンで、誇らしげにパシュミナを自慢している女性がいたのを記憶しているが、彼女は今頃、どこで何をしているのだろうか。

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伊藤博文

 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) – 明治42年(1909年10月26日)は、日本の幕末の長州藩士、明治時代の政治家。初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣。元老。
 伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。
 明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
 ただし、日本では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている。また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。
 本日のスーパーモーニング(テレビ朝日、08:00~09:55)で伊藤博文の暗殺について取り上げられていた。常々思うのだが、このスーパーモーニングは、ニュース番組の中で唯一、深度のあるニュース番組だろう。勝手な憶測だが、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんの指導があるのだと思っている。日本経済の不況により、テレビ番組の製作費も削られていると聞くが、それ以前に、ニュース番組には「So what?」という内容のものがほとんどである。確かに、世界各地で起こった様々な事件を伝えること自体に価値はあるが、情報の垂れ流しに終始している番組が多くはないだろうか。その事件を伝えることで何を伝えたいのか。いや、キャスターの気のきいたコメントがほしいといっているのではない。そんなものはほしくない。そうではなく、スーパーモーニングの特集のように、「どのような観点から、どのような所に切り込んでいるか、何を伝えたいか」がはっきりしないと、インターネットが発達し、情報の非対称性が小さくなりつつある現在においては、ジャーナリズムの意味が薄れてしまうように思える。

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セミナー

 ゼミナールまたはセミナー(英: 独: Seminar)は、大学、大学院などにおける演習の事。略称「ゼミ」。科目名としては「演習」「専門演習」などと呼ぶ場合がある。一方的に教員の講釈を聞く講義に対して、教室で少人数で対話や一緒にテキストを読んだ上で議論・報告したり、場合によっては合宿や旅行を行って親睦を図ったりするなど、コミュニケートしながら教員、そして学生同士から何かを学び取る時間である。専門分野の個々の講座のゼミと一般教養ゼミの二種類がある。一般教養ゼミは、包括的なテーマの下に、個々の学際的なゼミ、もしくは個別テーマのゼミがある。いずれも、専門分野、もしくは担当教員の名前を取って、何々ゼミと呼ばれる。これらは、工学部、農学部では、「実習」(Praktikum)にあたる。
 転じて、そのような実りのあるやり方で大学受験に備える事を売りにする受験予備校でも、学校名にこれを入れたりする。代々木ゼミナール、早稲田ゼミナールなど。最近では、公募型で行われる講師対受講者の形式をとって行われるものについて特に「セミナー」という表現が好まれる傾向にある。就活セミナー、投資セミナー、スキルアップセミナーなど。ドイツ語では、「神学校」の意味で使われる事もある。「ゼミナール」(Seminar)の元々の意味は、「種(Same、複数でSamen・転じて精子、子孫)を撒く苗床」の事。
 セミナーにはセミナーのプロがいる。言い方を変えれば、基本的には、「セミナーのプロが、本業として、セミナーをやるべきだ。」と考える。本来は、片手間でできるものではなく、それくらい本腰を入れてやるべきものだと考える。また、本業が別の分野にちゃんとあるのに、「本業から逃げて、教育活動・啓蒙活動にはしる」人が散見される。 一方で、「セミナーに興味がある。」というレベルを超えて上記のようなことも考えつつ、事業としてチャレンジする価値があるもの、セミナーだ。やりがいのある仕事だと思う。
 本日午後、コラボレーション事業の観点から、セミナーのプロとブレストをさせて頂いた。自分の軸は何であり、人のために自分になにができるのか、改めて問われたことになる。

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年賀状

 年賀状(ねんがじょう)とは新年に送られる郵便葉書やカードを用いた挨拶状のことである。新年を祝う言葉を以ってあいさつし、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを添えることが多い。親しい相手への場合などには近況を添える。日本では多く取り交わされ、日本に近い韓国、中国、台湾にも似た風習がある。欧米などではクリスマス・カードで新年の挨拶も済ませてしまうので、年賀状の文化はない。
 1年以内に不幸(親族の死去)のあった家からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を遠慮する」旨の葉書を出すことがある。喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀の挨拶ができなくて申し訳ありません」という意味だからである(昨今では喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もいる。一般的には寒中御見舞いのはがきを出すことが多い)。
 今年2月に独立開業し、お世話になったほぼ全ての方々へ年賀状を出すこととしたため、年賀状の数は例年の4倍程度となった。自分自身が戴いて嬉しい年賀状は、「その人らしい気持ち」が伝わってくる年賀状であるため、出すのが遅くなっても、あえて手作りにした。電子メールが発達した今日でも、この手間をかけた作業を大事にしたい。むしろ、「手間をかけて年賀状を作る時間があるということに感謝をするべきである。」と思いつつ、年賀状を作成した。

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Bảo Đại

 バオ・ダイ(ベトナム語:Bảo Đại、漢字:保大、1913年10月22日 – 1997年7月30日)は、ベトナム阮朝第13代にして、ベトナム最後の皇帝。諱は福晪(晪は日偏に典)。バオ・ダイは治世の元号である保大に由来し、保大帝とも称される。
 1913年10月22日に生まれ、当初諱を阮福永瑞(グエン・フク・ヴィン・トゥイ、Nguyễn Phúc Vĩnh Thụy)といった。フランスで教育を受け、父親である啓定帝が1925年11月6日に崩御するまで宗主国のフランスに住んでいた。1926年1月8日に皇帝に即位し、年号を「保大」としたが、すぐフランスへ戻り、しばらく留まった。バオ・ダイはその治世に、ベトナムの完全独立を許可するようフランスを説得し、改革のために委員会を確立した。1934年には、カトリック教徒で南ベトナム出身の阮友蘭(南芳皇后、ナム・フォン、Nam Phương)と結婚する。
 第二次世界大戦末期の1945年3月には、前年のヴィシー政権崩壊に伴い日本軍がフランス軍を制圧したのを機にベトナム帝国の君主となりフランスからの独立を宣言した。当時の日本軍人の中には、日本へ亡命中の畿外侯彊柢(クォン・デ、Cường Để)をベトナム帝国皇帝に推す者も少なくなかったが、南方総軍や第38軍はベトナム新政権へ不干渉の方針で、「軍政も敷かない」「親日政権への改編もしない」ことを既に決定していたため、バオ・ダイは栄えある独立ベトナム最初の元首の地位を手にした。
 1945年9月2日には、日本軍が敗北してベトミン(Việt Minh、越盟)がベトナム全土を席巻したが、この時にバオ・ダイは退位へ追い込まれた。その後、ハノイ(Hà Nội、河内)でベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)が成立すると、バオ・ダイはホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh、胡志明)によって新政府の「最高顧問」に任命される。しかし、公式の外交代表団の一員として訪中時に亡命、1946年にはイギリスの植民地の香港へ移った。
 1949年にはフランスの支援で、南ベトナムに樹立されたベトナム国(Quốc gia Việt Nam)の元首(Quốc Trưởng、国長)としてベトナムに帰国後、1954年のジュネーヴ会議によって正式にベトナム国元首となった。バオ・ダイは、ゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm、呉廷琰)を首相に指名した。しかし、翌1955年ゴ・ディン・ジェムは国民投票を実施してベトナム国を共和制へと移行させ、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng hòa)が成立すると大統領に就任した。
 バオ・ダイは退任を余儀なくされ、パリへ亡命した。その後はベトナムへ帰国せずにカンヌ付近で余生を送り、1997年7月30日にパリの陸軍病院で死去した。
 さすが、お洒落で、独特の雰囲気がありますね。立場上、時代に翻弄されてしまった面がありますが、彼の人生の本当のところは彼にしか分かりません。不幸かどうかだったなんて、他人が判断できるものではありません。

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イタリア料理-単なる『食』を超えて-

(写真右は、ミラノにあるピザ屋の親方である。左は弟子。ピザ生地作りはまさに職人技であり、「師匠(ししょう)とはマエストロの意味だ。」と説明した上で、「師匠(ししょう)!」と呼びかけると大変嬉しそうであった。イタリア料理は、味そのものだけでなく作った人も喜ばせてくれる。)
 現代イタリア料理の基盤は大変古く、古代ローマ帝国までさかのぼる。当時のローマ人は、食事にかける時間をとても大切にし、当時から1日3食の構成をとり、1食をコース料理にして2~3時間もかけて食事をする習慣があった。さらに裕福なローマ人たちの間で、腕利きの料理人を呼んで料理を客に披露することが流行った。料理人達はそれぞれ競って腕を磨いて新しい料理作りに励んだことで、周辺の国々の追従を許さない優れた食文化が誕生し、これがローマ帝国の発展とともにヨーロッパ各地へと広がっていった。また、チーズもローマ軍の遠征兵士のスタミナ源として携帯されたことが契機となり、同様に欧州各地に広まった。
 イタリア料理は、フランス料理の原型でもある。1533年、フィレンツェの名門貴族であるメディチ家のカテリーナがフランスのアンリ2世に嫁いでパリに移り住む際、大勢のイタリア人料理人や香料師を連れてイタリア料理や氷菓、ナイフ・フォークの使用といったものをフランスに持ち込んだ。それをきっかけにして、当時粗野だったフランスの宮廷料理やテーブルマナーが洗練された。ちなみにフォークの爪は4本だが、これはナポリ王国国王フェルディナンド4世の宮廷でパスタがよくからんで食べやすいように爪の数を増やしたとされている。 このように、西洋を代表して世界三大料理(中華料理、トルコ料理、フランス料理)に数えられているフランス料理は、イタリア料理の影響を受けて成長した。ローマ時代から続くイタリアの食文化が西洋料理の母的存在といわれるのは、こうした歴史によるものといえる。
 滞在先のSAIGONで無性に食べたくなることがあるのがパスタである。あらかじめベトナム人に、「SAIGONで一番うまいイタリア料理の店を教えて。」といって店を教えてもらっていたので見当はついている。SAIGONでの楽しみの一つが食事。昼ごろ起きてすぐに支度をして店(pomodoro)に直行しがっつく。たまにはこういう生活もよいだろう。海外で食べるイタリア料理って、おいしいのです。この店のイタリア料理も、気合いが感じられました。案の定シェフはイタリア人。太っちょで食べるのが好きそうな方です。思わずドルチェもいってしまいました。飲食業、とりわけイタリア料理店のすごいところ-『人を喜ばせてくれる』。ビジネスの原点ですね。

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Bonnie and Clyde

 ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカー(Bonnie Parker、1910年10月1日 – 1934年5月23日)とクライド・バロウ(Clyde Barrow、1909年3月24日 – 1934年5月23日)からなるカップルである。ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。後にボニーとクライドの犯罪は何度か映画化された。
 仲間を次々失いながら逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路で、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州の警官2名によって、150発を超える銃撃を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて射殺された。
 右写真は、『俺たちに明日はない』 – Bonnie and Clyde (1967) でBonnie Parkerを演じるFaye Dunaway(フェイ・ダナウェイ、1941年1月14日 – 、本名ドロシー・フェイ・ダナウェイ(Dorothy Faye Dunaway))。「Bonnie and Clyde」を描いた映画はいくつかあるようだが、私が忘れられないのは、Faye Dunawayが演じるBonnie Parkerだ。こればかりは好みだが、Faye Dunawayがたまらなく素敵である。顔の表情、しぐさのすべてが、素敵である。
 常々思うのだが、1930年代のアメリカには、美学があったような気がする。街並、ファッション、音楽、大衆文化など、いまだに色褪せないものが多い。「前世」という概念を信じるならば、私は、前世は1930年代のアメリカにいたような気がする。たまらなく懐かしい感じがするからだ。

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フェアレディ2000(SR311)

 ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカー。フェアレディZの源流である。
 1967年3月 「フェアレディ1600」に追加されるかたちで「フェアレディ2000」(SR311型)発売。直列4気筒SOHC U20型エンジン(1982cc 145ps/6000rpm)と、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載、発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなった。「フェアレディ」の完成形と後に賞賛されるモデルとなる。ちなみにテレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
✓1967年5月 「第4回日本グランプリ」GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
✓1967年11月 ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。趣味の上では、3月から10月までのモデルは「ロースクリーン」、11月以降のものは「ハイスクリーン」と呼ばれ、区別されている。
✓1968年5月 「第5回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が1-2-3フィニッシュを飾る。
✓1968年7月 SP / SR共に、ソフトトップを持たない、ハードトップモデルを追加。
✓1968年8月 「第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GTS-Ⅱクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
✓1968年11月 ステアリングギアボックス、マフラー、ワイパー、ライセンスプレートランプ、テールランプなどを変更。
✓1969年1月 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79(Raimo Kossila / Pertti Mannonen組)と、同44(Risto Virtapuro / Charles Lindholm組)の二台の「ハイスクリーン」タイプのSPL311でエントリー。
✓1969年10月 「第6回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
✓1969年 後継車種「S30型系フェアレディZ」を発表。
✓1970年生産終了。
 このSP/SRシリーズの最初の車は、フェアレディ1500(右写真)という、どちらかというと優雅な感じのオープンカーでした。右の広告写真をみてもわかるように、女性が一緒に写っており、レースを意識したフェアレディ2000とは異なり、優雅な印象を受けます。上の筆者の愛車はフェアレディ2000であり、前オーナーの趣向によりかなりレーシーな車でした。昨年夏に訳あって手放し、その後再び他のフェアレディ2000を購入し、現在レストア中です。なお、上記のとおり、昭和42年式(通称「ヨンニー」)とそれ以降とでは、特に見た目が大きく変わってしまいました(上記赤字部分参照)。マニアの間ではヨンニーが人気であり、私もやっとのことで再びヨンニーを見つけました。こればかりは御縁なので、ほんと大変なんですよ。
 しかし、なぜこんな古い車に乗るのだろうと、たまにふと考えることがありますが、「理由はなく、いいものはいい。たまらなくいい。」というのが理由です。

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Sài Gòn

 ホーチミン市(越:Thành phố Hồ Chí Minh/城舗胡志明?、英語:Ho Chi Minh City)は、ベトナム最大の都市であり、インドシナ半島有数の世界都市。人物のホー・チ・ミンと区別するため、ホーチミン市またはホーチミンシティと呼ぶ。旧名はサイゴン(越:Sài Gòn/柴棍、中:西貢)で、旧南ベトナムの首都であった。地元住民や旅行者の間ではホーチミン市ではなく現在でもサイゴンという呼称が使われる場合が多い。但し現在のホーチミン市は、チョロンなどの旧サイゴン近隣の町を含めた広域の都市名であり、サイゴンをホーチミン市の中心部(旧サイゴン市の市域)というニュアンスで解釈される場合もある。首都ハノイがベトナムの政治の中心なら、ホーチミン市は経済の中心である。
 何かご縁があるのだろう、今月で10回目の訪越である。いつもSAIGONに滞在するが、HANOIに行くこともある。暗中模索、七転八起、試行錯誤、一進一退といった四字熟語がぴったりの10ヶ月間であったが、中央教会近くの公園のベンチに横になって空を見上げると、木々の葉が強い太陽光線を遮り、青い空と緑の葉とがコントラストをなし、幸せな気分に浸ることができる。こういう時こそ、自分の進路について考えるときであるのが分かっている。ポジティブになれるからだ。「ああ、この歴史あるSAIGON、東洋のパリと呼ばれたSAIGONに、今こうして居るのだなあ。なぜなのだろう。小さくとも1つの世界を作る、自分のファンとも呼べるお客様を作るというのは、容易なことではない。まず、1つの分野を見つけること自体が難しい。『自分はこの道で行くのだと自己暗示が必要』とまで言う人もいる。自分は、おそらく、このSAIGONとしばらくかかわるべきだな。」などと、考えるのであった。

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NAT KING COLE

 ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 – 1965年2月15日)はアメリカアラバマ州モンゴメリー生まれのジャズ・ピアニスト・歌手。本名:ナサニエル・コール(Nathaniel Adams Coles)、「キング」は愛称。アラバマ州モンゴメリーで生まれ、教会オルガン奏者の母のペリーナから12歳までオルガンを習っていた。1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年に結成したトリオ「Nat King Cole Trio」での活動は有名。 ビッグバンドの時代におけるコールのピアノ、ギター、ベースからなる編成は革新的で、ジャズトリオのスタイルの流行となった。その間、艶のある声を買われて歌手としても活動するに至った。数回の来日経験があり、東京都赤坂の高級キャバレー「ニューラテンクォーター」でのライブショーを行っている。コールは1日にクール(KOOL)を3箱も吸うヘビースモーカーで、コール自身は「タバコは声を低音にする」と信じていた。しかし、歌手としてまだ絶頂時の1965年2月15日に、サンタモニカの病院で肺ガンにより逝去した。
 私が中学1年生の時、当時流行りの「コンポ」を買ってもらった。三菱電機に勤めていた伯父を介して購入したのだが、その伯父が大の音楽好き、しかも戦後の日本人が憧れていたアメリカ音楽が大好きで、コンポ購入と同時に、様々なレコードを貸してくれた。その中でも最も大きな影響を受けたのが、「NAT KING COLE」であった。どの歌も大好きになり、何度も何度も聴いた。高校生のときは、周りの友人がハードロックに酔いしれている中、私はJAZZ BALLADが大好きで、カラオケでもそれを歌おうとするのだが、周りの友人にとっては、「犬が餌を『待て』の状態にされている」が如く耐え難かったらしく、歌っている途中で何度も演奏停止をくらった。
 音楽に関しては、というか、あらゆる面において、周りの友人に迎合することなく「自分らしさ」を通してきたわけであり、数々の衝突もあったが、今ではむしろそれでよかったと思っている。いまだにNAT KING COLEが好きである。

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大日本帝國

 大日本帝国(だいにっぽんていこく / だいにほんていこく、旧字体: 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。
 「日本」に「大」と「帝國」が付くと、それだけで「立派」な印象を受ける。それにしても、明治維新後15年弱で憲法を発布し近代化を推進したそのスピードとパワーには感服する。「日本人の意思決定は遅い」などと言われることがあるが、いつからそうなったのでしょうか。

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南洋群島

 南洋諸島(なんようしょとう)は、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々のうち、かつて日本が国際連盟によって委任統治を託された、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦の事を指す。日本政府は南洋群島(なんようぐんとう)と呼称した。
19世紀に弱体化したスペインがグアムを除いた大部分をドイツ帝国に売却する。
1914年 – 第一次世界大戦勃発。大日本帝国参戦、海軍がドイツ要塞を次々に攻略して占領。
1918年 – ドイツ帝国が革命によって停戦。
1920年 – ヴェルサイユ条約によって、国際連盟の委任統治領として、グアムを除く赤道以北を日本に託す。以後、日本は南洋庁を置いて統治を進める。社会基盤を整備したほか、先住民に対しても学校教育を行った。また沖縄県を中心に日本人が多数移住する。南洋拓殖株式会社などが次々に殖産し、砂糖などを日本へ輸出して、貿易は黒字であった。
1935年 – 日本が国際連盟を脱退。南洋諸島を自国領に編入し、台湾・朝鮮などと同様に外地として統治を続ける。
1941年 – 9月24日パラオ放送局、放送開始(短波10kW)。12月8日太平洋戦争が勃発。
1944年 – 米軍の大攻勢が始まり、マーシャル諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島の一部の島が米軍の占領下に置かれる。
1945年 – 日本が降伏する。
 現在も、パラオの年輩の方は日本語を話し、親日的だと言われている。樺太についても言えることだが、善い・悪いは別にして、当時の日本は、ある意味、現在よりもグローバル化していたのではないかと思われる。当時の日本人たちの「視野」の広さは、現在のそれと比べてどうだったのだろうか。海外を意識するほど日本を意識し、視野が広くなるような気がするが。

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樺太庁

 樺太庁(からふとちょう、ロシア語: Южный Сахалин、英語: Karafuto Prefecture)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。
 歴史を遡っていくと、そもそも、樺太はどの国に固有の領土だったのだろうか。歴史の中では、日本とロシアが領有権を争うか交換するかをしているが、南樺太には、「残留ロシア人(ざんりゅうロシアじん)」といって、ポーツマス条約によりロシア帝国から大日本帝国に編入された南樺太に、そのまま残留し続けた元ロシア帝国国民のうち、元からの先住民族を除く者を指す者が住んでいたようである。南樺太は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約により日本に割譲された。それまで住んでいたロシア国民は、そのまま残留するか、北サハリンやロシア本土に引き揚げるか二者択一を迫られた。大半の住民は引き揚げを選んだが、少数の者は残留を選んだ。これが樺太における残留ロシア人の起源である。残留ロシア人は財産権が保証されたため、これまで通りの生活を送ることができた。彼らの多くは自家製のパンを焼き、それを「ロシアパン」と名づけて駅前で販売していた。このロシアパンは当時の樺太土産として知られており、ロシアパンの売り声は樺太の風物詩であった。やがて残留ロシア人は日本人社会と溶け込むようになり、日本人経営の企業や商店に勤務する者を現れた。中にはマルキャン・ボリシコのように日本人女性を妻とし、牧場を経営して日本人を雇うほどの名士も出現した。
 しかしながら、日本人とロシア人が同じ土地に共存するなど、現在では考えられない。ロシアパンの売り声が風物詩?一体どういうことなのだろうか。実は、戦前の日本人は、今よりグローバル化しており、排他性が低く、環境適応能力が高かったのではないだろうか。我々は、歴史の一側面しか見ていないのではないだろうか。どなたか、バランス良く歴史を教えて頂きたい。

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平岡定太郎

 平岡定太郎(ひらおか ていたろう、文久3年(1863年)6月4日 – 昭和17年(1942年)8月26日)は日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。
 文久3年(1863年)06月 – 播磨国印南郡志方村(現在の兵庫県加古川市志方町上富木)に農民太吉、つるの次男として生まれた。もともと平岡家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だったが、父太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという。神戸の漢学塾・乾行義塾、御影師範学校(現・神戸大学)、二松学舎、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京大学予備門(現・東京大学教養学部)等を経て、
 
明治25年(1892年)07月 – 東京帝国大学法科大学卒業。内務省試補・庶務局。
明治26年(1893年)11月 – 徳島県参事官。
明治28年(1895年)05月 – 栃木県警部長。
明治29年(1896年)12月 – 衆議院書記官。
明治30年(1897年)07月 – 衆議院書記官兼内務省参事官。
明治31年(1898年)04月 – 内務省参事官兼内務事務官。12月 – 広島県書記官。
明治33年(1900年)01月 – 宮城県書記官。
明治37年(1904年)11月 – 大阪府内務部長。
明治38年(1905年)04月 – 大阪府第一部長。
明治39年(1906年)07月 – 福島県知事に就任。
明治41年(1908年)06月 – 樺太庁長官に就任。
大正03年(1914年)06月 – 辞職。
大正04年(1915年)03月 – 横領罪で起訴。
大正05年(1916年)05月 – 無罪判決。
大正09年(1920年)10月 – 東京市道路局長。
昭和09年(1934年)05月 – 詐欺容疑により逮捕される。07月 – 不起訴。
昭和17年(1942年)08月26日 – 死去。
 赤字部分の6年間が空白であるが、ある研究者によると、政党政治を推進していた原敬の政治資金を調達するため、大陸(中国、満州)で麻薬取引等に関与していた模様である。いずれにせよ、非常に優秀な官僚であり、若くして樺太庁長官に抜擢され、そして失脚し、闇社会で暗躍した。波乱万丈な人生であったに違いない。当時、南樺太は日本領、北樺太はソヴィエト領であった。当時の樺太経営はどうなっていたのか。

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三島由紀夫

 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日~1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた。私が記載するまでもなく、彼の作品は素晴らしく、美意識も相当程度に高い。また、彼の英語力も相当程度に高く、特に、語彙が豊富であるとの印象を受けた。また、ボディビルでも有名だが、そのことは、「セルフ・コンントロール能力」が高いことも意味している。とにかく、「優秀」である。
 それでは、「なぜ彼ほどの優秀な人間が自殺したか。」について軽く考えたい。私なりの結論は、「究極の我に入っていた。」ということである。つまり、「愛の欠落」である。彼の成育歴を調べてみると、彼は通常レベルの両親からの愛情を受けておらず、むしろ、祖母などから通常レベルを超えて抑圧されていたと考えられる。そういった人間は、自分のプラス面もマイナス面も、手放しで受け入れることができず、世の中に対してもネガティブな目で見てしまう傾向がある。真実は本人にしか分からないが、現時点の自分を自分自身が受け入れられなかったり、世の中が自分の理想とあまりにも違ったりで、寂しかったのだろうと察する。 
 三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)の父親は、平岡梓(ひらおかあずさ、明治27年(1895年)10月12日 – 昭和51(1976年)12月16日)、日本の農商務官僚)。梓は、父平岡定太郎の影響で、「消極的ニヒリスト」であったと言われている。消極的ニヒリストに育てられた子供はどうなるだろうか。

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はじめに

 公認会計士という職業柄、「なにそれ? どういう人? どうして?」の繰り返しであった。ある意味、女性はそうした理詰めの質問に弱いので、「なにそれ? どういう人? どうして?」を妻とのコミュニケーションにおいて連発するあまり、家庭が戦場と化したこともある。
 しかしながら、「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスは、物事を総合的に理解し、一定の結論を出す上で必要不可欠である。これは仕事に限らない。例えば、いま自分が太っているとする。なぜ太っているのか。この問いに対する表面的かつ一面的回答は、「食べすぎ」かもしれない。しかし、「食べ過ぎないようにする」とか「食事を抜く」といったことをすれば解決するのかといえば、そうでない。「なぜ食べ過ぎるか。」が重要である。そこには、必ず「ストレス」の問題がある。じゃあ、そのストレスは何か。仕事か、家庭か、人間関係か。そもそも、なぜストレスに感じるのか。自分の体一つとっても、調べることはたくさんある。
 さて、私は公認会計士という職業もさることながら、幼少の頃から現在に至るまで、「うざい」と言われるほどの、こだわりというか、変な引き出しを持っているようだ。この際、この引き出しを公開し、皆様の何らかのお役に立てないかと考えている。私自身、「世の中に無駄はない」と考えている。「なにそれ? どういう人? どうして?」というプロセスで考えれば、無駄でないことが分かる。「原因と結果の法則」「すべては必然」「魂」「輪廻転生」等々様々な言葉があるが、すべての人間の営みは人間に帰結すると思っている。
 なお、深度ある記載をしたいと考えているが、私自身、勉強不足や経験不足があるため、深度が甘い場合はご容赦頂きたい。深度が甘い場合、「優しく」コメントして頂けると幸いである。 また、インターネットの発展に尽力された方々に深く感謝する。

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会計士EBJとは?

 「EBJ」という文字は、僕の会計人としての原点です。
 監査法人に所属していた時に、監査調書に作成者としてのサインをするのですが、作成者のイニシャルや略称などをサインとするのが一般的でした。
 僕の場合は、「えばじゅん」というニックネームが稀にあったので、「えばじゅん」を英語表記した場合の「EBAJUN」を「E」「BA」「JUN」に分解し、その頭文字である「E」「B」「J」を合わせた「EBJ」を監査調書のサインとしていました。
 すると、先輩会計士の中に、私のことを「イービージェー」と親しみをもって呼んで下さる方々が現れ、僕もその呼称がまんざらでもなくなり、いつしか気に入っていました。今では、仕事道具の鞄に「EBJ」のイニシャルを彫っているほどです。

 そこで、このブログを始める際、当初は匿名でやることにしたので、その主体を「会計士EBJ」としました。
 また、「うざい」と形容した理由は、「うざい」という形容が僕に対する最大の賛辞と捉えているからです。
 すなわち、僕の関係者の中には、折を見て、僕のことを「うざい」と形容する方々がいらっしゃいますが、‘ネガティブな意味で’本当にうざいと思っていたらとっくの昔に関係が終わっているわけであり、うざいと言いながらも関係を続けてくださってのは、決して自惚れるわけではなく、何かしら‘関係を続ける理由’があるからではないか、と考えているのです。
 要は、ニックネームにしろ、僕の形容にしろ、すべて気に入っています。すべてのご縁に感謝してます。今後とも「会計士EBJ」をよろしくお願い申し上げます。

※2009年02月14日は、前職の有給休暇消化期間最終日の翌日であり、当該日を江幡公認会計士税理士事務所の創立日と定めたものである。

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